映画評「華麗なる賭け」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1968年アメリカ映画 監督ノーマン・ジュイスン
ネタバレあり
1999年に作られ日本では「トーマス・クラウン・アフェアー」の邦題で公開された作品のオリジナル(原題は同じ)だが、ノーマン・ジュイスン監督作品の中で最も好きな作品である。
彼は「屋根の上のバイオリン弾き」「ジーザス・クライスト・スーパースター」という秀作ミュージカルを経て、1974年に来日した後に「ローラーボール」という駄作を作ったのが災いしたのか、その後余りパっとしなくなった(その駄作がリメイクされてさらに輪をかけた駄作になったのは記憶に新しい)。
主演のスティーヴ・マックィーンとは「シンシナティ・キッド」以来二度目のコンビだが、こちらのほうが終始快調である。
若き実業家で資産家のトーマス・クラウン(マックィーン)が自己の闘争心を満足させる為に銀行強盗を敢行する。五人の見知らぬ同士の男たちを雇って実行させ、本人は素知らぬ顔。
犯行場面は画面をマルチに分割して展開するが、この手法はこの後数年間流行した。別の人物の行動を一緒に描くと思えば同じ場面をマルチで捉えるなどして、生き生きした呼吸を生み出している。最近流行の言葉で言えば、印象深い絵作りで「つかみは成功」といったところである。
やがて、保険会社の腕利き調査員(フェイ・ダナウェイ)が彼に目を付けて接近するのだが、彼女が正体を明かしてから虚々実々の駆け引きを繰り広げるのは今でも新味がある。
二人がチェスを繰り広げる場面は圧巻と言うべし。彼らの駆け引きのシンボライズであると同時に恋が本格的に始まる契機となっているからで、二人の顔をカットごとにクロースアップ度を進めていく洒落た演出が面白い。二人は恋に落ちたのだ。
チェスのルールを知っていればもっと面白かっただろうと悔やまれる名場面である。
本作は犯罪映画にみせかけた恋愛映画である。この後はそれを前提に語る。
彼らは砂浜でサンド・バギーを飛ばすなどデートを楽しむが、彼はもう一度銀行強盗に挑戦すると言い出す。結局警察に連絡を取った彼女は現金の受け取り場所である墓地で待つのだが、現れたのは代理の若い男。彼から渡された手紙には「金を持って会いに来い」と書かれている。
再会を期するようで、実は裏切りを前提に書かれた別れの言葉。最近の恋愛映画でこれほど大人の映画があっただろうか。分かり易いハッピーエンドか別れしかない。そうした作品に慣れた若い観客にフェイ・ダナウェイの涙の意味が分るだろうか。
書く場所がなかったのだが、前半彼がグライダーを操る場面が良い。そこにオープニング・タイトルでも流れた主題歌「風のささやき」が乗る。この冒険的気分はフランス青春犯罪映画の金字塔「冒険者たち」の爽快さに通じ抜群。
単純な爽快さではなく、その中に青春への決別の思いが込められている。物悲しさに涙を禁じえない。
1968年アメリカ映画 監督ノーマン・ジュイスン
ネタバレあり
1999年に作られ日本では「トーマス・クラウン・アフェアー」の邦題で公開された作品のオリジナル(原題は同じ)だが、ノーマン・ジュイスン監督作品の中で最も好きな作品である。
彼は「屋根の上のバイオリン弾き」「ジーザス・クライスト・スーパースター」という秀作ミュージカルを経て、1974年に来日した後に「ローラーボール」という駄作を作ったのが災いしたのか、その後余りパっとしなくなった(その駄作がリメイクされてさらに輪をかけた駄作になったのは記憶に新しい)。
主演のスティーヴ・マックィーンとは「シンシナティ・キッド」以来二度目のコンビだが、こちらのほうが終始快調である。
若き実業家で資産家のトーマス・クラウン(マックィーン)が自己の闘争心を満足させる為に銀行強盗を敢行する。五人の見知らぬ同士の男たちを雇って実行させ、本人は素知らぬ顔。
犯行場面は画面をマルチに分割して展開するが、この手法はこの後数年間流行した。別の人物の行動を一緒に描くと思えば同じ場面をマルチで捉えるなどして、生き生きした呼吸を生み出している。最近流行の言葉で言えば、印象深い絵作りで「つかみは成功」といったところである。
