映画評「木靴の樹」
☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1978年イタリア映画 監督エルマンノ・オルミ
ネタバレあり
エルマンノ・オルミが他にどんな作品を作っているか全く知らないのだが、少なくともこの作品を見る限り正当なネオ・レアリスモの伝統を感じさせる作風である。25年前この作品を初めて観た時、当時まだ日本では劇場未公開でフィルムセンターで鑑賞したルキノ・ヴィスコンティの秀作「揺れる大地」との相似性にも興奮させられたのを思い出す。
時代背景は19世紀末、ある寒村の小作農の4家族の生活が丁寧に描き込まれる。おかげで3時間に及ぶ大長編になっているわけだが、農村風景を描いた場面はまるでミレーの絵画、家の中の場面はレンブラントの絵画のようで、この絵画のようなカットの数々を見続けるだけでも満足できる。
結婚式を挙げた若い夫婦が川を下っていく場面が映像的にはハイライトであろうが、父親が息子の木靴を作る為に木を切り作る場面には思わず胸に熱いものが込み上げた。しかし、それが地主にばれて家を追い出されてしまう。他の3家族は黙って見送るしかない。
映画は淡々と事象を連ねていくだけだが、途中で僅かに挿入される社会主義運動家の演説を農民が聞いている場面を考えると、自ずと理解できるものがある。しかも、その演説の間に小金を拾う男の喜劇的な描写には風刺的な色合いもにじむ。まさに名画である。
1978年イタリア映画 監督エルマンノ・オルミ
ネタバレあり
エルマンノ・オルミが他にどんな作品を作っているか全く知らないのだが、少なくともこの作品を見る限り正当なネオ・レアリスモの伝統を感じさせる作風である。25年前この作品を初めて観た時、当時まだ日本では劇場未公開でフィルムセンターで鑑賞したルキノ・ヴィスコンティの秀作「揺れる大地」との相似性にも興奮させられたのを思い出す。
時代背景は19世紀末、ある寒村の小作農の4家族の生活が丁寧に描き込まれる。おかげで3時間に及ぶ大長編になっているわけだが、農村風景を描いた場面はまるでミレーの絵画、家の中の場面はレンブラントの絵画のようで、この絵画のようなカットの数々を見続けるだけでも満足できる。
結婚式を挙げた若い夫婦が川を下っていく場面が映像的にはハイライトであろうが、父親が息子の木靴を作る為に木を切り作る場面には思わず胸に熱いものが込み上げた。しかし、それが地主にばれて家を追い出されてしまう。他の3家族は黙って見送るしかない。
映画は淡々と事象を連ねていくだけだが、途中で僅かに挿入される社会主義運動家の演説を農民が聞いている場面を考えると、自ずと理解できるものがある。しかも、その演説の間に小金を拾う男の喜劇的な描写には風刺的な色合いもにじむ。まさに名画である。
この記事へのコメント
今年友達がとってくれたBSのビデオでみたのですが、初めは何を伝えたいのかわからなかったです。木靴を作ってやる場面に納得しました。レンブラントの絵画のようというのも、わかる気がします。私も10点満点です。
25年ほど前に映画館で観て映像の力に感銘を覚え、その年のベスト1にしました。夫々のエピソードもなかなか味わいがあるのですが、やはり絵画を思わせる映像に圧倒されます。出来れば、もう一度大スクリーンで観たいものです。また、お越しください。
絵画的要素とリアリズムというのは、映画においては、矛盾する要素なのではないかと思いますが、見事に達成している感じです。
文学的な要素も多分にありますね。
>揺れる大地
フィルムセンターで観た時のタイトルは「大地は揺れる」でしたが、幸いにも日本語字幕がありました。
今観るとどうか解りませんが、当時は興奮するくらい似ているなあ、と思いましたよ。DVDも出ておりますので、最悪買ってでも(笑)ご覧になる価値ありです。
やっとこの日曜日にあらためて観る時間ができました。観終わった後、すぐにもう一度観たくなりました。何度でも観たくなる作品!ネオ・レアリズモの流れをひいているとかどうとかは分かりませんが、とにかく素晴らしい!
記事の中で勝手にP様とP様の文を引用させていただいてます。(事後承諾ペコリ)TBもってきました!
>最初の1時間あたりで寝てしまった作品
じっくり撮られた作品ですから、「さもありなん」です。
これを以って作品として良い悪いは判断できませんね。
>ネオ・レアリズム
僕はこの映画を観る1年くらい前に「揺れる大地」を観たので、非常に似ている印象を覚えたんです。
例によって直感でそう思っているだけですが、
間違いないでしょう(爆)。
>事後承認
まるごと持って行ってくださっても結構です(笑)。
名誉なことです。
素晴らしい作品ですね。
>絵画のようなカットの数々を見続けるだけでも満足
ヴィスコンティや黒澤も絵画的な作品といえそうですが、ヴィスコンティは当時のネオ・リアリズム特有の情緒を大切にしていたように思いますし、黒澤の絵画はポエジックです。
また、ゴダールは自ら印象派の末裔だと称しています。
比して、実に写実、それも自然主義の農民画としての写実、そしてコミュニズムやプロレタリア文学に直結する意味でもやはりバルビゾン派のミレーだと思います。
そういう意味では、おっしゃるように
>社会主義運動家の演説を農民が聞いている場面
ネオ・リアリズモの正統的な後継者でしょうね。たしかに「揺れる大地」と並列できると思います。恐らく、あの一家のその後は「若者のすべて」ということになるでしょう。
映画が第七芸術であることをあらためて認識できますが、オカピーさんは、リアリズムよりストーリー・プロット、絵画より映像テクニック、写実よりファンタジック、芸術より娯楽、である方と、勝手に認識していましたが、この10点、どのような映画価値を見出されたのでしょうか?
