映画評「山猫」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1963年イタリア=フランス映画 監督ルキノ・ヴィスコンティ
ネタバレあり
ルキノ・ヴィスコンティは貴族出身の共産主義信奉者という極めていびつな背景を持っていたイタリアの大監督である。
映画監督としてスタートして暫くは自らの関心に従って社会の底辺層を描いていたが、初めて貴族の世界を描いた「夏の嵐」から10年後自らの所属している階級をぐっと本格的かつ低回的に描いたのが本作である。以前観たものは160分版で、今回観たのは186分の完全復元版。
1860年、教科書でもお馴染みのガリバルディ率いる赤シャツ隊(義勇軍の一つ)がシチリア島に上陸する。島を300年間支配してきたサリーナ家の当主ドン・ファブリツィオ公爵(バート・ランカスター)は争乱を憂えるが、息子のように可愛がっている甥タンクレディ(アラン・ドロン)は義勇軍に身を投じ、自ら新しい世界に飛び込んでいくのだ。
彼らの統一運動の結果シチリアはイタリア王国に組み込まれ、公爵も現状を諦観するしかない。
原作はシチリアの貴族トマシ・ディ・ランペドゥーサが唯一遺した自伝的小説で、自らイタリアの名門貴族であるヴィスコンティとしてはその落日ぶりに大変共感を覚えたのに違いなく、油絵で何度も絵の具を重ねていくようにこれ以上考えられないほどじっくりと場面を重ねて映画化している。
一見冗長と思われる部分もあるが、古い権威が新しい要素に置き換えられていく、そうした時代における老貴族の心境を描くにはこの程度の長さは必要と理解すべきである。
彼の甥は自ら来るべき世界を期して闘い、その象徴である新興ブルジョワジーの娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)と結ばれ、舞踏会で二人が踊り、また彼女と公爵が踊ることは二つの全く別の価値観を持つ新旧貴族の対比に他ならない。
貴族が内部から崩壊していることにも公爵は気付く。そこにいる貴族の娘達は醜悪極まりない。舞踏会を終え街路を歩く公爵は自らの死を希望する。
この作品の現代版が「家族の肖像」であることが見直して改めて解り、ダブらせて観ているうちに幕切れで感極まってしまう。
まがいものは使わないと言われる衣装・美術を含め、舞踏会場面の豪華絢爛さは、圧巻。ヴィスコンティ自身の後年の作品でもここまでの重量感は見ることはできない。だからこそ、そこから滲み出す主人公の悲しみも深いのである。
バート・ランカスター、クラウディア・カルディナーレからかかる上流階級のムードを醸し出させた演出力が凄いが、その中でも特にお気に入りはアラン・ドロン。僕のかつてのアイドル、アルセーヌ・ルパンを演じられるのは後にも先にも彼しかいなかったと、この作品を観て再確認した。
1963年イタリア=フランス映画 監督ルキノ・ヴィスコンティ
ネタバレあり
ルキノ・ヴィスコンティは貴族出身の共産主義信奉者という極めていびつな背景を持っていたイタリアの大監督である。
映画監督としてスタートして暫くは自らの関心に従って社会の底辺層を描いていたが、初めて貴族の世界を描いた「夏の嵐」から10年後自らの所属している階級をぐっと本格的かつ低回的に描いたのが本作である。以前観たものは160分版で、今回観たのは186分の完全復元版。
1860年、教科書でもお馴染みのガリバルディ率いる赤シャツ隊(義勇軍の一つ)がシチリア島に上陸する。島を300年間支配してきたサリーナ家の当主ドン・ファブリツィオ公爵(バート・ランカスター)は争乱を憂えるが、息子のように可愛がっている甥タンクレディ(アラン・ドロン)は義勇軍に身を投じ、自ら新しい世界に飛び込んでいくのだ。
彼らの統一運動の結果シチリアはイタリア王国に組み込まれ、公爵も現状を諦観するしかない。
原作はシチリアの貴族トマシ・ディ・ランペドゥーサが唯一遺した自伝的小説で、自らイタリアの名門貴族であるヴィスコンティとしてはその落日ぶりに大変共感を覚えたのに違いなく、油絵で何度も絵の具を重ねていくようにこれ以上考えられないほどじっくりと場面を重ねて映画化している。
一見冗長と思われる部分もあるが、古い権威が新しい要素に置き換えられていく、そうした時代における老貴族の心境を描くにはこの程度の長さは必要と理解すべきである。
彼の甥は自ら来るべき世界を期して闘い、その象徴である新興ブルジョワジーの娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)と結ばれ、舞踏会で二人が踊り、また彼女と公爵が踊ることは二つの全く別の価値観を持つ新旧貴族の対比に他ならない。