やがて、保険会社の腕利き調査員(フェイ・ダナウェイ)が彼に目を付けて接近するのだが、彼女が正体を明かしてから虚々実々の駆け引きを繰り広げるのは今でも新味がある。
二人がチェスを繰り広げる場面は圧巻と言うべし。彼らの駆け引きのシンボライズであると同時に恋が本格的に始まる契機となっているからで、二人の顔をカットごとにクロースアップ度を進めていく洒落た演出が面白い。二人は恋に落ちたのだ。
チェスのルールを知っていればもっと面白かっただろうと悔やまれる名場面である。
本作は犯罪映画にみせかけた恋愛映画である。この後はそれを前提に語る。
彼らは砂浜でサンド・バギーを飛ばすなどデートを楽しむが、彼はもう一度銀行強盗に挑戦すると言い出す。結局警察に連絡を取った彼女は現金の受け取り場所である墓地で待つのだが、現れたのは代理の若い男。彼から渡された手紙には「金を持って会いに来い」と書かれている。
再会を期するようで、実は裏切りを前提に書かれた別れの言葉。最近の恋愛映画でこれほど大人の映画があっただろうか。分かり易いハッピーエンドか別れしかない。そうした作品に慣れた若い観客にフェイ・ダナウェイの涙の意味が分るだろうか。
書く場所がなかったのだが、前半彼がグライダーを操る場面が良い。そこにオープニング・タイトルでも流れた主題歌「風のささやき」が乗る。この冒険的気分はフランス青春犯罪映画の金字塔「冒険者たち」の爽快さに通じ抜群。
単純な爽快さではなく、その中に青春への決別の思いが込められている。物悲しさに涙を禁じえない。
この記事へのコメント
この作品、かっこいいシーンばかりですが、特に大好きなのがフェイが初登場するシーン。めちゃくちゃかっこいい!彼女の出演作品でピカ1に美しくかっこいいシーンなのでは…。
この映画は恋愛映画、より正確に言えば、青春と決別する気持ちを洒落っ気たっぷりに表現した映画なんだろうと思います。犯罪も恋愛も実はその要素なんでしょう。
フェイ・ダナウェイは80年代に入って突然顔が変わりました。化粧のせいでしょうけど、小生のイメージはごっついつけまつげの彼女。「俺たちに明日はない」と「華麗なる賭け」が彼女のベストであります。
う~~ん、♪「風のささやき」名曲。
D・スプリングフィールドの歌版も好きでした。
ダナウェイは'76年「ネットワーク」から変貌したと私は思っています。
彼女はたくさんのいい作品に出演しましたね。「コンドル」も「さすらいの航海」も良かったし個人的にはルネ・クレマンの「パリは霧にぬれて」の彼女がキレイに撮れていた気がします。
>ミシェル・ルグラン
この頃人気があったのが彼とニーノ・ロータ、フランシス・レイ、エンニオ・モリコーネ。やはり昔の映画がいいや。
>フェイ・ダナウェイ
「三銃士」「四銃士」なんて、リチャード・レスター監督作品も面白かったですよ。「チャイナタウン」もあるでよ(笑)。
「さすらいの航海」はローゼンバーグかあ。見ごたえ十分でした。
「ネットワーク」「コンドル」・・・ルメットとポラックのシドニーご両人。彼女の絶頂期でしたね。
70年代初めの「パリは霧にぬれて」・・・綺麗でした。邦題も配給会社が色々と工夫を凝らしていた時代ですね。最近は横文字ばかりですものねえ。「トーマス・クラウン・アフェアー」か。
シェールがオスカーを獲った「月の輝く夜に」は80年代後期の作品ですが、中途半端にしか観てないので印象は薄いです。
横文字ばかりのタイトルが多い昨今の傾向には、随分前に怒りの記事を書いたことがあります。『芸がない』と・・・。
映画音楽のことでしょ、だまってはいられませんもの。
>この頃人気があったのが彼とニーノ・ロータ、フランシス・レイ、エンニオ・モリコーネ。やはり昔の映画がいいや。
私の大好きなモーリス・ジャールが入ってな~~~~い!
(これを言いに来ました、はい!)
<カタカナの映画名>
私、個人的に「エグゼクティブ・デシジョン」('96)あたりから激しくなってきた感強し。この題名、まずどんだけの日本人がちゃんと1回で言えて意味もわかっているか、はなはだ“おぼろ”(笑)
先日映画好きの知人(私より一回りも若い)の言うことにゃ、「アルキメデス・エスカーダの3度の埋葬」の記事、良かったね」じゃと。
プロフェッサー、何の映画か、わかりますよね?
