映画評「噂の女」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
1954年日本映画 監督・溝口健二
ネタバレあり
溝口健二が「山椒大夫」と「近松物語」を挟んで発表した現代劇だが、両名作に挟まれた格好で溝口ファン以外には忘れられた感のある作品である。
東京で学生生活を送っていた置屋の娘・久我美子が失恋して自殺未遂、母・田中絹代のいる京都に連れ戻される。失恋の原因は母親の置屋稼業である。
やがて、若い医師・大谷友右衛門と懇意になるが、実は母も開業医にさせる為に同業の進藤英太郎に頭を下げて大金を調達するほど彼に愛情を注いでいる。
能舞台と並行して静かな恋の鞘当が繰り広げられる場面は圧巻と言って良い。ついたてに半分顔を隠す田中絹代を正面から捉えたカメラは、次に彼女を後ろから捉え、親しく東京へ行く算段をしている娘と医師の二人と一緒のフレームに収める。一連のカメラワークの迫力はなかなか言葉では説明できないので、現物を観るに限る。さすがは宮川一夫、さすがは溝口健二の感あり。
能の後に続く女狂言が老いらくの恋をテーマにした「枕物狂」で、彼女の心情とオーヴァーラップするが、この辺りの心理描写はなかなか見ごたえある。
心痛で母が倒れ、医師は金目当てのリアリストぶりを発揮して去っていく。娘は、母の代わりに置屋を切り盛りする自分に母の血を感じずにはいられない。
溝口作品は社会構造の中で苦しむ女性たちをテーマにしているが、彼の視点は社会VS女性ではない。男性VS女性という原始的な構図を貫いている。結局完全な男女平等社会がやってきたとしてもこれだけは不変であるかと言わんばかりである。
この作品公開の2年後の1956年5月売春禁止法が公布され、公的には日本から売春がなくなった。奇しくもその年8月に溝口は亡くなっている。
今回は二度目であるが、やはり能舞台の場面は彼の作品歴の中でも白眉であるし、終盤テーマがぼけ気味になるが、コンパクトにまとまっている辺りに好感が持てる。
1954年日本映画 監督・溝口健二
ネタバレあり
溝口健二が「山椒大夫」と「近松物語」を挟んで発表した現代劇だが、両名作に挟まれた格好で溝口ファン以外には忘れられた感のある作品である。
東京で学生生活を送っていた置屋の娘・久我美子が失恋して自殺未遂、母・田中絹代のいる京都に連れ戻される。失恋の原因は母親の置屋稼業である。
やがて、若い医師・大谷友右衛門と懇意になるが、実は母も開業医にさせる為に同業の進藤英太郎に頭を下げて大金を調達するほど彼に愛情を注いでいる。
能舞台と並行して静かな恋の鞘当が繰り広げられる場面は圧巻と言って良い。ついたてに半分顔を隠す田中絹代を正面から捉えたカメラは、次に彼女を後ろから捉え、親しく東京へ行く算段をしている娘と医師の二人と一緒のフレームに収める。一連のカメラワークの迫力はなかなか言葉では説明できないので、現物を観るに限る。さすがは宮川一夫、さすがは溝口健二の感あり。
能の後に続く女狂言が老いらくの恋をテーマにした「枕物狂」で、彼女の心情とオーヴァーラップするが、この辺りの心理描写はなかなか見ごたえある。
心痛で母が倒れ、医師は金目当てのリアリストぶりを発揮して去っていく。娘は、母の代わりに置屋を切り盛りする自分に母の血を感じずにはいられない。
溝口作品は社会構造の中で苦しむ女性たちをテーマにしているが、彼の視点は社会VS女性ではない。男性VS女性という原始的な構図を貫いている。結局完全な男女平等社会がやってきたとしてもこれだけは不変であるかと言わんばかりである。
この作品公開の2年後の1956年5月売春禁止法が公布され、公的には日本から売春がなくなった。奇しくもその年8月に溝口は亡くなっている。
今回は二度目であるが、やはり能舞台の場面は彼の作品歴の中でも白眉であるし、終盤テーマがぼけ気味になるが、コンパクトにまとまっている辺りに好感が持てる。
この記事へのコメント
