映画評「野性の少年」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1969年フランス映画 監督フランソワ・トリュフォー
ネタバレあり
フランソワ・トリュフォーには大きく分けて三つのタイプに分けられるが、この作品はどれにも当てはめることが出来ない。心理学と生物学の分野でよく知られる<アヴェロンの野生児>をテーマにしているのである。
フランス革命勃発から9年後の1798年にアヴェロンの森林で犬すらかみ殺してしまう野獣のような少年(ジャン=ピエール・カルゴル)が捕えられ、パリの聾唖研究所に引き取られる。所長は両親に嫌われて棄てられた白痴の子供と断定するが、内科部長のイタール博士(トリュフォー)は、環境に馴染ませれば健常人になると主調して自宅に引き取り、家政婦のゲラン夫人(フランソワーズ・セーニエ)と二人三脚で彼を教育していく。
ある一本の映画を思い出さずにはいられない。アーサー・ペンによるモノクロ映画の秀作「奇跡の人」である。ヘレン・ケラーも事実上野生児であった。また、エドガー・ライス・バローズの「ターザン」は恐らくこの少年によりインスパイアされたものと思う。
まず内容面についてだが、何より心理学、生物学に留まらず、教育学の面から大いに考えさせられる部分があり、非常に興味深い。例えば、部屋の窓を開けておいてズボンを自ら履かせるように仕向けたり、ミルクをだしに発声させようと試みたりするわけだが、一方で、余りに喋らせることに注力しすぎて問題のある聴力についての考慮が足りなかったと反省する辺りには、教育は単眼的になってはいけないという戒めのようなものが感じられる。
教育におけるコミュニケーションの大事さに踏み込んでいるが、トリュフォーが親とのコミュニケーション不足により少年鑑別所へ入れられた過去を考えると、より大きな感慨に繋がっていく。
その一方で、自然に対応することができ体も頑丈だった少年が、徐々に人間的な体質に成り自然に身を委ねることができなくなるといった部分からは文明について考えさせる要素をも内包している。
技法的には、サイレント映画でよく使われたアイリスによる場面転換を細部強調の手段としても用い、同時にクラシカルなムードにも繋げている。
また、木に登っていた少年を延々とズームアウトするのは、ヒッチコックの得意とした<最も遠くから最も近くへ>を応用した印象があり、面白い。
音楽はアントワーヌ・デュアメルとなっているが、全てヴィヴァルディの既製曲を採用。トリュフォーの旧作「黒衣の花嫁」で用いられた「マンドリン協奏曲」がフィーチャーされ、「高校教師」でも使われた「ピッコロ協奏曲」と併せてクラシックな気分満点。
1969年フランス映画 監督フランソワ・トリュフォー
ネタバレあり
フランソワ・トリュフォーには大きく分けて三つのタイプに分けられるが、この作品はどれにも当てはめることが出来ない。心理学と生物学の分野でよく知られる<アヴェロンの野生児>をテーマにしているのである。
フランス革命勃発から9年後の1798年にアヴェロンの森林で犬すらかみ殺してしまう野獣のような少年(ジャン=ピエール・カルゴル)が捕えられ、パリの聾唖研究所に引き取られる。所長は両親に嫌われて棄てられた白痴の子供と断定するが、内科部長のイタール博士(トリュフォー)は、環境に馴染ませれば健常人になると主調して自宅に引き取り、家政婦のゲラン夫人(フランソワーズ・セーニエ)と二人三脚で彼を教育していく。
ある一本の映画を思い出さずにはいられない。アーサー・ペンによるモノクロ映画の秀作「奇跡の人」である。ヘレン・ケラーも事実上野生児であった。また、エドガー・ライス・バローズの「ターザン」は恐らくこの少年によりインスパイアされたものと思う。
まず内容面についてだが、何より心理学、生物学に留まらず、教育学の面から大いに考えさせられる部分があり、非常に興味深い。例えば、部屋の窓を開けておいてズボンを自ら履かせるように仕向けたり、ミルクをだしに発声させようと試みたりするわけだが、一方で、余りに喋らせることに注力しすぎて問題のある聴力についての考慮が足りなかったと反省する辺りには、教育は単眼的になってはいけないという戒めのようなものが感じられる。
教育におけるコミュニケーションの大事さに踏み込んでいるが、トリュフォーが親とのコミュニケーション不足により少年鑑別所へ入れられた過去を考えると、より大きな感慨に繋がっていく。
その一方で、自然に対応することができ体も頑丈だった少年が、徐々に人間的な体質に成り自然に身を委ねることができなくなるといった部分からは文明について考えさせる要素をも内包している。
技法的には、サイレント映画でよく使われたアイリスによる場面転換を細部強調の手段としても用い、同時にクラシカルなムードにも繋げている。
また、木に登っていた少年を延々とズームアウトするのは、ヒッチコックの得意とした<最も遠くから最も近くへ>を応用した印象があり、面白い。
音楽はアントワーヌ・デュアメルとなっているが、全てヴィヴァルディの既製曲を採用。トリュフォーの旧作「黒衣の花嫁」で用いられた「マンドリン協奏曲」がフィーチャーされ、「高校教師」でも使われた「ピッコロ協奏曲」と併せてクラシックな気分満点。
この記事へのコメント