詳細は忘れましたが、「アメリカ上陸作戦」はちょっとしたブラック・コメディーでしたよね。
「月の輝く夜に」は結構評判良かったのですが、世評ほどではなかったなあという印象です。要は好みではなかったのでしょう。
カタカタ隆盛のきざしは70年代半ばからぼつぼつ現れてきたようには思いますね。それでもまだ遠慮していたところがありましたが、最近は意味不明でも何でもありですね。
「エグゼクティブ・デシジョン」「コラテラル・ダメージ」・・・ナンダコリャ。
>モーリス・ジャール
いやあ、メロディアスで思わず口ずさむようなのを思い浮かべたものですからね。
しかし、「裸足のイサドラ」の主題曲なんか口笛で吹きたくなりますね。「ドクトル・ジバゴ」の「ララのテーマ」もそう。やっぱりジャールもいいや(笑)。
>カタカナ題名
「透きとおった夕暮れ」などという内容に似つかわしくないが綺麗な邦題の作品が公開されたとも70年代初めですね。「小さな恋のメロディ」「八点鐘が鳴るとき」など、皆同じ時代。配給会社の方々・・・頑張っていらっしゃった。
「ジョーズ」とか「スター・ウォーズ」といった辺りから雲行きが怪しくなりましたね。要は特撮映画及びCG映画の隆盛と共に、カタカナがもてはやされるようになったのでしょう。シュワルツェネッガーに「未来から来た暗殺者」(ターミネーターのつもり)は似合わない?
最後のピカレスク小説みたいなタイトルはなかなか憶えられませんね。思わず「となりのトトロ」のめいの「とうこもろし」状態になってしまう。「とうこもろし」ではなかったかもしれませんが、突っ込まないように。
全く映画については素人とお見受けしたので親切に消して上げたのにまたいらっしゃるとは。
暫く一つだけ残しておきますよ。いい恥さらしになるのはそちらですから。
リメイクについての理解も適当ですね。あれが全く無関係? 何を見ているのでしょうか?
私も昔、テレビで「ローラー・ボール」を観ました。そして、ひどくひどく興奮したのを覚えております。
この当時、ローラー・ゲームなるスポーツともショウともつかぬ怪しいエンターテインメントが一世を風靡したのをプロフェッサーは覚えていらっしゃるでしょうか。佐々木ヨウ子率いる東京ボンバーズがすごい人気でした。あの時代の風潮に上手く乗る形で制作された過激なSFが、タイムリーに子供心を捉えたのだと思います。
その後、ずいぶんと大人になって、レンタル・ビデオで再び「ローラー・ボール」観たのですが、残念ながら当時の感動は蘇ってきませんでした。
例えば「イージー・ライダー」がヒッピー・ムーブメントやカウンター・カルチャーを知らなければ語れぬように、普遍的なモチーフを持たぬ映画は時とともに風化してしまうのが定め。「ローラー・ボール」もまた時代の要求や熱気に支えられていたのかもしれません。
とはいえ、殺人ゲーム(スポーツ)という荒唐無稽な設定が子供なりにショッキングで、重厚な演出と相まって、ズシンと私の心に何かを植えつけてくれたのも事実でございます。
ただし「ローラー・ボール」で描かれている近未来の管理社会は、当時としてもいささか古色蒼然とした設定だったのではないでしょうか。「アルファビル」、「華氏451」、「THX-1138」など前例も多く、これらに比べると、風刺、諧謔性はいかにも形だけを真似た付け足し程度の印象。
「ローラー・ボール」は社会派映画というより、むしろ「時計じかけのオレンジ」だったり「ウォリアーズ」、「マッド・マックス」、または「ニューヨーク1997」や「ブレード・ランナー」など、一部のファンに熱狂的に支持されるCULTなバイオレンス・ムービーといった位置づけがふさわしいかと私は思います。
むろん、後にリメイクされるほどの人気からも窺えるように、私と同じく多くの人が「ローラー・ボール」から何らかの感銘を受け、記憶に留めていたのでしょう。
凡作とは手厳しい評価に思えますが、さりとて名作「華麗なる賭け」と比較するならば、プロフェッサーが辛口になるのも頷ける気がいたします。
なおリメイクされたマクティアナンの作品は、まさにスットドッコイな駄作で目も当てられない出来でしたね。
お邪魔をして、言いたいことを申しました。若輩者の意見ゆえ、どうか平にご容赦を。
話題になっている「ローラー・ボール」はTV放映で1度だけ
観た記憶がある程度ですので映画自体へのコメントは控えさせて
いただきます。
CHANG CHANGさんはご自分のブログは持っていらっしゃらない方?
