映画評「死刑台のエレベーター」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1957年フランス映画 監督ルイ・マル
ネタバレあり
ルイ・マル初期の傑作というだけでなく、ヌーヴェルヴァーグの走りとなった秀作である。本作の成功がなければまた映画界の様相が変ったかもしれない。原作はフランスの作家ノエル・カレフの犯罪小説。
TVで数回、映画館で一回観ていて今回で何度目になるか分らないが、相変わらず強烈な映像であった。
土地開発会社の社長夫人ジャンヌ・モローと懇ろになった軍人上がりの社員モーリス・ロネが彼女の依頼で社長殺しを実行するが、犯行の時に使った鉤付きロープを回収し忘れたのに気付いて取りに行く時電源を切られてエレベーターに閉じ込められ、その間に彼のコンヴァーティブルを盗んだ若者ジョルジュ・プージョリーが恋人と共に泊ったモーテルでドイツ人の観光客夫婦を射殺してしまう。
ジャンヌは車が目の前を過ぎるのを見て、モーテルの従業員は若者を見ていない。犯行に使われた拳銃はロネのものであり、彼にはアリバイがない。アリバイを証明すれば社長殺しが発覚してどつぼに嵌まってしまうというロネのジレンマが観客の心理を圧迫する。
簡潔な凝視的手法がロベール・ブレッソンに似ているが、調べたらルイ・マルはブレッソンの傑作「抵抗」で助監督を一時期務めていたらしい。その手法をもっと推し進めたのが、やはりロネを主演に作った傑作「鬼火」である。
素晴らしい映画だが、サスペンス・ミステリーとしては、実は大いなる疑問がある。
大概の鑑賞者が気付くだろうが、まだ陽も沈まないうちに大通りから丸見えのところで縄をかけて上階に登ることを計画するのがまるで非常識なのである。その後回収し忘れるのは社内電話に迅速に応じる必要があったことから十分説明されているので問題なし。これは犯人のうっかりミスであって、映画のミスにあらず。
ロープについては映画のオリジナル・アイデアらしく単なるミステリー或いはサスペンスなら失格であるが、本作の狙いはジャンヌの心理の動揺を凝視的に見つめることにあるので、大きな瑕疵と言うことはできない。但し、パーフェクト・ゲームは逃した。
ジャンヌの顔のクロースアップから始まりジャンヌとロネの写真で終る本作はその凝視的手法により観客の心臓にナイフを当てるようなじりじりとした心理的圧迫感を醸成し、撮影監督に迎えたアンリ・ドカエの映像が強力にそれを支えている。ドカエはその後ヌーヴェルヴァーグご用達の名撮影監督となり、旧世代のルネ・クレマン「太陽がいっぱい」でも抜群の仕事をした。
もう一つ、マイルス・デーヴィスを起用した音楽の使い方が断然良い。特に若者たちが車を走らせている場面で使われる「ドライブインのスリル」と呼ばれるナンバーは車のスピード感とマッチしていてゴキゲンであります。
本作の成功によりこの後数年間ヌーヴェルヴァーグの音楽はフランソワ・トリュフォーを除いてほぼモダン・ジャズと相場が決まり、その影響を受けたポーランドの新世代映画や松竹ヌーヴェルヴァーグもそれに倣うことが多かった。モダン・ジャズを聞くと嫌でもそれらの映像を思い出す。
本作の中では傍流であり仕掛けに過ぎない若者の無軌道ぶりは、その後ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」に引き継がれ、吉田喜重の「ろくでなし」やロマン・ポランスキーの「水の中のナイフ」といった各国新世代の作品群で流行していくことになる。
しかし、忘れてならないのは、ヌーヴェルヴァーグに強い影響を与えたのが古川卓巳の「太陽の季節」(1956年)や中平康の「狂った果実」(1956年)といった邦画であるという事実である。これらの作品が日本で未だに過小評価されているのは誠に残念でならない。
1957年フランス映画 監督ルイ・マル
ネタバレあり
ルイ・マル初期の傑作というだけでなく、ヌーヴェルヴァーグの走りとなった秀作である。本作の成功がなければまた映画界の様相が変ったかもしれない。原作はフランスの作家ノエル・カレフの犯罪小説。