貴族が内部から崩壊していることにも公爵は気付く。そこにいる貴族の娘達は醜悪極まりない。舞踏会を終え街路を歩く公爵は自らの死を希望する。
この作品の現代版が「家族の肖像」であることが見直して改めて解り、ダブらせて観ているうちに幕切れで感極まってしまう。
まがいものは使わないと言われる衣装・美術を含め、舞踏会場面の豪華絢爛さは、圧巻。ヴィスコンティ自身の後年の作品でもここまでの重量感は見ることはできない。だからこそ、そこから滲み出す主人公の悲しみも深いのである。
バート・ランカスター、クラウディア・カルディナーレからかかる上流階級のムードを醸し出させた演出力が凄いが、その中でも特にお気に入りはアラン・ドロン。僕のかつてのアイドル、アルセーヌ・ルパンを演じられるのは後にも先にも彼しかいなかったと、この作品を観て再確認した。
この記事へのコメント
すばらしい作品でしたね。「本物」とは、
ヴィスコンティ自身なのかもしれませんね。
初めまして。コメント有難うございます。
正にヴィスコンティこそが本物ですね。あの舞踏会に出演したエキストラも大半が本物の貴族だそうです。ヴィスコンティらしい拘りです。
>ぶーすかさん
こんばんは。
それは惜しかったですね。私はハイビジョンで放映されたら、もう一つ保存版を作ろうかなと思っています。やらないかな。
実はランカスターも良いなあと思ったのですが、彼は「家族の肖像」で絶賛しましたので、アラン・ドロンを取り上げました。「山猫」のドロンこそ私のアルセーヌ・ルパンのイメージなのです。本当に観たかったなあ。
「海猫」の次に「山猫」をUPしたのは一種の洒落ですが、どなたか気付いた人はいませんか。本当は、「海猿」「海猫」「山猫」「山猫は眠らない3」と出来れば最高でしたが。
ヒッチコックご教授ありがとうございます♪
(観る映画が偏っているため古い名作程よくしらない人間です)
山猫の記述があったので出てきました。
私この映画大好きです。一昨年映画館で観てポーっとなりました。
舞踏会でのワルツの場面が本当に素晴らしく優雅で。
偶然4年ほど前にシチリアを旅行していたのですが、その時観た景色とあまり違いがないところも感慨深かったです。
あ、ちなみに4月に海猿2の試写会に行く予定です(笑)
私は欧州は行ったことがないので、羨ましいです。
洋画は極力全て、邦画は好きな監督を中心に観ております。古い映画の方が映画文法がしっかりしているので、好きです。
以前「犬猫」という映画も取り上げましたので、並べると壮観ですね(笑)。
こんばんわ。TB、コメントありがとうございました。わたしもTBさせていただきました。
>『山猫』のドロンこそ私のアルセーヌ・ルパンのイメージ
とのこと。
わたくしも前々から、そう思っていたんですよ。
彼はクラシック、つまり古典がよく似合う俳優だと思います。ですから、『ルパン』以外にも『ドラキュラ』や『ジキルとハイド』など、古典の名作に、もっと出演して欲しかったと思っています。
そういう意味では『ゾロ』や『世にも怪奇な物語』のウィリアム・ウィルソン、多くのフィルム・ノワール作品などは、はまり役だったと思っています。
ところで、最近、色々なブログでオカピーさんのコメントに出会います。わたくしの映画の嗜好と似ているのでしょうか?
非常に愉快です。
用心棒さんやジューベさんのところでお会いしましたね。基本的に古い映画をとても大切にしている方たちばかり。映画に対する愛情と探究心が深く、文章も大変うまい。おかげで自分が<井の中の蛙>であったことを思い知らされました。
ルパンを演ずるにはやや陰もある貴族の末裔的な雰囲気が重要だと思うのですが、ロマン・デュリス(先般の「ルパン」でのルパン役)では散文的でお話になりません。尤も未見ですけど。
「ゾロ」は展開は荒かったですが、ドロンは良かったなあ。「黒いチューリップ」は最近観ていませんが、結構好きですね。
うかつだったのですが、ジャック・ベッケル監督の『怪盗ルパン(Les Aventures d'Arsène Lupin)』があったのを忘れておりました。わたくしは、未見ですが、いつか観たいと思っております。残念ながらDVDもビデオも販売されていないようです。
しかし、かのベッケル監督ですから、期待できそうな気がしており、DVD化を強く期待しています。
かつて『ベルモンドの怪盗二十面相』というルパンのパロディ作品が公開されたときのことを思い出しました。わたしは、オカピーさんと同様にドロンにルパンを演じて欲しかったので、ライバルのベルモンドに先をこされたような気がして(作品は、本来のルパンのイメージとは全く異なるドジな泥棒のコメディでしたけれど)、くやしい気持ちになっていたことを思い出します。
オカピーさんは、ドロンのルパンが実現していたら、監督は誰が理想ですか?