せっかくのいい機会ですもの「ローラ・ボール」賛辞の記事、
TBなさればよろしいのに~。
私もぜひ!お読みしたいわ~。
それを拝読したアカツキには私も「ローラー・ボール」を
再見したいと思います。
異論を述べるのであればキチンと「感動した箇所」とか
「こういうところが巧い」とかCHANG CHANGさんの深読みの
妙味をここにご紹介下されば、お話のしようもあろうと
いうものじゃございませんかしら。
さて、お次は、プロフェッサーの番よ。
つづきます。
心に届いてなかったようですね。
「愛がなければ相手の心に響かない」~ルーテルアワー~(笑)
きっと私の「愛」が足りなかったのでしょう。
それでは再度言います。
異論には、
「せめて、1日、考えましょうよ。」
CHANG CHANGさんへの、プロフェッサーのコメントは
誰が見ても「感情的」になっています。
プロフェッサーが以前おっしゃっていましたよ。
異論を述べるなら“かくかくしかじか、じゃによって”と
キチンとした意見(映画の見方)を持ってしかるべきと。
プロフェッサーが、「ローラー・ボール」の記事、
UPなさればよろしいのでは?
それがスタンダードなやり方ではないでしょうか。
つづきます。
プロフェッサー、これは言ってはいけないことではないでしょうか。
私たちは映画作成者でも映画評論家でもありませんし、映画で
ご飯を食べているわけでもありません。
映画を「観ること」「語ること」に素人も玄人もないはずです。
プロフェッサーだけではなく、誰しも自分の観方が一番!と
思っているのです。(よくおわかりのはずなのに~)
そしてCHANG CHANGさんがプロフェッサーの記事を
“いつも読んでくれている方として対処しなければならない”
のも忘れてはならないと・・・。
詳細な説明を有難うございます。
私はいずれ、「映画における社会性の価値」といったコラムを書こうと思いますが、優一郎さんのコメントで半ばそれは達成されていると思います。CHANG CHANGさんにはその時まともな形で反論して戴ける事を願っております。
いや身に沁みて解っております。だから一度目は素直に消去して何の反応もしなかったのです。
しかし、彼は同じコメントを別のハンドルネームで書き込み、誹謗中傷する確信犯的な「荒らし」です。
彼は方法論を間違えました。
私は「華麗なる賭け」の紹介の中で【駄作】と紹介しただけで、その理由は一言も触れておりません。従って、彼は文句を言う前に、私が何故【駄作】と断じたか私に問うべきなのです。その方法を取らず、欠席裁判的に「スペクタクル云々」などと言っているようでは、私が様々な作品で始終触れている「映画における社会性」をどう考えているか全く理解していない。従って、このブログの常連ではないということは容易に知り得ます。多分真の映画ファンですらないでしょう。
(続く)
その範囲でその内容をどう感じるかが自由なのです。趣味に口出しはできません。その辺りを混同している人が余りにも多い。
作者が狙ったことも理解せずにどう観ても良いはずがありません。それは作者に対し余りにも不遜です。
彼の態度は「ローラーボール」への、そして映画への愛情に欠けている。彼が本当にそれらを愛しているなら、私に理由を問うべきだったでしょう。
「ローラーボール」の映画評は書く予定はありませんが、それに関して「映画における社会性の価値」といった内容のコラムは近日中に書くつもりです。
繰り返しますが、彼が一度目なら私は無視しましたよ。
私の信頼しているviva jijiさんからこうした批判を導くような欠席裁判的、誹謗中傷的コメントは二度とご免です。
コメントでけっこう難しいことになっているところへ、偶然にもとびこんでしまいました。自分でもびっくりです。
この作品に関しては、めすらしくプロフェッサーとは感じるところがかなり違いましたね。
正直、TBするのが怖かったのですけど(笑)。
何度も鑑賞しているので、私の個人的な好みとしての願望が、思い入れが強いせいもあるかもしれません。ただ、それ以上に私の中ではあのトーマスの、マックィーンの目、あの眼差し。あれがとてつもなくクールに感じるんですよね~。
やはり、私は冷静な映画評でなく、単純に個人的な好みによる感想で、自分の感じたままを書くしかできないんですよね。
上のやりとりを読んでしまった為に、ちょっと、コメントしずらかったのですが・・・。プロフェッサーにはおこられるかな。
