映画評「激突!」
☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1972年アメリカ映画 監督スティーヴン・スピルバーグ
ネタバレあり
昨年の9月2日にブログを立ち上げたので今日で丸1周年ですが、映画評は9月3日からなので今日は365日目でもあります。そこで記念すべき一作をということで、この傑作中の傑作を取り上げることにしました。
映画史的なところから始めれば、これはスピルバーグの出世作である。当時25歳だったと思う。僕はどえらい新人が出たなと思い、スピルバーグはとんでもない天才だから今後注目していなさいと喧伝したが、果たしてその通りハリウッド一の監督になった。
しかし、米国以外では劇場公開されたが、元々はTVムービーであるということに耳を疑った。TVでこの質の高さはわが日本ではとても考えられないからである。
スピルバーグの殊勲も相当なものだが、この作品の最大の功績者は脚本のリチャード・マシスン。「ヘルハウス」や「ある日どこかで」といった面白いお話を書いた作家兼脚本家である。勿論この作品が生涯のベスト1であろう。
平凡なうだつの上がらないセールスマン、デニス・ウィーヴァーが山岳地帯の一本道でのろのろと走っているディーゼル・タンクローリーを追い抜く。すると今度は猛スピードで追いかけてくるので、先に行かせてやるとまたのろのろ。
「この野郎」と思って抜いた後、ガソリンスタンドで一服していると、あろうことか相手もそこに立ち寄る。
せいぜい日常的なレベルだった嫌がらせによる不安が凶暴性による恐怖に変わる瞬間である。いかれたラジエーターを直さなかったつけも後で廻ってくる。
本作の最も優れたところは、極めて日常的な行為に恐怖を見出した着眼点である。そこがスピルバーグのもう一本の代表的ホラー映画と見做される「ジョーズ」と決定的に違う。「ジョーズ」もサスペンス醸成は優れているが、元来怖い鮫が主題では全く比較にならない。着想の妙から言えば「鳥」に匹敵するのは本作である。
恐らく似たような話を考えた人はいるだろうが、マシスン以外は単純で直線的な話を膨らますだけの才能がなかったということであろう。エピソードの数々が非常に優れていて、タンクローリーに追いかけられるというだけの話をもってこれだけの恐怖映画に仕立てたことは賞賛に値する。
それを映像化する演出家が凡庸ではその芸術的な脚本も死んでしまうが、スピルバーグの演出がまた際立っている。主観、客観ショットを縦横無尽に交えたカメラワーク。そしてショットの繋ぎが抜群で、その為サスペンス醸成は圧倒的と言って良い。
特に圧巻なのは、次の場面である。
タンクローリーが先にレストランを出る。後からゆっくり車を走らせていると、エンジントラブルのバスがあって応援を頼まれる。が、彼の乗るおんぼろプリマスではどうにもならない。徒労の後ふと見上げると、例のタンクローリーがこちらに向いて待っている。この瞬間の恐怖たるや声もない。
さらに、バスから離れ後ろを振り返るとタンクローリーが親切にもバスを押している。ここぞチャンスとスピードを上げ距離を作り、長い貨物列車に塞がれた踏切で停車していると、突然車が後ろから押される。この場面のショックと続くサスペンスにも肝が冷やされる。
ここまで来ると、もはや芸術の域と言うべし。
さて、本作を語る時に忘れてならないのは、タンクローリーの運転手が最後まで姿を見せないことである。運転手がどんな顔のどんな人物か解らないので、恐怖は必要以上にあおられる。マシスンはこのアイデアだけで天才と評しても差し支えないのだが、マシスンの脚本には隠し味があった。いや隠し味どころかそれが狙いであったはずだ。狙いとは何か。
タンクローリーも遂には崖から落下して最期を遂げる・・・マンモスの末期のような悲鳴をあげて。そう、マシスンは最初からこのタンクローリーを原始時代のマンモスに見立てていたのである。だから、運転手の顔を一切見せなかったのだ。一度見せれば観客はこのタンクローリー自体を生き物と捉えることが出来なくなる。マシスンは、現代の人間対人間の対決を原始人対マンモスの対決に置き代え、人間の本能的闘争心に迫ろうとしていたのである(主人公が恐妻家で、ラジオでは【生存競争が嫌で家にいる夫】の話が流れている。これも伏線となっている)。
