映画評「戸田家の兄妹」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1941年日本映画 監督・小津安二郎
ネタバレあり
資産家・戸田家の当主が急死すると、残された老母(葛城文子)と未婚の三女(高峰美枝子)が邪魔者扱いされる。天津へ赴任していた次男(佐分利信)が帰国した際その事実に気が付き、当主となった長男(斎藤達雄)とその妻(三宅邦子)、未亡人の長女(吉川満子)、次女(坪内美子)とその夫に食ってかかり、天津へ来ないかと呼びかける。
たったこれだけのお話なのに小津安二郎はやはり凄い。見事に面白いのである。テーマとしては家族の非人情で、戦後の「東京物語」に似ている要素がある。
母が眠れないのでピアノを止めてほしいと三女が長男の嫁に言うと、彼女は「お互いに言いたいことがあるのだ」と高圧的な態度に出る。二人がいづらくなり家を出て長女の家に行くと、仕事をしたいという三女は戒められ、息子の不登校の件で老母が追及され、結局老朽化した別荘へと二人は追いやられる。このシークェンスが特に巧く、何気ない会話などであっさりと進める小津の演出の鮮やかなこと。
普段家にいない次男だけが家の格式や世間体に縛られず、一方で最も人情的である。両親に面倒を掛けてきたという思いがあるのがそこはかとなく感じられる。親に面倒をかけたという思いが小津自身にあり、この次男に自らを投影したと思われるのだが、残念なのは「東京物語」に比べ次男が家族を非難しすぎて余韻が薄れたのではないかということ。戦後の小津なら黙って家族の非情を訴えただろう。それでも相当素晴らしい出来栄えである。
1941年日本映画 監督・小津安二郎
ネタバレあり
資産家・戸田家の当主が急死すると、残された老母(葛城文子)と未婚の三女(高峰美枝子)が邪魔者扱いされる。天津へ赴任していた次男(佐分利信)が帰国した際その事実に気が付き、当主となった長男(斎藤達雄)とその妻(三宅邦子)、未亡人の長女(吉川満子)、次女(坪内美子)とその夫に食ってかかり、天津へ来ないかと呼びかける。
たったこれだけのお話なのに小津安二郎はやはり凄い。見事に面白いのである。テーマとしては家族の非人情で、戦後の「東京物語」に似ている要素がある。
母が眠れないのでピアノを止めてほしいと三女が長男の嫁に言うと、彼女は「お互いに言いたいことがあるのだ」と高圧的な態度に出る。二人がいづらくなり家を出て長女の家に行くと、仕事をしたいという三女は戒められ、息子の不登校の件で老母が追及され、結局老朽化した別荘へと二人は追いやられる。このシークェンスが特に巧く、何気ない会話などであっさりと進める小津の演出の鮮やかなこと。
普段家にいない次男だけが家の格式や世間体に縛られず、一方で最も人情的である。両親に面倒を掛けてきたという思いがあるのがそこはかとなく感じられる。親に面倒をかけたという思いが小津自身にあり、この次男に自らを投影したと思われるのだが、残念なのは「東京物語」に比べ次男が家族を非難しすぎて余韻が薄れたのではないかということ。戦後の小津なら黙って家族の非情を訴えただろう。それでも相当素晴らしい出来栄えである。
この記事へのコメント
家の事は女に任せる・・と、いう姿勢なのか、「嫁」と「姑・小姑」の間にまったく男が入ってこないんだな~と思って観ていました。
ちょっと意見すれば丸くおさまるのでは?と思ったり。そんな単純な事ではないか・・。
私は今のところ「嫁」という立場なので、複雑な気持ちでこの映画を観ました。出来れば老後は、子どもたちとは住まずに夫婦二人で気楽に暮らしたいものです。
なんか全然映画の感想じゃないですね・笑
>なんか全然映画の感想じゃないですね
映画も芸術ですから、一応批評なんてものがありますが、本来自分の人生に照らし合わせて観れば良いんですよ、ある種類の映画は。
日本の映画監督が得意としているのはこちらのタイプ(もう一つは特殊な人々を扱う、例えばスパイもの)。
恐らく、小津が本作で狙ったものは、女性たちの関係を通して、近親者の灯人情を描くことだったと思いますよ。
表面的には嫁と姑・小姑の対立ですが、そこに長男の無関心を加えることで、その主題になっています。一般のドラマではどちらかに加担することで、通俗的な関心を呼び起こそうとしますが、小津はそこには余り興味がないと見ました。
環境(省エネ)と子供の教育を考えると、大家族の方が理想的。尤も僕らの世代の親はまるでなっとらんので教育的効果は望めませんがね。^^;