オカピー評が実に興味深いです。
いずれにしてもこの作品は素晴らしい。本当に美しかった。
では、また。
>どのような映画価値
現在バタバタとしていてゆっくり答えられません。
が、8月18日にUPした「長江哀歌」の記事にヒントがあるのではないかと思いますので、答えられるまでちょっと参考にしてみてください。
返事が遅れてしまいました。
当方の映画評価傾向の余りに鋭い分析に感心し、その辺りどう返事しようか、或いは簡単なコラムにでもしようかと迷った末に、結局ここで簡単に答えることにしました。後日コラムにでもしたためたい興味深い問い合わせでしたよ。
>リアリズムよりストーリー・プロット
全くその通りですね。どちらにしてもそこに実際の人間が感じられないようでは良い作品とは言えないと思います。
>絵画より映像テクニック
概してそうですね。
映画の最大の特徴は劇画のような非連続的なものでも、舞台のような現実に近い連続性でもなく、適度な連続性です。映画を映画たらしめるこの特性を生かしたものが一般的に優れたものと考えてします。
>写実よりファンタジック
そうですね。
但し、ファンタジーの中に現実が見えないのはダメです。
逆に大きな興奮を感じさせるような写実は結局映画ならではの夢に我々を誘いますから、その差は実は微妙なものです。
(続く)
これは非常に難しいのですが、一般的な語義から言えばそういう傾向にあるでしょうね。
但し、僕の考える映画の対立軸は娯楽対芸術というより、娯楽対文学です。所謂芸術寄りと言われる作品の多くは実は文学的なテーマを映画に移していると思うわけです。
娯楽映画も文学寄り映画も実は大きな主題や狙いにより構成されています。その主題をいかに効果的に描くか、その狙いをいかに正しく表現するか、そのプロセスや表現方法即ち技術が、僕にとっての【映画芸術】です。
【芸術】という意味は分野ごとに異なる。映画においてはその過程の美しさ即ち達成度こそ芸術であり、僕にとって評価の基準はそこにあります。
映画の評価において大事なのはテーマではありません。テーマが一番大事とされるべきは文学であり、僕が常々「映画は文学的すぎてはいけない」というのはほぼその意味です。
(さらに続きます)
従って、映画を評価する前提は主題と狙いを正しく見極めること。このスタートを誤っては正しい評価はできず、逆にテーマも狙いも碌に解らないような作り方では高い評価も与えにくい、というのが僕の考えです。
そして、ストーリーか撮影か、或いはトムさんがご指摘した対立関係においてもバランスを保って対峙する。そのバランスは極論すれば映画一本一本により変わりますからその辺りをよく見極め、極端に走っていない限りはその範囲で正確に判断しないとならないでしょう。
例えば、「第三の男」は物語を表現する為に映像が考えられたのではなく、映像のレトリックを極める為に単純なストーリーが用意された映画であるということをきちんと理解しないと、正確な評価を与えられないのではないでしょうか。
不躾な質問すみませんでした。また、ご丁寧なご回答、感動的です。
>簡単なコラム
これは、オカピーブログの理解を深めるうえでも、たいへん素晴らしい企画ですよ。是非是非。
>実際の人間が感じられないようでは良い作品とは言えない・・・
まったくです。逆に言えば、そこがちゃんと描かれていれば、どのような体系でも傑作になり得ると思います。
>劇画のような非連続的・・・舞台のような現実に近い連続性でもなく・・・
これも良くわかります。ヌーヴェル・ヴァーグや溝口などの長回しなど、ひとつ間違えれば、駄作になってしまいますよね。
>ファンタジーの中に現実が見えないのはダメ・・・大きな興奮を感じさせるような写実・・・
ここもオカピー評の柔軟で深いところでしょうか。複雑なものを複雑なままポイントを抑える。本物と偽物の違いを見極める大切な発想のような気がします。
>娯楽対芸術というより、娯楽対文学
映画自体が文学と類似しているわけですから、映画ならではの価値を考えるとき、ここははっきり見極めるべきでしょうね。かなり意識しないと混乱してしまうように思います。
>映画においてはその過程の美しさ・・・
確かに美しさの表現が大きな目的であることに映画芸術の定義は当てはまるように思います。
>評価において大事なのはテーマではありません。
わたしはテーマの表現から受けたものが自分にとっての想起(喚起)に結びつくと感動してしまいます。確かに現代文化としての特徴が、つまり作り手が意図している以上の素晴らしさが生まれるのも映画特有のもの。文学や舞台を視覚映像に再現しただけでは映画ではないかも。
>プロレタリア階級の苦闘と歴史的現実・・・絵画的な表情・・・
映画の可能性や素晴らしさがこの作品からはほとばしり出ていますよね。映画ファンでよかったと思います。しかも映画絵画としてはかなり斬新だったのでは?