主人公はタンクローリーが落ちた瞬間にマンモスを仕留めた原始人のように欣喜雀躍する。しかし、数分後には現代人の表情になり空しく崖の下に向って石を投げている。彼はこの1日で現代から原始時代へそしてまた現代へとタイムスリップしたのだ。サスペンス以外に大したドラマがないように見えるこの作品にも、実はこんな壮大な心の時間旅行があったわけである。
1972年アメリカ映画 監督スティーヴン・スピルバーグ
ネタバレあり
昨年の9月2日にブログを立ち上げたので今日で丸1周年ですが、映画評は9月3日からなので今日は365日目でもあります。そこで記念すべき一作をということで、この傑作中の傑作を取り上げることにしました。
映画史的なところから始めれば、これはスピルバーグの出世作である。当時25歳だったと思う。僕はどえらい新人が出たなと思い、スピルバーグはとんでもない天才だから今後注目していなさいと喧伝したが、果たしてその通りハリウッド一の監督になった。
しかし、米国以外では劇場公開されたが、元々はTVムービーであるということに耳を疑った。TVでこの質の高さはわが日本ではとても考えられないからである。
スピルバーグの殊勲も相当なものだが、この作品の最大の功績者は脚本のリチャード・マシスン。「ヘルハウス」や「ある日どこかで」といった面白いお話を書いた作家兼脚本家である。勿論この作品が生涯のベスト1であろう。
平凡なうだつの上がらないセールスマン、デニス・ウィーヴァーが山岳地帯の一本道でのろのろと走っているディーゼル・タンクローリーを追い抜く。すると今度は猛スピードで追いかけてくるので、先に行かせてやるとまたのろのろ。
「この野郎」と思って抜いた後、ガソリンスタンドで一服していると、あろうことか相手もそこに立ち寄る。
せいぜい日常的なレベルだった嫌がらせによる不安が凶暴性による恐怖に変わる瞬間である。いかれたラジエーターを直さなかったつけも後で廻ってくる。
本作の最も優れたところは、極めて日常的な行為に恐怖を見出した着眼点である。そこがスピルバーグのもう一本の代表的ホラー映画と見做される「ジョーズ」と決定的に違う。「ジョーズ」もサスペンス醸成は優れているが、元来怖い鮫が主題では全く比較にならない。着想の妙から言えば「鳥」に匹敵するのは本作である。
恐らく似たような話を考えた人はいるだろうが、マシスン以外は単純で直線的な話を膨らますだけの才能がなかったということであろう。エピソードの数々が非常に優れていて、タンクローリーに追いかけられるというだけの話をもってこれだけの恐怖映画に仕立てたことは賞賛に値する。
それを映像化する演出家が凡庸ではその芸術的な脚本も死んでしまうが、スピルバーグの演出がまた際立っている。主観、客観ショットを縦横無尽に交えたカメラワーク。そしてショットの繋ぎが抜群で、その為サスペンス醸成は圧倒的と言って良い。
特に圧巻なのは、次の場面である。
タンクローリーが先にレストランを出る。後からゆっくり車を走らせていると、エンジントラブルのバスがあって応援を頼まれる。が、彼の乗るおんぼろプリマスではどうにもならない。徒労の後ふと見上げると、例のタンクローリーがこちらに向いて待っている。この瞬間の恐怖たるや声もない。
さらに、バスから離れ後ろを振り返るとタンクローリーが親切にもバスを押している。ここぞチャンスとスピードを上げ距離を作り、長い貨物列車に塞がれた踏切で停車していると、突然車が後ろから押される。この場面のショックと続くサスペンスにも肝が冷やされる。
ここまで来ると、もはや芸術の域と言うべし。
さて、本作を語る時に忘れてならないのは、タンクローリーの運転手が最後まで姿を見せないことである。運転手がどんな顔のどんな人物か解らないので、恐怖は必要以上にあおられる。マシスンはこのアイデアだけで天才と評しても差し支えないのだが、マシスンの脚本には隠し味があった。いや隠し味どころかそれが狙いであったはずだ。狙いとは何か。
タンクローリーも遂には崖から落下して最期を遂げる・・・マンモスの末期のような悲鳴をあげて。そう、マシスンは最初からこのタンクローリーを原始時代のマンモスに見立てていたのである。だから、運転手の顔を一切見せなかったのだ。一度見せれば観客はこのタンクローリー自体を生き物と捉えることが出来なくなる。マシスンは、現代の人間対人間の対決を原始人対マンモスの対決に置き代え、人間の本能的闘争心に迫ろうとしていたのである(主人公が恐妻家で、ラジオでは【生存競争が嫌で家にいる夫】の話が流れている。これも伏線となっている)。
