映画評「キル・ビル」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2003年アメリカ映画 監督クェンティン・タランティーノ
ネタバレあり
製作ばかりで碌に監督することもなかったクェンティン・タランティーノが5年ぶりに発表した話題作。彼のことだから単純な時間軸の作品ではないが、余り凝ってはいない。
結婚式の最中に教われ夫と腹の中の子供を殺され、自らも重態に陥った女殺し屋ウーマ・サーマンが奇跡的に蘇生し、暗殺に関った殺し屋一味に復讐を果たすべく立ち上がる。
という物語で、主婦になっていた黒人女性ヴィヴィカ・A・フォックスをナイフの早業で仕留める開巻直後の一幕は実は二つ目の復讐。
それから時間は遡り、蘇生したヒロインが沖縄に向かい、刀を仕入れる一幕が丹念に描かれる。
何故丹念に描かれるかと言えば、刀匠の名前が服部半蔵であり、演じる役者が千葉真一であり、最初に「深作欣二に捧ぐ」とあれば、容易に理解できよう。即ち、彼の代表作「柳生一族の陰謀」や「仁義なき戦い」への完全なオマージュであるからである。
そして彼の無敵の刀を得た彼女は、東京の町を牛耳る女ボス、ルーシー・リューを殺しに向かう。決闘に臨むヒロインが着ているのが上下のジャージで、これはブルース・リーの「死亡遊戯」。すさまじい決闘の模様は深作作品プラス日本の他のヤクザ映画そのものである。
しかし、僕がこの作品の全体から感じるのは、寧ろマカロニ・ウェスタンのムードである。初期の香港映画ほどチープではないが、日本映画の格調には程遠い。まるでマカロニ・ウェスタンを逆輸入したアメリカ映画の趣なのである。
そうしたオマージュににやにやし、凄まじいスプラッターに些か辟易しながら、退屈せずに楽しむことは出来た。特に終盤の長い決闘場面を冗長にしなかった手腕は評価できる。全体評価としては微妙な部分もあるが、個人的には気取りまくった「パルプ・フィクション」よりは楽しめたと思う。
2003年アメリカ映画 監督クェンティン・タランティーノ
ネタバレあり
製作ばかりで碌に監督することもなかったクェンティン・タランティーノが5年ぶりに発表した話題作。彼のことだから単純な時間軸の作品ではないが、余り凝ってはいない。
結婚式の最中に教われ夫と腹の中の子供を殺され、自らも重態に陥った女殺し屋ウーマ・サーマンが奇跡的に蘇生し、暗殺に関った殺し屋一味に復讐を果たすべく立ち上がる。
という物語で、主婦になっていた黒人女性ヴィヴィカ・A・フォックスをナイフの早業で仕留める開巻直後の一幕は実は二つ目の復讐。
それから時間は遡り、蘇生したヒロインが沖縄に向かい、刀を仕入れる一幕が丹念に描かれる。
何故丹念に描かれるかと言えば、刀匠の名前が服部半蔵であり、演じる役者が千葉真一であり、最初に「深作欣二に捧ぐ」とあれば、容易に理解できよう。即ち、彼の代表作「柳生一族の陰謀」や「仁義なき戦い」への完全なオマージュであるからである。
そして彼の無敵の刀を得た彼女は、東京の町を牛耳る女ボス、ルーシー・リューを殺しに向かう。決闘に臨むヒロインが着ているのが上下のジャージで、これはブルース・リーの「死亡遊戯」。すさまじい決闘の模様は深作作品プラス日本の他のヤクザ映画そのものである。
しかし、僕がこの作品の全体から感じるのは、寧ろマカロニ・ウェスタンのムードである。初期の香港映画ほどチープではないが、日本映画の格調には程遠い。まるでマカロニ・ウェスタンを逆輸入したアメリカ映画の趣なのである。
そうしたオマージュににやにやし、凄まじいスプラッターに些か辟易しながら、退屈せずに楽しむことは出来た。特に終盤の長い決闘場面を冗長にしなかった手腕は評価できる。全体評価としては微妙な部分もあるが、個人的には気取りまくった「パルプ・フィクション」よりは楽しめたと思う。
この記事へのコメント
でも、これもけっこう長いみたいだし、後篇まであるんですよね orz
タランティーノですが、ちょっとジョージ・ルーカスを思い出させます。
スター・ウォーズも、黒澤映画をはじめ、チャンバラや西部劇からのダイレクトな影響が見えて、よく映画マニアがあの場面の引用元はあれだとかいって楽しんでいました。(私はスター・ウォーズには疎遠なままですが)
デビュー作だった「アメリカン・グラフィティ」は、田舎の若い子がぐだぐだしてる一晩を描いていて、これといって山場や落ちがないおはなしでしたし、監督よりは製作が向いていそうなところも似てる気がしました。
タランティーノはやはりちょっとゴダールが入っていて、でもゴダールほど真面目ではなく、おもしろそうな手法を取り入れるだけなところが、ゴダールに失礼な気がしますね。
