映画評「アイランド」
☆☆★(5点/10点満点中)
2005年アメリカ映画 監督マイケル・ベイ
ネタバレあり
嘘か誠か知らないが、スティーヴン・スピルバーグが原案(実際の原案者は別)をマイケル・ベイに持ち込んだ企画だという。しかし、出来上がった作品はとんでもない勘違い映画である。
2019年、地下都市に住む人々は<アイランド>へ行く日が来るのを待ち望んでいる。そんな一人リンカーン6エコー(ユアン・マクレガー)は溺れる夢を毎日のように見るが、同じ服を着せられ女性との交際を禁じられていることに何となくむずむず感を覚える。
今から僅か13年後の2019年にしては妙に無機質なムード、異様な管理社会ぶりであるが、かかる状況をややもたつきながら展開する序盤の後、実は彼らは正当な人間ではなく、クローン人間であるということが判明する。
いよいよこれからが本番・・・と言いたいが、一気にがっくり来た。
果たして映画は誰が見るものであるのか。人間であってクローン人間ではない。しかし、この作品は語る視点も視線の先にあるのもクローン人間なので、ある程度真剣に映画を見ようと思っている人間たる観客にとって感情移入することができまいと思う。もし出来たとしたら真面目に映画に対峙する気持ちが薄い方と言わざるを得ない。
地下都市の秘密を知ったリンカーンは女性のジョーダン2デルタ(スカーレット・ヨハンソン)と外に逃走して、管理側との激しいチェースを繰り広げ、見栄えはかなり良い。が、全くつまらないのは、彼らが人間ではなく本来観客が危機感を抱いてしかるべきクローン人間だからである。
クローン人間は今後SFとして重要なテーマになっていくと思うが、あくまで視点は人間であるべきだ。本物のリンカーンがクローンのリンカーンに嵌められて殺されてしまう場面があるが、例えば、こうした点を敷延して行ってクローン社会の恐怖を描くべきである。勿論、視点が襲われる側の人間になければ恐怖は出て来ない。
娯楽的に作るのは結構であるが、クローン人間が抹殺を免れて外界に出てハッピーエンドでは、人間が見る映画としては全くナンセンスであるし、人間が彼らに協力するのもどうかと思う。彼は管理側を批判していたが、作者が人間に視点を置いていない作品であの言葉は全く空しい。「アンダーワールド」以来の人間不在の作品と言うべし。
クローン人間のアイデンティティーや生存権を云々して好意的に観る方もいらっしゃるだろうが、実際にクローン人間が世を闊歩する時代が来ない限り意味が無い。いや、言い方を変えよう。かかるハードSF的なテーマをこう軽く扱ってはいけない。主題と演出・手法がまるで合っていない失敗作と言うべきである。
アクション場面に見応えがあり見栄えも良いので水準作としておくが、明らかにゲーム世代の手による血の通っていない作品だ。
2005年アメリカ映画 監督マイケル・ベイ
ネタバレあり
嘘か誠か知らないが、スティーヴン・スピルバーグが原案(実際の原案者は別)をマイケル・ベイに持ち込んだ企画だという。しかし、出来上がった作品はとんでもない勘違い映画である。
2019年、地下都市に住む人々は<アイランド>へ行く日が来るのを待ち望んでいる。そんな一人リンカーン6エコー(ユアン・マクレガー)は溺れる夢を毎日のように見るが、同じ服を着せられ女性との交際を禁じられていることに何となくむずむず感を覚える。
今から僅か13年後の2019年にしては妙に無機質なムード、異様な管理社会ぶりであるが、かかる状況をややもたつきながら展開する序盤の後、実は彼らは正当な人間ではなく、クローン人間であるということが判明する。
いよいよこれからが本番・・・と言いたいが、一気にがっくり来た。
果たして映画は誰が見るものであるのか。人間であってクローン人間ではない。しかし、この作品は語る視点も視線の先にあるのもクローン人間なので、ある程度真剣に映画を見ようと思っている人間たる観客にとって感情移入することができまいと思う。もし出来たとしたら真面目に映画に対峙する気持ちが薄い方と言わざるを得ない。
地下都市の秘密を知ったリンカーンは女性のジョーダン2デルタ(スカーレット・ヨハンソン)と外に逃走して、管理側との激しいチェースを繰り広げ、見栄えはかなり良い。が、全くつまらないのは、彼らが人間ではなく本来観客が危機感を抱いてしかるべきクローン人間だからである。
クローン人間は今後SFとして重要なテーマになっていくと思うが、あくまで視点は人間であるべきだ。本物のリンカーンがクローンのリンカーンに嵌められて殺されてしまう場面があるが、例えば、こうした点を敷延して行ってクローン社会の恐怖を描くべきである。勿論、視点が襲われる側の人間になければ恐怖は出て来ない。