わたしは、なんと言ってもジュリアン・デュヴュヴュエ監督に演出して欲しかったです。
ベッケルの「怪盗ルパン」は私も観ていません。ベッケルはタッチの良い監督ですので、確かに期待できますね。ルパンはイメージが出来ているので、怖い感じもしますが。
「ベルモンドの怪盗二十面相」・・・そんな映画もありましたね。ベルモンドとは古い付き合いのフィリップ・ド・ブロカが監督でしたが、全く記憶に残っていないところを見ると、大したことはなかったのでしょうか。
古典的なムードを出せ、洒落っ気があり、流れるような文体を誇るデュヴィヴィエで文句なし。スリラーにも実績がありますし。
舞踏会の撮影現場はたぶんに汗と体臭と蝋燭の臭いで充満していたことでしょう。
ところで、ルパン役はアラン・ドロン、同感です。れいの100周年紀念ルパンを観て思いました。眼帯をしたタンクレディはルパンですね。
>体臭と蝋燭の臭い
あははは、何とも冷静な。
>タンクレディはルパン
ご賛同有難うございます。
ドロンのルパンを見たかったファンが案外多いのではないかという気がしてきました。
オカピーさんの「山猫」と「若者のすべて」に直リンさせてもらってます。
我流の公式に当てはめすぎたり、また、ルネ・クレマンをからませたりして、ちょっと疑問点も多くあるかもしれませんが、久しぶりに「山猫」を鑑賞して、自分なりに考えたところを記事にしてみました。
大江健三郎さんの本とオカピーさんのヴィスコンティ評を参考にして、ちょっといつもより力が入り、更に読みにくい記事になっています(笑)。TBさせていただきました。
いずれにしても、思うのは、ヴィスコンティは、初期の作品から順序よく整理していかないと、本質が見えてこないです。
どうしても絢爛豪華な貴族趣味に酔ってしまうことに軽薄な人気が出てしまって少し残念です(とはいえ、わたしもそこに魅力を感じてしまうのですが)。特に日本では「郵便配達は二度ベルを鳴らす」や「揺れる大地」「若者すべて」(これはドロン人気も手伝って鑑賞されている方ですが)などよりも、後期の貴族趣味映画ばかり、取り上げられていますよね。
でも、今回、ヴィスコンティの本質は首尾一貫していたんだとちょっと無理な理屈もあるかもしれませんが、わたしなりに理解してしまいました。一般論にはなかなかならないかもしれませんが・・・。
オカピーさんの参否の意見もお聞きしたいです。
では、また。
>ヴィスコンティの本質
直感的に、敗北を描き続けることでヴィスコンティは一貫していたと僕は思っていますが、そこから一歩踏み込んで、貴族の敗北を描くことで下層階級の勝利を逆説的に描いた、というトムさんの説は大変面白いです。
ヴィスコンティは勝利を描けなかったのでしょうか、それとも描かなかったのでしょうか?
トムさんは以前描けなかったのではないかと仰っていましたが、今回の説では敢えて描かなかったようにも理解できます。
作家というものはなかなか変わらないもので、フェリーニも華麗なるファンタスティックな映像世界に入ったように思われていますが、フェリーニを支えていたのはやはりスタート地点と同じくリアリズムだと思うんですよね。
戦闘の場面は迫力がありました。そして食事の場面が豪華でした!