両方併せれば4時間を超えると大作ですね。
一応誉めているのですが、世間が拝借している作品を「パクリ」と評して貶す傾向があるのに反抗しているところもあるのです。
とは言え、同じことをやってもタランティーノは面白がられ、普通の映画作家は貶されることが多い。それは「パルプ・フィクション」への高い評価がベースとなっていると思うのですが、僕に言わせれば「パルプ」はキューブリックの「現金に罠を張れ」(または「羅生門」)の応用編に過ぎず、過大評価と判断しております。台詞の評価も高いですが、僕は本論と関係の薄い駄弁と思っていて、いつも退屈します。
ゴダールのナレーションや時々挿入されるジャーナリスティックな論議や哲学論議も退屈。
>両方併せれば4時間を超えると大作ですね。
orz
テレビ放映するときは、テレビ局が1と2合わせて2時間くらいに編集してくれればいいんですけどね。(昔はよくやってたはず)
ジャッキー・ブラウン以来避けていたタランティーノが急に気になって、土日にDVD借りて「パルプ・フィクション」観直してみようかと思ってたんですけど、あれも長いんですよ。やっぱり、パスですね、タランティーノは。
(つづきます)
「パルプ・フィクション」ですが、時系列でいたずらするのは、映画は昔からやってましたね。デヴィッド・リーンの「逢びき」や「アラビアのロレンス」はそういうおもしろさがあったし、オカピーさんが取り上げたレッドフォードの「大いなる陰謀」も、異なる時系列で進む出来事が映画の流れでひとつに収斂していくことで、テーマを浮かび上がらせていた。たぶん、他にも、時間の流れを映画の中で編集してしまう手法は使われていると思うんですね。わりとみんなそれを自然に見てしまっていて、そのやり方だけを覚えているということにはなってないだけなんですよ。
「パルプ・フィクション」ですが、かなり前に一度観ただけの記憶で書いてしまうと、時間軸をいじるあざとい技法はともかく、あれはふつうの劇映画ならまず出さないであろう、日常そのまんまみたいなだらだらした会話やおっさんが買い物行くところなどを劇中に出したのが新鮮だったんでしょう。そして、たぶんですが、あの劇中での会話が、アメリカ人にはすごく笑えるのじゃないかな。
たとえが古くなりますが、昔の深夜ラジオでビートたけしと高田文夫がしゃべりながらげらげら笑ってる、あれに近いかんじのおかしさがあるんじゃないでしょうか。私には、「アメリカ人にはおもしろいんだろうな」としかわかりようがないものなんですけれどもね。
アンディ・ウォーホルが、缶詰のパッケージを絵にして美術館に出したときのような新鮮さ、映画への批評のようなものは、あったのかもしれない。
でも、正直ぴんときませんでした。おもしろくなかった。
何となく解ってきたのは、ゴダールもB級的内容をベースに新機軸を打ち出そうとした点で、確かにタランティーノと共通するところがある、ということ。
ゴダールとタランティーノを結びつける発想は今までありませんでした。
実に面白い。
>「逢びき」「アラビアのロレンス」
どちらもデーヴィッド・リーンの傑作ですが、回想という形式で現在と過去とを結びつける。回想は戦前から多くの映画で使われてきた手法でありながら、特に「逢びき」は一般的には好まれないモノローグと併用して逆に成功した珍しい例となったわけですが、タランティーノは回想をベースにした時間操作は自然に見えすぎて満足できなかったのでしょう。
記憶違いでなければ、タランティーノは「レザボア・ドッグス」でキューブリックの初期の代表作「現金に体を張れ」からストーリーを、「パルプ・フィクション」で同作から同じ時間帯の物語を繰り返し見せるというアイデアを戴いた筈ですが、初めて観た時「な~んだ、『現金』の焼き直しじゃん」と一応がっかりした記憶があります。
当時あの二作を「現金」と結びつけた批評家は少なく、素人たる僕は早い方だったと思いますが、インターネットが急激に普及した数年後にはその考えが当たり前のように跋扈していましたね。
続きます。
翻って日本で受けたのは、やはり「現金」を知らない連中があの手法に吃驚したんだと思います。日本でも字幕なしに英語の映画を観られる人が数万人はいるでしょうが、そのうち数千人が観たとしても“駄弁”の面白さだけであそこまで高評価に繋がる筈もありません。
僕も英語は出来る方ですが、やはり日本に住んでいる日本人ですから理解できてもピンと来ない。まして俗語的表現には追い付かないものが多い。
IMDbでどんどん評価が上がって遂に映画史上のベスト10に入ったと記憶する「パルプ」。わがライブラリーで共にあるので時間があったら「現金」と続けて観て観たいと思います。