主人公はタンクローリーが落ちた瞬間にマンモスを仕留めた原始人のように欣喜雀躍する。しかし、数分後には現代人の表情になり空しく崖の下に向って石を投げている。彼はこの1日で現代から原始時代へそしてまた現代へとタイムスリップしたのだ。サスペンス以外に大したドラマがないように見えるこの作品にも、実はこんな壮大な心の時間旅行があったわけである。
この記事へのコメント
私も初めて劇場で観た時には感激しましたね。原作も読みました。
TVでも何回も吹き替え版が放送されましたが、その度見ていたように思います。
思い出しながら書いた記事はコチラです→(http://blog.goo.ne.jp/8seasons/e/1101fbd4b4d12b33141295c291fbfebd)
80年くらいまでは殆ど毎年のように観続け、レーザー・ディスクを買っては観ているくらいですから、満点ですね。
映画として直線的で純粋なところが良いですね。ヒッチコックのベスト作品でもこう単純にはできない。ヒッチコックも「私は要素をそぎ落としていく芸術家のタイプだ」と言っていますが、娯楽映画もこれだけ絞り込んでいくと、純粋な芸術になると思っています。芸術映画の芸術よりこちらのほうがずっと良いです。
惚れ惚れしますよ。
「ヘルハウス」や「ある日どこかで」の脚本家なのですか。
どちらもヒジョウに頭に残っている作品です。
どんな大スターが出演している作品でも 脚本が面白くないと
もう一度みたいと思えません。(偉そうですみません。汗)
正体不明のものに追われる恐怖はたとえようのない不気味さが
あるように感じます。
この運転手 脚しか見えませんでした。。。すごくこわい!!
画面に釘付けになってしまう映画です。
映画は脚本が第一ですからね。その脚本も演出でよくも悪くもなりますが、悪い脚本は良い演出を以ってしても良い映画にはなりませんよね。
「ヘルハウス」も脚本の出来が大変良かった記憶があります。「ある日どこかで」でもひねりがあって興味深い作品でした。
本文で書いたように運転手を隠したことが最大のファインプレーでしょうね。
たった一行のホンを最大の効果を上げる膨らませ方をして観る者をアッと言わせる演出・映像作りをする!
本作はそれらの最たるものでしょう。
プロフェッサーは「動的」な場面に鋭く反応なされたようですが私はあのドライヴ・イン・・・カウンターに腰掛けている数人の男たちとボックス席のウィーバー、自らの心の声に振り回されている焦燥感描写、後ろ向きの男たちとの物言わぬ駆け引き、最大限に緊張し、目論みが無残にも外れたそのとき・・・トレーラーが動き出す・・・あのタイミング、お見事!!
本作には私も10点つけさせて下さい。
簡潔の技、省略のいさぎよさ、余韻の美、です。
TBさせていただきました。
早速のご対応、有難うございました。
いやあ、10点を付けたのですから、全て満足です。
ご指摘の場面も素晴らしかった。トレーラーというかタンクローリーが動き出すタイミング・・・憎らしいですねえ。主人公は別の意味で憎らしいと思ったでしょうか。
言うまでもないですが、運転手の顔を見せずに、トレーラーを動物化(非人間化)させるアイデアも秀逸でしたね。
>簡潔の技、省略のいさぎよさ、余韻の美、です。
正に正に。
タイムスリップ映画とまでは気がつきませんでしたが、運転手の足とか腕しか見えないというのは恐怖を煽られまくってしまいました。
そのことでタンクローリーがまるで巨大な動物のように感じられ、更に怖かったです。
タンクローリーを追い越すなんてのは、日常にある出来事なのにそれが一転こんなに恐ろしい体験へと変貌する・・・。
思い出すだけで怖くなってきました。
>タイムスリップ論
いやあ、誰も「そうだったのか」と言ってくれないので、事前に書いてしまいました(笑)。皆さん、解っていたのかなあ。
英語で言うと、State of the Artという言うべき作品です。つまり芸術の域ですが、このARTは芸術映画の<芸術>ではなく、映画芸術の<芸術>ですね。
文句なしです。
「激突」をもってのP様の新年の挨拶は、なによりの嬉しい挨拶と元気印でした。ありがとうございます。そして今年もよろしくお願いいたします。
この映画。なんも申しますまい。申さずとも観たら判る!
