映画評「ある子供」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2005年ベルギー=フランス映画 監督ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
ネタバレあり
カンヌ映画祭の受賞結果に違和感を覚えるようになって長い。
リュックとジャン=ピエールのダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」はグランプリに相当するパルムドールを受賞したがピンと来なかった。続く「息子のまなざし」のほうが遥かに親しめたが、再びパルムドールを受賞した本作も理屈で理解出来るところもあるが、肌に合わない。
盗んだ物品を売って生活費を稼ぐ20歳の若者ジェレミー・レニエは、18歳の恋人デボラ・フランソワの産んだ子供を物品のように売ってしまう。彼女がショックで倒れたので子供は取り返したものの、彼女が無視し続けるのでにっちもさっちも行かなくなり、強盗を自白して服役する。
ダルデンヌ兄弟は安定せずどうも落着かない手持ちカメラを使うのがいけない。これが肌に合わない最大の理由である。歩いているところを捉えるといった自然主義的な演出スタイルが、構成や作りを重視して見る僕の鑑賞スタイルと相性が悪いということもある。
一般論はさておいて、社会の底辺でうごめく若者を捉えてきたテーマは変わらず、今回は赤ん坊が狂言回しである。従って、タイトルの「子供」がこの赤ん坊を指すことは間違いないが、寧ろ本質的にはレニエ扮する若者を指したダブル・ミーニングという感じが強い。つまり、一連の事件を通し【子供】の一通りの成長を描いているわけだが、まだまだ予断を許さないといったところで終っている。
こういうタッチの作品なので面白いという言い方は変なのだが、自分の赤ん坊を盗品と同じように捌こうとする辺りの若者のドライさが一定の興味を引く。しかし、人生の一部を切り取って描くという自然主義的スタイル故に青年の環境や過去などに一切触れず、この若者に対し余り共感・同情できないような設計になっているのは劇映画として評価する時甚だ不都合と言わざるを得ない。
2005年ベルギー=フランス映画 監督ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
ネタバレあり
カンヌ映画祭の受賞結果に違和感を覚えるようになって長い。
リュックとジャン=ピエールのダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」はグランプリに相当するパルムドールを受賞したがピンと来なかった。続く「息子のまなざし」のほうが遥かに親しめたが、再びパルムドールを受賞した本作も理屈で理解出来るところもあるが、肌に合わない。
盗んだ物品を売って生活費を稼ぐ20歳の若者ジェレミー・レニエは、18歳の恋人デボラ・フランソワの産んだ子供を物品のように売ってしまう。彼女がショックで倒れたので子供は取り返したものの、彼女が無視し続けるのでにっちもさっちも行かなくなり、強盗を自白して服役する。
ダルデンヌ兄弟は安定せずどうも落着かない手持ちカメラを使うのがいけない。これが肌に合わない最大の理由である。歩いているところを捉えるといった自然主義的な演出スタイルが、構成や作りを重視して見る僕の鑑賞スタイルと相性が悪いということもある。
一般論はさておいて、社会の底辺でうごめく若者を捉えてきたテーマは変わらず、今回は赤ん坊が狂言回しである。従って、タイトルの「子供」がこの赤ん坊を指すことは間違いないが、寧ろ本質的にはレニエ扮する若者を指したダブル・ミーニングという感じが強い。つまり、一連の事件を通し【子供】の一通りの成長を描いているわけだが、まだまだ予断を許さないといったところで終っている。
こういうタッチの作品なので面白いという言い方は変なのだが、自分の赤ん坊を盗品と同じように捌こうとする辺りの若者のドライさが一定の興味を引く。しかし、人生の一部を切り取って描くという自然主義的スタイル故に青年の環境や過去などに一切触れず、この若者に対し余り共感・同情できないような設計になっているのは劇映画として評価する時甚だ不都合と言わざるを得ない。
この記事へのコメント