舞踏会の場面。「出席者のほとんどが本物のシチリア貴族の末裔」だそうです。
>舞踏会を終え街路を歩く公爵は自らの死を希望する。
寂しい幕切れでした。
>まさか蟷螂の斧さんではないでしょうね?(笑)
そうかもしれません(笑)。昭和53年に買った赤盤(アナログ)がまさにそうでした。
>「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のリミックスでは、ジョンのヴォーカルを左右に移動させるという遊びがなくなり
これまた僕みたいに(苦笑)その遊びを好む人もいます。先日話題にした「Any time at all」がそうでした。
>国の機能は早めに分散しておいた方が良いと思いますねえ。
全く同感です。
>寂しい幕切れでした。
これと同じような気分で終わるのが、12年後ヴィスコンティ晩年の「家族の肖像」です。主演は同じくバート・ランカスター。
「山猫」より良さが解りにくい作品です。僕も映画館で初めて観た時は全くピンと来なかった。
>これまた僕みたいに(苦笑)その遊びを好む人もいます。先日話題にした「Any time at all」がそうでした。
夫々の良さがあるので両方聴くと良いと思います。
僕の場合は、遊びを楽しむならがオリジナルを、楽曲の良さを徹底して味わうならリミックスという感じになりますね。
初期の4枚のLP(のCD)は僕が買った時モノラル版しかなかったので、今年の夏にステレオ版をダウンロードしてCDを作りました。
最初の2枚は右チャンネルにヴォーカルがあり、続く2枚はセンターになっていました。久しぶりにステレオ版を聴いたので、思わぬ発見をした感じ。
その3枚目に入っている Any Time at All の遊び?
3回繰り返されるうち2回目の Any time at all だけポールが歌っていることですか?
>Any Time at All の遊び?
「♪I'll be there to make you feel」の後で「right If you're feeling sorry and sad 」の部分。右に行ったり左に行ったり。ヘッドフォンで聴くと面白いです。赤盤(レコード)です。
>ステレオ版をダウンロードしてCDを作りました
通ですね~!
>12年後ヴィスコンティ晩年の「家族の肖像」です。
一度も見た事がないです。
>ヴィスコンティ自身の後年の作品でもここまでの重量感は見ることはできない。
>だからこそ、そこから滲み出す主人公の悲しみも深いのである。
「なんだかヴィスコンティ先生の御心境を拝聴してるみたいな気分になるデス。」と双葉師匠が最後にまとめています。
>Any Time at Allの遊び?
>赤盤(レコード)です。
赤盤というから前期ベストのことかと思いましたが、この曲は入っていないので、赤いレコード盤のことですね?
これは聞いたことがないです。
こういう独自のものは、さすがのYouTubeでもなかなかないですねえ。初期のアウトテイクなど結構聴けますが。
>「なんだかヴィスコンティ先生の御心境を拝聴してるみたいな気分になるデス。」と双葉師匠が最後にまとめています。
ヴィスコンティ自身、中世にミラノを支配していたヴィスコンティ家の末裔で、落ち目の貴族という立場において、主人公と重なるものがあります。師匠はそのことをご存知だったのでしょう。
今日はジョン・レノンの命日。今でも悲しく思います。
諦めの心境になった時、なぜかこの曲が頭の中で流れる事が多いです。
https://www.youtube.com/watch?v=diB0XAjug1g
>落ち目の貴族という立場において、主人公と重なるものがあります。
日本でも同じような題材の小説や映画がたくさんあるでしょうね。
>赤盤ではなくアナログ盤の間違いでした(汗)。
今日もアナログ盤を聴いてみましたが、YouTubeアップのステレオ版と同じと思いました。
ダブル・ヴォーカルのサブのほうの扱いが途中で音が消えるなどして、左右に動いているような感じがします。メインは動いていないように感じました。
因みに、30年ぶりくらいにアナログ盤を聴いてみましたが、我ながら保管状態よろしく、スクラッチ・ノイズも殆どなかった。素晴らしい(笑)
>今日はジョン・レノンの命日。今でも悲しく思います。
いつもYouTubeあたりで済ませてしまっていましたが、今日は、コンポでLP「イマジン」と「ロックンロール」を聴きました。
LP[マインド・ゲームス」にするつもりでしたが、何故か見つからないので、急遽「ロックンロール」にしたのです。が、これを聴いているうちに、いや「マインド・ゲームス」は図書館のCDをコピーしたものしかないと気付くも後の祭り。
結構おっちょこちょい。思い込みの恐ろしさよ!
>結構おっちょこちょい。思い込みの恐ろしさよ!