でも懲りずに、お付き合いいただければと思います。
では、また。
ちょっと怒りモードになっていましたからね。失礼致しました。
本作の場合ロマンスとも犯罪映画とも取れる作り方をしていることは確かですね。私もイエローストーンさんも「これはこういう映画である」とわざわざ触れているのはその証左みたいなもの。
「虻蜂取らず」と言って一般的に余り上手く行かないタイプの作り方ですが、本作の場合は上手く行っているような気がします。
一方、リメイクは明らかにロマンスのある犯罪映画ではないでしょうか。ロマンスはあくまで犯罪映画を飾る要素と受け取りました。結果的にはリメイクも意外と楽しみましたが。
最後のお言葉は寧ろ私が申したいところです。それほど堅苦しく考えないで、気軽にTB,コメントお寄せください。
映画の見方って、一つじゃないのですよね。だから、褒めるのは良いとして、けなす時には細心の注意を払うべきだという事を今回の事で学習しました。私も無条件に“ジュラパ"は史上最低の作品だとあちこちで書い
たけど、反省しましょう。
華麗なる賭け…いまでも「風のささやき」大好きです。そしてこのメロディ聴くだけでいくつかのシーンが蘇ります。銀行強盗の手口の面白さ、そして二人の恋の落ち方、揺れる気持ち、ビジネスと恋愛の二重の駆け引き、ラストのまさに華麗なる賭け、ラストまで裏切らずに納めてくれた。感激でした。いろんな要素が含まれているのにそれらが滑らずにきちんと押さえられている。フェイ・ダナウェイの揺れる女心もきちんと押さえている。今観てもうまいなぁって思います。言われるように犯罪映画に見せかけた恋愛映画、でも犯罪のサスペンス色も最後まで薄まず、きちんと絡めて、そしてラスト!この頃の作品って音楽も心に残っている作品多いですよね。映画と音楽が一体となって頭と心に残っていて化学反応するみたい。
正に仰るとおりです。恋愛映画ですが、最後まで犯罪映画としてのサスペンスも維持し続けた、60年代映画の金字塔です。
私は映画音楽の変化の兆しは「卒業」に始まり、「アメリカン・グラフィティ」が決定的に変えてしまったと思っております。
それ以来映画音楽は、曲ではなく歌が中心になってしまった。最近の映画はエンディング・クレジットで主題に絡む歌がかかり、説明をする。これも気に入りませんねえ。「アメリカン・ビューティー」の"Because"には余りのフィットぶりに思わず唸りましたが。
ルグラン、ニーノ・ロータ、エンニオ・モリコーネ、フランシス・レイ、ミクロス・ローザ・・・優れたメロディメーカーが活躍した時代です。みんな大好きです。
個人的には「個人教授」のラスト・シーンがレイの甘美な旋律と共に印象に残っています。Reiさんだから言うわけではありませんが(笑)。
60年代、70年代って本当にいい映画がありましたよね。個人教授もCSなどで今見直しても、決して軽さを感じず、青年の成長物語として大人の女性への憧れと恋、大人になるための痛みをじっくり描いている。ラスト、涙を噛みしめたルノー・ベルレーの顔、よかったですね。そう、この頃の映画って(作品にもよりますが)オーバーにわめいたり、嘆いたりせず、じっくり描いてる作品が多かった。だから登場人物の内面にまで見る側もゆっくり入っていけた。だから今見ても観るに耐えうるんだろうと思います。こんな作品がいまでは少なく、たいてい単館上映で上映期間も短い。今は出会ったらすぐに恋に落ちて、すぐにベッド・イン。本当にVivajiijさんの言うように、留めて、延ばしてという発酵から熟成を端折っているから味がないのが多い。お酒も昔は手間暇かけて作ったから美味しかった。
昨今の映画は、両極端になっていると思います。ミーハーは徹底的にミーハー、考えることが好きな向きには極めて観念的な不透明な映画。
そうですねえ、そういう区別が全くなかったのが50年代まで、60~70年代になるとぼちぼちその気(け)が出てきますが、まだまだ本格ファンを唸らせるロマンスやアクション映画も多かったですよね。
じっくりもじっくり、省略を使って余韻の効果もばっちり、映画が映画らしかった時代。そういうことを言うと必ず「考えが古い」といちゃもんをつけられますが、映画を味わうのに古いも新しいもないでしょう。真の映画芸術とはどういうものかを突き詰めていけば、昨今の映画(の多く)が映画的と言えましょうか。寂しい時代になりました。
ベルレー、懐かしい名前になりましたねえ。
♪青春時代が夢なんて~ 後からほのぼの思うもの~