教師に対する少年の愛情がじんわり来るようないい作品だなぁ~と思います。
一年ほど前に見ましたが、また見たくなりますねえ。
そちらのブログのおかげで、題名の間違いに気付きました。これは、私の失態としてはかなり大きな部類でした。初日に気付いて幸いだったかな。
私は二度目ですが、簡潔な話術が大変魅力的です。
少年の愛情に目を向けるのはなかなか面白いと思います。終盤の解釈は両義的で、既に野生に適応できなくて戻ってきたとも考えられますが、教師に親しみを覚えて戻ってきたと考えるとじーんとしますね。そのほうが明らかに後味が良いです。
>全てヴィヴァルディの既製曲を採用。
エンドクレジットでヴィヴァルディの名前が出ていたので分かりましたが、全部そうだったんですね。映像にピッタンコでした♪
実は最初に観た時、少年が初めて言葉をしゃべったときにウルッとしました。どうも、その時はゲラン夫人に感情移入したようです。(笑)
>教育におけるコミュニケーションの大事さに踏み込んでいるが・・・
どうしてもトリュフォーの少年時代を重ね合わせてしまいますよね。彼のメッセージが感じられるシークエンスでした。
>ヴィヴァルディ
「マンドリン協奏曲」も「ピッコロ協奏曲」も良く知っているのでピンときました。クラシックなモノクロ映像に見事に映えましたね。トリュフォーに現代音楽は余り似合わない(笑)。
ついでながら、ヴィヴァルディの「ギター協奏曲」は「リトル・ロマンス」と「11人のカウボーイ」に使われていたと思います。
子供が初めて言葉を話す時って、感動しますよねえ。遠い目になりますが(笑)。
トリュフォーがこの作品を作った背景には、当然親と上手く意思疎通できなかった彼の少年時代があると思います。それどころか作品のモチーフだったのでは?
わたし、この作品、学生のころ、某教育大学の自主映画上映で公共施設の視聴覚ホールで観ました。
確か刺激を受けて、インドのアマラとカマラの狼に育てられた少女に関する本も読んだ記憶がありますよ。教育ってすごいですよね。子供がどんどん成長していきます。こちらまで成長できるんじゃないかと思ってしまいます。それにしてもトリュフォー演ずるイタール先生、気持ちはわかりますが、あせりすぎですよね。あれじゃ、詰め込み教育ですよ。
美しい映画でした。わたしの好きな場面は、少年が窓から自然を見つめて水を飲むシーンです。イタール先生のヴォイスオーヴァーと素敵な音楽(ヴィヴァルディの曲だと初めて知りましたよ)、少年の自然への郷愁が、思い起こされ美しい心の洗われました。
「奇跡の人」や「ターザン」を想起されてたようですが、わたしも同様にイメージが重なりました。
では、また。
昨晩は体調不良で何もできない状態でした。現在もまだ完調ではないですが、書き込みくらいは何とかできそうです。
本稿では、三つの分野のどれにもあてはまらないと書きましたが、四半世紀以上前には「大人は判ってくれない」は子供を描くグループに入ると書いています。
いつの間にか三つの分類が変わっていたようです。
昔は、ドワネルものを含めた恋愛映画、サスペンス系列、そして子供を描く作品。
最近は、ドワネルもの、恋愛もの、サスペンス系列。
無理に三つに分けるのも変なので、これに子供を加えても良いわけですね。
事情が些か奇異とは言え、先にあるのは教育とコミュニケーションの問題ですから、やはり子供を描く子供を描くタイプに入れて良いでしょうね。
ヴィヴァルディの「マンドリン協奏曲」がこちらに使われているのは記憶していますが、「黒衣の花嫁」に使われていたのはすっかり失念しておりました。「ピッコロ協奏曲」はドロンの「高校教師」で耳にこびりつきました(笑)。
さて、わたしとしては狭い範囲でゴダールばかりにこだわってしまっているところですが、トリュフォーも必然的に、そこから切りはなせないわけです。
好き嫌いは別として、トリュフォーにおいては「華氏451」や
オカピーさんもおっしゃられている「思春期」での
>子供が生まれたばかりの男性教師が夏休み前に子供の人権について語る場面・・・
そして、この「野生の少年」などを思い浮かべるとき、ただものではない、確かに「単に」デュヴィヴィエ(わたしとしてはそこも好きなところなんですが)に回帰しただけではないもの、優れた作家性を感じるわけです。
わたしは、「社会派(いい加減であいまいな体系付けですが語彙がみつかりません)」の最も主たる要素として、セックスと、教育という問題提起が、実に重要なテーマであるようにも感じているところです。
セックス(もっと穏やかに広い意味で言うと「恋愛」とか「女性」)や子どもに焦点を当てようとしている作家に、いわゆる社会問題に敏感な作家性を感じているわけです。というわけで、わたしはトリュフォーは、とても奥深い作家だと思っているところです。
ハリウッド・フィルム・ノワールにしてもファム・ファタルの極度のセクッス・アピールなどに、社会矛盾を重ね合わせている部分も大いにあり、それと同様にトリュフォー特有のサスペンスの特徴が、女性にこだわっている部分にあると思うわけです。
長々と小難しいことばかり並べ立ててすみません。わたしは、この「野生の少年」の再見から、ただものではないトリュフォーをあらためて感じ、とっても多くの充実感が湧き上がっているんです。
では、また。
P.S.