娯楽的に作るのは結構であるが、クローン人間が抹殺を免れて外界に出てハッピーエンドでは、人間が見る映画としては全くナンセンスであるし、人間が彼らに協力するのもどうかと思う。彼は管理側を批判していたが、作者が人間に視点を置いていない作品であの言葉は全く空しい。「アンダーワールド」以来の人間不在の作品と言うべし。
クローン人間のアイデンティティーや生存権を云々して好意的に観る方もいらっしゃるだろうが、実際にクローン人間が世を闊歩する時代が来ない限り意味が無い。いや、言い方を変えよう。かかるハードSF的なテーマをこう軽く扱ってはいけない。主題と演出・手法がまるで合っていない失敗作と言うべきである。
アクション場面に見応えがあり見栄えも良いので水準作としておくが、明らかにゲーム世代の手による血の通っていない作品だ。
この記事へのコメント
クローンが良い悪いが自分では関係なかったです~。
不評が多いのは理由が自分で評価出来ていなかったのでオカピーさんのレビューで納得しました。
XBoxのロゴには辟易しました..。
私は比較的温厚ながら、元来うるさいほうですが、この作品についてはかなりきつく糾弾せざるを得ませんでした。「アンダーワールド」は勿論「ブレイド」シリーズもほぼ同じ。やはりゲームの影響なのでしょう。ゲームの映画かも今一つ面白くない私ですが、理由は登場人物が死んでいるからです。そこに血も肉も感じられず、単なる道具に過ぎません。
この作品は面白い、つまらないで済ます以上に、映画の作り方、映画の観方について考えたくなる反面教師的な教材と思います。
オカピーさんのレビューを何度も読み返して考えたのですが、今の世の中、現在と言う時点では、クローンの存在があり得ない事という事が前提で考えているために、現実感がなく、いわばSFの世界にファンタジー的要素も多分に含まれていると考えます。
だから、エンターテイメンツとしては成立していると思います。
楽園と思っていた場所が実は恐ろしい場所であって、人間だと思っていた自分たちがそうでないことに気が付き、細菌に汚染されているはずの世界がそうでないと言うことが次々わかって行くプロットがこの映画の軸となっていると思います。いわば、人間が作ったロボットが学習能力を身につけ自分で思考する能力を持ってしまったという設定の構図と似ていると思います。便利に作ったはずのロボットに自分たちが退けられていくSF映画等の人間対ロボットの構図ですね。
そういった映画は過去にもたくさん作られていますよね「アイ・ロボット」が面白かったですよ。ご覧になりましたか?
結論ですが、人間の視点で観るかクローンの視点で観るかという、人間対クローンの戦いとう映画ではないと思うのです。勝手に作った人間が自分を殺そうとしている事を知り、防衛の為に結果的に人間を殺してしまうことにはなりましたね。この結果には少々苦い思いもなきにしもあらずですけれど・・・
SFアクションエンターテイメントとしては結構楽しめました。
しかしながら、既に現代の科学力では、クローン技術は人間をも再生出来るところまで来ている世の中と言えると思います。
もし、近い将来こんな事が現実として実現してしまったら、それは危惧すべき問題だと感じますね。
私の書き方が悪かったのですが、私の言いたかったことを、ちょっと誤解されているようです。
まず、一つは、どんなに娯楽的に作られていても映画は芸術であり、決してゲームと混同してはいけないということ。芸術は人間を描き、人間を見つめる、人間による作業であるということです。
映画が人間が観るものである以上、何らかの形で人間を描かなければ意味がありません。「アイ、ロボット」は人間と人間の未来が描かれた作品です。「A・I」はアンドロイドが主人公ですが、彼は一見人間的ありながら実は人間と遠いものという描き方がされていて、間接的に人間を描いていました。だからこそ、アンドロイドの死にも感情移入が出来るのです。
太陽と北風が闘う話に我々が興味がもてるのは、それが最終的に人間の生活に影響を与えるからです。この作品のクローン人間はそういう描き方がされたでしょうか。あくまで逃走場面を派手な画面を見せる為に用意された血の通っていない道具と言えないでしょうか。
クローン人間がアイデンティティーに目覚めるという話は、我々には全く関係のないクローン人間の悩みであります。ハードSFという哲学的な世界としてはありえますし、あくまで高尚なテーマであり、それをこうして通俗的に作るのは、主題と手法が合っていない典型的な失敗作と思うのです。とにかく、私はこの作品から人間は見えてきません。ゲームの画面を見るようで、映画は直接・間接を問わず、人間を見つめ人間を描く芸術であるという視点で語ると、甚だ不愉快な作品なのです。それは観客もまた映画を芸術としてではなく、ゲームとして観る傾向があるからでもあるのです。