この映画みると、やはりスピルバーグって才能あるんだって思う。
彼は若いとき「コロンボ刑事」とかで随分と鍛えられてますよね。
特典映像で本人が「僕も利口になって、あれこれ考えるようになったからね。こんな映画は今の僕には撮れない」って語っているのもスピルバーグらしい素直さに思わず笑ってしまった。
タイムスリップ映画とは!P様も相当この映画にはまり込んでますね。
しかし顔の見えない恐怖。ちかちかと点滅するライト。上手いよなぁ。
そう仰って戴けると大変嬉しいです。<(_ _)>
>スピルバーグって才能あるんだって
当たり前です(笑)。
いや、色々ご批判の多い今だって、僕なんか編集で観るから「相変わらずなめらかだなあ」なんて思うんですよ。こういう絹のような編集ができるのがわが邦の山田洋次くらいで、ご贔屓トルナトーレはこの二人とはタイプが違うけれどやはり編集が抜群。スムーズで効果的な編集という点で映画を語るならこの三人ですよ。
「宇宙戦争」もそうだけど、「AI」も決して実力に合った評価はされていない不幸な作品。哲学的な作品なのにスピルバーグの名前のせいで随分安易に片付けられてしまった。本当は「2001年宇宙の旅」にも匹敵する深遠なテーマがもっと娯楽的に上手く描かれていたと僕は思いましたが。
続きますよ。
まあね。^^;
しかし、作者が明らかにそれ(心のタイムスリップ)を狙っているはずで、深読みではないと思うのです。^^
トラックの運転手の顔を見せないのも恐怖を増幅するアイデアとしては最初から解りましたが、それがタンクローリーをマンモスそのものに見せる工夫でもあったと気付いたのは5,6回観てからですよ。
そして、タンクローリーは悲鳴をあげて崖から墜落して行く。
お話としても実に見事ではありませんか。
「オメガマン」=「アイ・アム・レジェンド」のマシスン(の原作)はそれほど冴えていませんが、本作の冴えは素晴らしい。しかし、スピルバーグの演出が良いので原作を上回っちゃったでしょう。
>刑事コロンボ
本作の前にTV映画を3本くらい撮っていますよね。そのうちオカルト映画は余り大したことがないと当時思いましたが、どこかに実力の片鱗が垣間見えていたかもしれません。
これは劇場では未見ですが、娘は大いに気に入って、というか、私が仕事を始め、家に帰っても母親はおらず、息子は受験でいらついていてという状況で観たからか、レンタルで観たときはとっても感情移入して涙流しながら観たんだそうで、評価低いけど私は好き、って、大人になってから初めてこの時のことを話してくれました。子供って、私も子供時代を振り返ると、子供って無邪気なように見えて、周囲の大人たちをよくみているし、本当に言わなければならないことは胸に隠し持っているんだなって、改めて思いました。「AI」がらみでちょっと思い出したこと。
先日viva jijiさんが「汚れなき悪戯」の記事を書かれていましたが、「AI」を真に理解するには「汚れなき悪戯」と「ピノキオ」をきちんと観て理解し、かつ、かの少年型アンドロイドに光を当ててできた影ではなく、そこを通り過ぎた光にこそ作者は人間なるものを投影していることを理解する必要がある、それくらい哲学的な作品です。
そこまでは読めないのが当たり前ですが、かと言って極めていい加減な本作への批判を見過ごすことは出来ないんです。
アンドロイドが指示通りにしか動かないこと、永久に記憶を留めることこそ本作のキーポイント。これを「ピノキオ」と「汚れなき悪戯」と重ねて観ると、幕切れの本当の意味が明らかになるはずなのです。
いつかは「AI」を解読するという研究文でも書きたいと思っているんですけど、なかなか実現できません。
「何度観てもイイ!」
「映画館で観ればなおさらイイっ!」(^ ^)
若きスピルバーグの出世作にして
追いつ追われつの大傑作!かたや
名監督W・ワイラーの史劇の名画。
大きなスクリーンでヨダレまみれに
なりながら鑑賞して参りました。(笑)
拙ブログ記事千回目ということで
TBさせていただきました。
中高年映画ファンのための
シネコン企画・・・
地方都市とはいえ
都会に住む映画好きの特典を
享受できる幸福をあらためて
感じるきょうこのごろでございます。
本館で10年くらい前に考えたマイ・ベスト100映画を記載しておりますが、あれはどうも気取りすぎで、若年時の衝撃度とかつ現在の鑑賞力にも堪える完成度を考え合せると、「激突!」はベスト10に入れるべきかもしれないですなあ。
「ベン・ハー」は中学の時にリバイバルで映画館で観ましたよ。感動したなあ。
かつかつですけど、これもベスト100に入れてあります。^^