TVで数回、映画館で一回観ていて今回で何度目になるか分らないが、相変わらず強烈な映像であった。
土地開発会社の社長夫人ジャンヌ・モローと懇ろになった軍人上がりの社員モーリス・ロネが彼女の依頼で社長殺しを実行するが、犯行の時に使った鉤付きロープを回収し忘れたのに気付いて取りに行く時電源を切られてエレベーターに閉じ込められ、その間に彼のコンヴァーティブルを盗んだ若者ジョルジュ・プージョリーが恋人と共に泊ったモーテルでドイツ人の観光客夫婦を射殺してしまう。
ジャンヌは車が目の前を過ぎるのを見て、モーテルの従業員は若者を見ていない。犯行に使われた拳銃はロネのものであり、彼にはアリバイがない。アリバイを証明すれば社長殺しが発覚してどつぼに嵌まってしまうというロネのジレンマが観客の心理を圧迫する。
簡潔な凝視的手法がロベール・ブレッソンに似ているが、調べたらルイ・マルはブレッソンの傑作「抵抗」で助監督を一時期務めていたらしい。その手法をもっと推し進めたのが、やはりロネを主演に作った傑作「鬼火」である。
素晴らしい映画だが、サスペンス・ミステリーとしては、実は大いなる疑問がある。
大概の鑑賞者が気付くだろうが、まだ陽も沈まないうちに大通りから丸見えのところで縄をかけて上階に登ることを計画するのがまるで非常識なのである。その後回収し忘れるのは社内電話に迅速に応じる必要があったことから十分説明されているので問題なし。これは犯人のうっかりミスであって、映画のミスにあらず。
ロープについては映画のオリジナル・アイデアらしく単なるミステリー或いはサスペンスなら失格であるが、本作の狙いはジャンヌの心理の動揺を凝視的に見つめることにあるので、大きな瑕疵と言うことはできない。但し、パーフェクト・ゲームは逃した。
ジャンヌの顔のクロースアップから始まりジャンヌとロネの写真で終る本作はその凝視的手法により観客の心臓にナイフを当てるようなじりじりとした心理的圧迫感を醸成し、撮影監督に迎えたアンリ・ドカエの映像が強力にそれを支えている。ドカエはその後ヌーヴェルヴァーグご用達の名撮影監督となり、旧世代のルネ・クレマン「太陽がいっぱい」でも抜群の仕事をした。
もう一つ、マイルス・デーヴィスを起用した音楽の使い方が断然良い。特に若者たちが車を走らせている場面で使われる「ドライブインのスリル」と呼ばれるナンバーは車のスピード感とマッチしていてゴキゲンであります。
本作の成功によりこの後数年間ヌーヴェルヴァーグの音楽はフランソワ・トリュフォーを除いてほぼモダン・ジャズと相場が決まり、その影響を受けたポーランドの新世代映画や松竹ヌーヴェルヴァーグもそれに倣うことが多かった。モダン・ジャズを聞くと嫌でもそれらの映像を思い出す。
本作の中では傍流であり仕掛けに過ぎない若者の無軌道ぶりは、その後ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」に引き継がれ、吉田喜重の「ろくでなし」やロマン・ポランスキーの「水の中のナイフ」といった各国新世代の作品群で流行していくことになる。
しかし、忘れてならないのは、ヌーヴェルヴァーグに強い影響を与えたのが古川卓巳の「太陽の季節」(1956年)や中平康の「狂った果実」(1956年)といった邦画であるという事実である。これらの作品が日本で未だに過小評価されているのは誠に残念でならない。
この記事へのコメント
「抵抗」の助監督をしていたという話は初耳(もともと詳しくない)ですが、そういえばエレベーターの中の描写はその経験が生きているような気がしますね。
どのシーンも25歳とは思えないようなショットの連続で、カメラアングルや繋ぎ方がベテランの様でした。バカップルのモーテルでのドイツ人夫婦とのやりとりの描き方も上手かったですなぁ。
>本作の狙いはジャンヌの心理の動揺を凝視的に見つめることにあるので、