「自分の赤ちゃんを物のように売ることができる青年」という設定は、いかにもカンヌ審査員好みの衝撃的な内容には違いありません。でも、どうにも唐突で乱暴すぎて・・・私は観客としてのスタンディング・ポイントを定めることができぬまま観続けていました。
主人公と母親の関係を物語るようなエピソードが挿入されていたなら、印象はがらりと変わるのでしょうね。
例えば母が入院する。主人公が見舞うが会話が成立しない。母は今付き合っている男が見舞いに訪れない愚痴を息子に聞かせる・・・そんなシーンだけでも十分だったのではないかと。通俗に流れるかもしれませんが・・・。
けれど、赤ちゃんに愛情を感じることができない青年の心の闇を、何かの形で裏付けてくれたら、観客は物語に核心を見出せると思うのです。
もっとも、私はこの兄弟の画作りの姿勢が好きで、これはもう好みとしか申し上げられません^^;
基本的に同意見です。
主人公が最初から同情を引ける立場であれば、余分な描写は要りません。が、彼は犯罪者であり、自分の子まで捌こうとし、そのままでは好感の持てる人物ではありません。鑑賞者は勿論失業問題や彼の家庭環境を想像をします。省略は映画を膨らます素晴らしい手法ですが、全てを観客の想像に任すのは、果たして商業映画としてどうでしょうか。ほぼ同じ手法で作られた「息子のまなざし」に満足しやすいのは、主人公が複雑な背景を要求しない被害者であったからです。
大衆的と通俗的を分けて使っています。例えば、「映画は大衆的に作るべきだが、通俗に落ちてはいけない」といった具合です。優一郎さんの述べられたようなエピソードは、描き方にもよりますが、通俗的とまでは言えないと思いますよ。
(続く)
しかし、先日高校の文化祭を撮ったビデオを見た高校生が倒れた例があるように、安定しない画面には酩酊を起こす作用があって私もイライラすることがありますね。
ダルデンヌ兄弟の諸作はそれほどでもないですが、作品名も監督名も思い出せない、日本の女性監督の作品では文字通り寝込んでしまいましたよ(笑)。
ロゼッタしか観たことがないのですが、わたしもなぜパルムドールかがわからなかった感じです。
すっかり中身は忘れてますけど。
カンヌは近年(と言っても70年代以降)どうもメッセージ性の強い作品が選ばれる傾向にあるので、私は余り感心しないのです。選手者が映画に直に携わっているので、ヴィヴィッドな選出であることは認めますが、ちといかんです。
昔は映画自体が凄かったのか、選出者のセンスが良かったのか知りませんが、後世に残って当然の名作ばかり。最近選ばれた作品の中で半世紀後も評価される作品がどのくらいあるか。
優一郎さんの記事はまだそうでもありませんが、
他サイトの感想では「それって深読み過ぎじゃない?」
ってくらい微細でいささか食傷気味。
~例~
あの重いバイクを押すシーンは“辛い現実”を象徴、
あの空っぽの乳母車は、“空虚な主人公のこころ”、ですと。
映画は深読みしようと思えば、いかようにも、いくらでも、
際限なくできますよ。
加えて、
ダルデンヌ兄弟は観客の“それら”を誘い込むように
作っているようにしか私には観えなかったのです。
すみません、削除お願いいたします。
あれはLivedoorの馬鹿めが悪くて、別の方でもありましたよ。
>乳母車
と言えば「戦艦ポチョムキン」(笑)。
それはちと考えすぎみたいですね。確かに監督さんによっては色々深読みさせるショットやシーンを盛り込む方もいらっしゃいますが、幾つかの関連付けで明らかにそう理解できる場合を除けば余りの深読みは避けたほうが無難でしょうね。ま、私もたまにやっているような気がしますが(笑)。
「息子のまなざし」だけは面白かったですが、残りはピンと来ないので、今のところこの兄弟の評価はそう高くないです。兄弟ならイタリアのタヴィアーニ兄弟が良い。「カオス・シチリア物語」や「グッドモーニング・バビロン」が素晴らしかった。
ちなみにアイマックス・シアターとか手ぶれ映画の代表「プライベート・ライアン」では気分が悪くなって途中退場しました^^;)。
>タイトル
私はそう思いますし、恐らく作者に訊いてもそう仰るでしょう。
赤ん坊の親になった二人はハイティーンでしょう? まだまだ子供。昨今ではもっと上の連中でも甘ったれたこんな人間が多いですよ。
ぶれるカメラ、やたらに移動するカメラはカメラ酔いを起こしますね。そういうのはTVで観るに限ります(笑)。
セミ・ドキュメンタリーを作る作家は手持ちカメラを重用しますが、観客にフレームを意識させない目的の為の手段が、ぶれることによりカメラの存在を意識させてしまう。