>主題と狙いを正しく・・・対立関係においてもバランスを・・・
このような映画的な見極めは大切ですよね。総合芸術として多くの分野を集約・統合した特徴があり、しかし、それらのどれとも異なるものですから批評も難しい。
う~む、わたしの質問は、まさに愚問、オカピー評はそんな単純なものじゃないですね。
では、また。
どんなコメントも結構ですので、躊躇せずにお願いします。
世の中はバランスが大事ですが、映画批評は正にその究極ではないかと日々思っておりますね。
例えば、「物語はダメだが映像は素晴らしい」で高評価してはいけないでしょう。多少評価を上げるのは当然ありうるわけですが。
>文学や舞台を視覚映像に再現しただけでは映画ではないかも。
概ねそう言っても間違いではないと思いますね。
しかし、僅かな変更で文句を言う原作ファンが多いのも事実。これは啓蒙しないといけないと思っているんですけど(笑)。
このイタリアの名匠エルマンノ・オルミ監督の「木靴の樹」の中にこんなシーンがあります。
「ほう、トマトじゃないか。もう出来たのか」と、じいさんのお得意先の街の商店主が、驚きの声をあげます。
そこへ、人々がもの珍しげに寄って来ます。
通行人もびっくりしたように、普通より2週間も早く現れた赤いトマトを振り返るのです。
このシーンを観て、一年中トマトが食卓にのっている事が当たり前だと思っている人々が何も感じなかったとしたら、その人は世界が絶賛した、この「木靴の樹」という映画が語る世界には無縁の人なのかも知れません。
この映画はそれに先立って、じいさんが半年前、雪の降る夜中に起き出して畑に鶏糞を埋めるところを見せます。
牛小屋の隅にトマトの種子をまいた箱を置き、数センチに育った苗を植えるところも見せます。
人間が生活を営むというのは、まさにこういう生き方をいうのだろうと思ってしまいます。
北イタリア、ミラノ北東のベルガモのある農園。
19世紀末なので、分益小作農の時代。
小作農民は収穫の3分の2を地主に納めなければならないから、彼らは皆一様に、恐ろしいくらいに貧しいのです。
ラストでここを追われる一家の、家具といえば小さな馬車に簡単に乗ってしまうだけのもの。
それなのに、子供だけはたくさんいるのです。
物質的な繁栄を一途に追い求めて来て、それに成功したかに見える日本を含む先進国から見ると、これが果たして人間の暮らしと言えるのだろうかと、いう事になるのかも知れません。
だが、みじめであるはずの彼らの暮らしが、ひょっとしたら我々の今の日々よりましなのではないか----と、ふと感じてしまうのです。
電気もないから、当然、電化製品は一切ありません。
履物は木靴。
だが、例えば、共同住宅に住む4家族が夜になると厩舎に集まり、語り合うのです。
楽しい話も、怖い話もあります。
こんな交流が果たして今の我々にあるだろうかと考えてしまいます。
町の紡績工場に働きに行く娘が、若者に見初められ結婚するエピソードがあります。
彼らのハネムーンは、近くのミラノの修道院ですが、そこで1歳の孤児を引き取って帰って来ます。
異常なはずのこの出来事が、全く淡々と描かれ、自然に納まるところに納まっていきます。
このエピソードが示しているように、彼らは"常に神と共にいる"のだと思います。
よく祈るし、ふだんの会話にもしばしば神の話が出て来ます。
このように、神というものを信じられた頃の人々は、物が豊かになった代わりに、信じるものを失った、今の我々よりも遥かに豊かだったのではないかとさえ思えてきます。
小作農の4家族の1年が、静かに語られていくこの映画「木靴の樹」は、さり気ない表現のようで、実に丹念に細やかに演出されていると思います。
それは、ライトを一切使わず、自然光と油灯の明かりだけで撮影されているのにもかかわらず、これほどの繊細で奥の深い画面を作りだしている事からもうかがえます。
ドラマティックな描写というものに慣らされた、今の人々にとって、この映画が持つ"ストイシズム"は、観初めの段階では、一見、異様に映るかも知れません。
しかし、世の中の多くの市井の人間は、こんなふうに一生を送るはずなのかも知れません。
とにかく、一度は観るべき価値のある、"透徹したリアリズム"に満ちた作品だと思います。
尚、この映画は全世界で絶賛され、1978年度のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドール、世界化運動審査員賞を、また同年のフランスのセザール賞の最優秀外国映画賞を、ニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀外国映画賞を、それぞれ受賞していますね。
>"ストイシズム"
>世の中の多くの市井の人間は、こんなふうに一生を送るはずなのかも知れません。
僕も、こういう波乱万丈のない映画を語る時、よくこんな感じの措辞を使います。