成る程、モノローグがジャンヌのシーンだけに使われているのはその意味があったんですか。
ただ、ラストシーンの社長夫人のつぶやきは今となっては気取り過ぎた演出に見えましたが・・・。(笑)
何だか映画史の授業みたいになってしまいましたね。まあ、一応映画としての狙いと問題点や優れた点を一通り指摘しましたので許してください(笑)。
>ただ、ラストシーンの社長夫人のつぶやきは今となっては気取り
時代性でしょうね。しかし、私はこういう気取りは嫌いではないです。香港フィルムノワールみたいな気取りは好きになれませんが。
実はこれはジャンヌ・モローのヒロインを描く為の映画。バカップルは勿論、ロネですら仕掛けに過ぎないでしょう。
犯罪小説をベースにしていますが、内容は純文学。それを大衆的にサスペンスの形で表現してみたのでしょう。ルイ・マルのタッチで描かれますと、殺人の動機にも不条理文学みたいな味が出てきますね。
アンリ・ドカエの素晴らしい映像といい、マイルス・デイビスのトランペットの即興演奏も最高にクオリィティの高い効果をあげている、ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネという俳優の新しさも斬新でした。
タイトルバックでの、公衆電話のモロー女史の唇のクローズ・アップからショッキングでしたね。
ハリウッドのフィルム・ノワールももちろん素晴らしいですが、ルイ・マルのマイルス・デイビスや、ロジェ・ヴァデムのMJQ、少し前の『現金に手を出すな』のグリスビーのブルースなど、シネ・ジャズによる効果の発見は特筆すべきだと思います。
>ヌーヴェルヴァーグに強い影響を与えたのが古川卓巳の「太陽の季節」(1956年)や中平康の「狂った果実」(1956年)
おっしゃるとおり、忘れてはいけませんよね。
それから是非、大島渚の『青春残酷物語』も入れてやってください。
では、また。
この映画でジャンヌ・モローとモーリス・ロネが一緒に登場するシーンは一度もありません。なんだかとても悲しいですね。
>ジャンヌ・モローの唇
こういう演出はベルイマンがお得意ですが、彼がクロースアップを多用するようになったのは60年代に入ってからですし、かなり画期的だったでしょうね。美しいですね。
>「青春残酷物語」
好きな映画ですが、これを入れなかったのは、松竹ヌーヴェルヴァーグの一本であるからです。既に日本映画がヌーヴェルヴァーグの洗礼を受けた後に作られているわけですが、上げた二本は1956年、「死刑台のエレベーター」より1年前なんですね。つまりヌーヴェルヴァーグの生みの親は実は日本だったという主旨なんです。
フランスには不思議とメジャーとインディという考えがないような気がしています。ルネ・クレマンを<メジャー>と記したのですが、どうもしっくり来ないので<旧世代>に変えました。そういう自由な環境がこういう作品を生んだと言えると思います。
仰るように、写真の中でしか二人は会っていない。私は指摘しませんでしたが、これもこの傑作の上手い部分でしょうね。
そういえば、そうでした!そして最初の電話から後は連絡が付かず、二人を相手の裏切りをちょっと考えてしまったりもするけど、すぐにそれを否定する…そんな心理劇も観ていてハラハラさせられました。
写真はまさか他人に観られるとは考えないで撮ってしまったんでしょうね。お忍びに見えないぞーと思いましたが、場所が外国なら納得です。
いやあ、ぶーすかさんのご指摘もなかなか鋭いと思いましたよ。ただあれがないと物語が成立しないので、旦那や同僚たちの目の及ぶ可能性のない遠方で撮ったのでしょうね。
ルイ・マルはカイエとは一線を画していますが、トリュフォーと似た傾向があるような気がしています。
では、また。
相変わらず勉強熱心ですね。
僕は映像から映画を勉強することが多いので、言いかえれば怠け者ということですが、ルイ・マルとブレッソンを結びつけた我が勘に感心したり(笑)。
これはこれで面白い気がしています。
>トリュフォーと似た傾向
「地下鉄のザジ」の子供を使った感覚なんか特にそんな感じがありますね。