僕なんぞは今日も仕事でミス。嫌になります・・・。
>ダブル・ヴォーカルのサブのほうの扱いが途中で音が消えるなどして
その表現の方が相応しいです。ありがとうございます。
>スクラッチ・ノイズも殆どなかった。素晴らしい(笑)
レコードもオカピー教授に感謝していますよ。
>「ロックンロール」
このメドレーがいいですね!
https://www.youtube.com/watch?v=qjobBx2P6C0
ジョン・レノンが楽しんで歌っています。
>アルセーヌ・ルパンを演じられるのは後にも先にも彼しかいなかったと
ジャン=ポール・ベルモンドはルパン三世でしょうか?ルパン三世がベルモンド?
ネット不調でレスが遅れました。どうもすみません。
モデムが壊れかけているようです。
>僕なんぞは今日も仕事でミス。嫌になります・・・。
自覚のあることが大事でしょう。
>ジャン=ポール・ベルモンドはルパン三世でしょうか?ルパン三世がベルモンド?
時系列から言えば、ルパン三世がベルモンドですね。どちらも山田康雄が吹き替えていたというのも面白い。
>どちらも山田康雄が吹き替えていたというのも面白い。
イメージに合っています。そしてクリント・イーストウッドの実際の声は山田康雄さんとは随分違う。でもなぜか似合うのが不思議です。
山田さんが亡くなってずいぶんたった後、「パーフェクトワールド」の日本語版がテレビで放映。そっくりな声の人が担当してるなあと思ったら黒沢年男でビックリした事もあります。さすが役者です!
>北京五輪
もうどうでもいいやって感じです。
>「肉体の門」
田村泰次郎の有名な同名小説の5回目の映画化。五社英雄はやはり重苦しいし、嫌らしい。
2回目の映画化をアップしているので、下記URLに是非どうぞ。
監督が鈴木清順ですので、ぐっと違う趣ですよ。
https://okapi.at.webry.info/200706/article_16.html
>黒沢年男でビックリした事もあります。さすが役者です!
ここ30年くらい吹き替えで映画を見ることはまずなかったので、「パーフェクト・ワールド」も原語版だけですが、そうですか。
時には娼婦のようにならで、時には声優のように・・・お粗末。
>北京五輪
>もうどうでもいいやって感じです。
中国は実にけしからんでsが、五輪マニアですので、東京同様かじりついて観ます。
2014年大雪の後処理で余り楽しめなかったソチ五輪の二の舞にならないように。その後体調まで崩してしまったし。大雪、振るなよ~!
この映画「山猫」は、イタリアのシシリーの貴族の壮麗な挽歌であり、失われた貴族文化へのオマージュに満ちたノスタルジックな、ルキノ・ヴィスコンティ監督の最高傑作だと思います。
この映画「山猫」は、イタリアの世界的な巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の作品で、1963年度のカンヌ国際映画祭で最高賞であるグランプリ(現在のパルムドール賞)を受賞している、映画史に燦然と輝く珠玉の名作です。
この映画の題名である「山猫」とは、イタリアのシシリー島で、アラゴン、スペイン、ブルボンなどの各王朝の下で栄えてきたファルコネーリ家の家紋であると共に、現在の当主サリーナ公爵(バート・ランカスター)の呼称でもあり、彼は旧家の権威と新時代への対応力と併せて、変革に不易な深い人間性をも備えている人物として描かれています。
それまでは、どちらかというと野卑でタフガイのイメージであったバート・ランカスターに、"貴族の家父長的な尊厳さ"を与えたヴィスコンティ監督は、その後も彼を自作の「家族の肖像」にも起用していて、ミラノの公爵の御曹子で、その思想的な背景から"赤い公爵"とも言われた自らの孤独な姿を、バート・ランカスターに投影しているものと思われます。
原作は、シシリーの貴族ランペドゥーサ公爵が、自らの没落過程を描いた唯一の作品であり、1958年に自著が公刊されるのを待たずに世を去っています。
このように、原作、映画の監督ともイタリアの旧貴族ですが、ヨーロッパの華麗な芸術を伝えてきた彼等の文化的な役割は、ルキノ・ヴィスコンティという偉大な芸術家を失った今日でも、彼等が残した作品は決して色褪せる事なく、永遠に輝き続けるのだと思います。
時は1860年、"復興"の波に乗ったガルバルディの率いる赤シャツの義勇軍は、シシリー島のマルサラに上陸しブルボン王朝軍を圧倒して、その後、破竹の勢いで進軍し、パレルモを占領しましたが、映画はこの革命戦争の様相を生々しく描いていきます。