私もこの作品を評価することは出来ません。とてもじゃないですが。真剣にかつ慎重に語られるべきテーマを、あんなふうに粗雑に扱っていいものではありません。アクション映画が作りたいなら、わざわざこんな重いテーマを取り上げなくてもいいはず。
倫理問題のみならず、クローン技術が医学に応用される時代を心待ちにしている方々(遺伝病に苦しむ人達など)の問題も含まれた、非常に難しいテーマなんですよね、本当は。
トラックバックさせていただきます。拙い記事ですが。
いやあ、安心しました。少なくとも私がチェックしたブログは尽く中の上から上の下くらいの評価でしたから。勿論この映画における自分の評価には確固たる信念がありますが、観客が悪いのか作家が悪いのか、こういう映画がぼつぼつ出始めたことを見ると、今後の映画について非常に懸念している状態でございます。
私のスタートは「映画は人間を見つめるもの」という発想からでしたが、文学的に解釈しても倫理的に解釈しても結局同一の結論に達するようですね。コメント有難うございました。
この作品はなんというか違和感が残っています。←ほんとに(笑)
上手に言えないんですけど、クローンが逃げるのに成功してよかったね、ハッピーエンドだよとでも言いたげなラストに首を傾げてしまったからだと思います。その後の彼らは本人が生きている中、クローンとしてどうやって生きていくんだろう?クローンがいるとわかった本人はどうする??彼らを社会は受け入れられるのか??とその後の方が気になって、これでハッピーにはなれないんじゃないか?と甚だ疑問を感じてしまったから・・・。既にかなり時間を使ってしまったからこれ以上は想像してねンって放り出されたような気分で(^^;
言い換えれば、そこからが一番重要なんじゃないのか?と思ったわけで、それをスッパリ切って捨ててしまわれたことが非常に不満でした。
「ブレイド」シリーズはどうも面白さが分りません。「アイランド」や「アンダーワールド」よりは遥かに<人間>を感じますけどね。
>ハッピーエンド
良い点に気付かれたと思いますよ。
私は<視点>と<視線の先にあるもの>という観点から述べましたが、どんな娯楽映画であろうと、究極的には映画は人間を描かねばならない。そうでなければそれはゲームであります。逃げる人間を見てヒヤヒヤするのは<人間>だから。これが憎き怪物だったらどうでしょうか。作者たちは、クローン人間という見た目は我々と全く同じ(だが実際には一種の怪物)を使って、観客を煙に巻いたんですよ。観客もその策略を見抜かなければいけないんです。
ところで「ブレイド」やら「アンダーワールド」やら比較対照されていますが私未見のこれらはまたまたゲーム感覚の映画なのでしょか?
時代の趨勢はますます安きに流れ、人間をもすでに最新画像処理のように「人間もどき」に処理されるようになりましたか?
天才作家、手塚治虫氏も確かに斬新なSF作品を生み出したパイオニアですが手塚氏に流れている感性はあくまでも人間をいとおしむ慈愛の精神がくっきりと打ち出されています。傑作「ブレードランナー」もアンドロイドの終焉の切なさからにじみ出る人間世界の哀しさです。「2001年宇宙の旅」の“ハル”も然り。プロフェッサーはどういうご感想をお持ちかわかりませんがあの押井守の「イノセンス」でさえ義体に宿る人間性と本物の人間に観られる寂寞感の対比が「人間とは一体なんぞや?」の命題にキッカリ帰結しておりました。
「ブレイド」「アンダーワールド」は、基本的にゲームですよ。「吸血鬼ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」とは最初から目指すものが違う。CGは映画のドラマ性を完全に破壊しました。観客の価値観もこれにより相当狂いました。本物よりCGのほうが迫力ある? とんでもないでしょう。実写で出来るのならCGなど使わないほうが良いのに。
「イノセンス」は未見ですが、押井守の作品は観たことがあるのである程度想像がつきます。WOWOWのハイビジョンで観るのを楽しみにしていますが全然出ませんね。一時違いの「イノセント」は、大好きなのですが手元にあっても観る暇がありません。
viva jijiさんの文章でハッと思う若い方がいたら嬉しいと思います。
本文中の、主題と演出、手法がまるで合っていない・・・に、同感です。 アクションが描きたいだけなのに、なにもこんな期待させるようなテーマを持ってこなくても・・・と、映画の設定だけ聞いて楽しみに観てしまった私はがっかりしました。
今後ともよろしくお願いします。
viva jijiさんのところからお越しの方は大体「プロフェッサー」と呼んでくださるので、それで結構です。
最後の友愛の仕草は醜悪というしかなかったですね。そこに過剰反応はしませんでしたが、ハリウッドの偽善的体質が如実に現れた場面です。