あのお能は「枕物狂」というものだったんですか。テーマにそった内容だというのはわかったんですが、その能を知らなかったので気になっていましたがスッキリしました^^)。
<田中絹代を正面から捉えたカメラ
ここは凄かったですねー。というか一瞬、阿修羅のような表情でスリリングでした。
なかなか観る暇がなかったんですが、強引に観ました。
<枕物狂(まくらものぐるい)
結構有名な女狂言。先日借りてきた古典文学集の中にはありませんでしたが。
進藤英太郎が「いやまずいものを見せられた」とか言って田中絹代に話しかけるのが皮肉でした。彼以上に彼女が思っていたはずですからね。
<阿修羅のような表情
正に。凄かったですねえ。あの場面は溝口健二の作品の中ではちょっと珍しいタイプのカット割りではないかと思いました。
>一連のカメラワークの迫力・・・現物を観るに限る・・・能の後に続く女狂言・・・「枕物狂」で、彼女の心情とオーヴァーラップ・・・
いやはや、全く、こういった名作のオカピーレビューは、さえにさえわった内容ですね。わたしは何も加えることが出来ません。
ただ、ちょっと気になったことがあるんですが、
いつまでも続く女性と男性の格差・・・。親から子へと二代に渉る矛盾をそのまま継続せざるを得ない・・・更なる矛盾。あんなに嫌っていた母の仕事だったのにねえ。しかも娘・久我美子は生き生きと働いていましたよね。ある意味恐い締めくくり方だと思います。
そういう意味で、思い出したのは『ゴッドファーザー』だと感じましたが、オカピーさんはどう思われます?コッポラの黒澤からの影響は良く聞きますが、溝口の影響もテーマにおいてはあったんじゃないでしょうか?
では、また。
いやいや、お粗末なもので。
私は映画研究書の類は殆ど読まないので、監督のスタイルなどに関しては独自の解釈に過ぎませんが、勘の悪いほうではないので、まあ<当たらずとも遠からず>という批評にはなっていると思います。
トムさんの気になったということは私が後半述べていることですね。
<結局完全な男女平等社会がやってきたとしてもこれだけは不変であるかと言わんばかり>というのは娘の母の血を意識したことを指します。
また、トムさんが感じた矛盾は、作品の構成においての<テーマがぼけ気味>という評価に繋がっています。勿論そこに怖さや空しさもあるわけですが、なるほどアル・パチーノの立場とそっくりですね。
コッポラが溝口を観たかどうかは解りませんが、スピルバーグの「カラー・パープル」も家城巳代治の「異母兄弟」に瓜二つです。どちらも原作ものなので、監督とは関連性が低いとは思うのですが。
いやはや、おっしゃるとおりですよね。
><テーマがぼけ気味>という評価
全く論理的です、結果ここに繋がりますよ。後で考えたのですが、溝口監督は、「まだ、何とか生きていける」というような厳しい条件での貧しいものの生活を、何とか心だけでも豊かにしていこうという前向きなものに結びつけたかったのかなあ、とも思いました。
遺作『赤線地帯』の溝口監督は、まだまだ先鋭化してしまって、そんな悠長なものは感じられませんでしたが、この作品の弱さは、監督のそういう優しさが良いも悪いも表現されてしまったことかもしれません。
原作があって、映画化もよくある。と考えると直接的な相互関係ではないんでしょうね。よくある類似性、人間の苦悩はどこでも、いつの時代でも共通するものなのかもしれません。
では、また。
>心だけ豊か
そういう風に取れないこともないですね。
本作の弱さは全く仰るとおりで、諦観といいますか、終盤が観念的になりすぎたような気もします。
「赤線地帯」は大昔観ただけなのですっかり忘れましたが、先鋭化していましたか。それはまた見直す価値がありそうですね。私は戦後の風俗ものでは「夜の女たち」が割合好きでしたよ。
「カラー・パープル」と「異母兄弟」の見比べは面白いですので、アラン・ドロンとは全く関係のない世界ですが、お暇なときにでもどうぞ(笑)。「異母兄弟」には幕切れが二つあるとも聞きましたが。