サリーナ公爵の甥タンクレディ(アラン・ドロン)は、野心に満ちた若い世代を代表する人物で、当初は赤シャツ隊に参加し獅子奮迅の活躍をした後、負傷し、新国王エマヌエーレ二世の国王正規軍に移り、ガルバルディの革命軍を反対に鎮圧する立場になりました。
イタリア王国が、ローマを首都と定めて統一を成し遂げたのは、1871年ですが、ガルバルディの市民戦争の翌年の1861年にアメリカで独立戦争が起こり、更にその7年後の1868年に日本では徳川幕府が崩壊しているという、大きな歴史の変革の時期に差し掛かっていました。
しかし、これらの変革は、地主階級を温存するという、不徹底なものに終わった事で共通しています。
タンクレディが、愛情からだけではなく、政治的、財産上の欲望も絡んで結婚する美貌のアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)は、新興ブルジョワ階級の代表である村長(パオロ・ストッパ)の娘であり、タンクレディと同様に新時代の息吹きと生気に満ち溢れています。
しかし、このアンジェリカは、サリーナ公爵の孤高な熟年の男に魅力を感じていきます。
一方のサリーナ公爵も、若い彼女に対して、人生の終わりに近づきつつある自分を感じ、最後の炎を燃やします。
この映画のラストでサリーナ公爵が主催する舞踏会は、これまでに映画で描かれた中でも最も豪華な舞踏会ともいえるもので、スケールの大きさや見た目の派手さという事だけなら、他にもあったかも知れませんが、それがその細部に至るまで、徹底して本物にこだわった見事さは、類を見ない素晴らしいものがありました。
この舞踏会での、このサリーナ公爵とアンジェリカの精神的に共感する老若二人の華麗なワルツは、この映画のラストを比類なく、美しくも悲しいノスタルジックなものにしているように思います。
そして、この映画の中では、まるでダイヤモンドの輝きを思わせるような、人生の深遠に迫るほどの奥深く心に残ったサリーナ公爵のセリフの数々がありました。
「何だ? 愛か? 愛もよかろう、炎と燃えて一年、後の三十年は灰だよ」、「現状を否定する者に向上は望めない。彼らシシリー人の自己満足はその悲惨さよりも強い」、「続くべきでないものが永遠に続く。人間の永遠など知れたものだが、しかも変わったところで良くなるはずもない」、「我々は山猫だった。獅子であった。やがて山犬やハイエナが我々にとって代わる。そして、山猫も獅子も山犬や羊すらも、自らを地の塩と信じ続ける」、「私達の願いは、忘却、忘れ去られたいのです。血なまぐさい事件の数々も、私達が身を委ねている甘い怠惰な時の流れも、全ては実は官能的な死への欲求の現れなのです」、「おお星よ。変わらざる星よ、はかなき現世を遠く離れ、汝の永遠の世界に我を迎えるのはいつの日か?」--------。
舞踏会という絢爛豪華な宴が終わった後、一人路地裏で膝まづいて、このように祈ったサリーナ公爵は、既に夜明けになっているにもかかわらず、なお仄暗い路地の奥へと淋しく消え去っていくのです。
ニーノ・ロータの優雅で甘美な音楽とは正反対に、赤茶けた自然と民衆の生活は苛酷であり、シシリー島は長年に渡って他国の植民地としての苦しみに耐えてきたのです。
サリーナ公爵が、「二十歳で島を出ては遅すぎる」という程の人間関係の繋がりが深いシシリーは、その後も映画「ゴッドファーザー」などに出てくるマフィアというギャング組織の故郷にもなっています。
このシシリーほどではないにしろ、"イタリアには人があって国がない"と言われており、アングラ的な裏の権力や経済が支配している背景とも見られているのです。
そして、イタリアでは納税に対する義務感が低いと言われていますが、その根本的な原因は、統一された国民共同のものとしての国家感がないからだという事なのかも知れません。
しかし、イタリア人及びイタリア移民の映画芸術というものへの貢献は、ルキノ・ヴィスコンティ監督やフランシス・フォード・コッポラ監督の如く世界的に素晴らしく、偉大なものであると痛切に感じます。
>ミラノの公爵の御曹子で、その思想的な背景から"赤い公爵"とも言われた
>自らの孤独な姿を、バート・ランカスターに投影しているものと思われます
その通りですね。
ヴィスコンティ家は、中世から国を持っていた大貴族で、マキャベリの「フィレンツェ史」などにも出て来て“凄いなあ”と思ったこともあります。