>『高校教師』に「ピッコロ協奏曲」
うわあ恥ずかしいです。それ知りませんでしたよ。ファン失格、再勉強(確認)します。
特に「大人は判ってくれない」に始まる子供を描いた作品群(という程ありませんが)には社会性を感じます。「華氏451」には勿論社会性がありますが、一見あちゃらかなドワネルものの中にも社会を見る視線の確かさを感じますね。
ただ、それを前面に押し出さずに洒落っ気で彩ったところがトリュフォーの素晴らしさと思っています。余り社会批判的な部分が強調されますと映画は味気なくなってしまいますから。上品な映画作りと言っても良いのではないでしょうか。社会派と言われるオリヴァー・ストーンの作品などは確かに<パワー>を感じますが、映画としては潤いが欠けて何だかつまらないんですよね。
「高校教師」ではジャズ風に変えられていましたから解りにくいのですよ。劇場の中で待っている時に中から聞こえてきたのを今でも憶えています。懐かしいですね。
>文明について考えさせる要素をも内包している。
少年が木に登る術を失う。こんなシーンは考えさせられますけど、ここだけで終ってますよね。この辺りはトリュフォーは動考えていたんでしょうね。これは問題提起だけに終ったんでしょうか?トリュフォー自身と重ね合わせ感慨深い作品です。
トリュフォー作品のアントワーヌシリーズは、随分と記憶が断片的になってきました。こんな作品を観ると、今までは作品単体で観ていたのですが、彼の作品をトリュフォーの人生というか、そんな視点でもう一度
初めから順に観たくなりますね。
今「トリュフォーの再来」と言われたアルノー・デブレシャンを見直してます。彼の作品はスクリーンで見るといつも途中で多分10分~15分ばかし居眠りしてしまう。眠くなる。テレビ画面で見ると、面白いことに、案外とすんなり私の中に入ってくるみたいです。これは何なんでしょうね。4作品録画しているんで順に見始めてます。P様はデブレシャンは? 明日はヘンダーソン夫人TBしますね。
「トリュフォーの思春期」そして「野生の少年」と見て、やはりトリュフォーって見るたびに新鮮ですね。またまたトリュフォーに嵌りそうです(笑)
>文明・・・問題提起
子供が社会と馴染むということも一種の文明であるということを考えれば、二律背反的でやむを得ないことなんでしょうね。
この記事を書いた時重大な思い違いをしていて、かつてはトリュフォーについては違うように四つに分類していたんです。
即ち、恋愛もの、ドワネルもの、スリラー系、子供もの(一部ドワネルものに重なる)。
すると、本作は「大人は判ってくれない」「思春期」と併せて<子供を描いた>グループに入れることが出来たんです。^^;
「夜霧の恋人たち」辺りからドワネルものに喜劇的要素が濃厚になり、そこに少年時代の傷から脱却したトリュフォーの姿を見出したものです。シュエットさんもご同様のようですね。^^
>デブレシャン
すんません。
田舎には全く来ませんし、WOWOWも彼はカバーしていません。
CSでも契約しないと彼はカバーできないかもしれません。TT
トリュフォーの後継者と僕が思うのは、セドリック・クラピッシュですね。特に「ロシアン・ドールズ」にはトリュフォーのの味わいを感じましたねえ。