時代が下ってJP・ジュネの「アメリ」を見た時「地下鉄のザジ」を思い出す僕がいました。トリュフォー的だなとも思いましたね。
さて、
>ルイ・マルとブレッソン
>「アメリ」を見た時「地下鉄のザジ」
凄いですね。
これは用心棒さんもよく言っている映画の遺伝子なのかもしれませんな。
いわれてみれば、わたしとしてはこの「死刑台のエレベーター」や「鬼火」なんか、「抵抗」や「ジャンヌ・ダルク裁判」などと連想するものもあります。
面白いですね。
では、また。
>映画の遺伝子
自分も含んでいるので言いにくいですが、見る人は本質をきちんと見ているということですかね。
「アメリ」と「地下鉄のザジ」やトリュフォーとの関連を指摘した方は、僕が映画評を書いた頃はブログでたった一人しかいませんでしたが、最近では定評になっているようです(何だかつまらない、笑)。
例の山田氏もトリュフォーとの関連を指摘している模様です。
「鬼火」と「抵抗」はやはり同種の匂いがしますね。^^)v
今から帰宅へ訪問致します。
>「鬼火」と「抵抗」はやはり同種の匂いがしますね・・・
ルイ・マルの自伝もドロンの項から読み始めたものですから、あとから気がついたのですが、ルイ・マルはブレッソンの助監督時代があったようです。
オカピーさんは、映画のみの教養から感じたとのこと。さすがでございます。映画の知識はあとからで十分。整理して思考するときの参考でいいとあらためて確認できたように思います。
ということで「世にも怪奇な物語」③更新いたしまして、少しですがそのことにも触れています。ご高覧ください。
では、また。
オカピーさんも、お調べになっていたのですね。失礼しました。上記記事、以前に読んだもので(2007/01/20 02:11のコメのとき)・・・ブログ復帰間もないということで、ご勘弁を・・・。
では、また。
いやいや、トムさんの文章は隙がないから、コメントでそういう可愛いミスをしてくれると、こちらも一安心です。^^
映画鑑賞には勘も大事で、愚生は比較的その才能には恵まれているかもしれません。
小津安二郎の戦前の喜劇を見た時「あっ、エルンスト・ルビッチじゃないか?」と思って調べたら、彼はルビッチの大ファンだったということもあります。
黒澤明がデュヴィヴィエを観ていたか(物理的にではなく)が今非常に気になります。
すごい映画です
見終えた後に、猪俣勝人先生や双葉十三郎先生の評論を読んで余韻を楽しみました
>ロープについては
>但し、パーフェクト・ゲームは逃した。
双葉先生も同じ事を言ってました。
でも、この映画を見て良かったです
>大リーグと3Aの線上にいる選手は運に大きく左右される
これもまた勉強になります
>たった今見ました。
NHK-BSの放映を録画したのでしょうか?
>>ロープについては
以前双葉師匠の文章を読んでいたので、それが刷り込まれていた可能性がありますが、映画を評価する段で重要なものとして“通常の人間ならどう行動するか”ということを注視して観る癖がついている為、多分そうでなくても大いに気になったことでしょう。
>>大リーグと3Aの線上にいる選手
イチロー、両松井、松坂、佐々木、前田、ダルビッシュ、田中将、大谷といった日本で大成功した選手はそういう線上にいない特別扱いなので、基本的にそういう心配はないわけですが、日本で成功してもそこまで行かない選手もいますね。
阪神から大リーグに挑戦した大有望選手・井川は結局大リーグでは何もできずに終わってしまった。アメリカ野球との相性が悪かったのでしょう。来年は筒香や秋山翔吾が恐らく大リーグに渡るのでまた寂しくなります。日本野球のレベルの為にスーパースターはある程度残って貰わないと困ります。
>NHK-BSの放映を録画したのでしょうか?
そうです。
ここのところ映画を見まくっています
「スーパー・マグナム」「ステキな金縛り」「浮雲」「ハンター」
>“通常の人間ならどう行動するか”
そこなんですよね
>井川は結局大リーグでは何もできずに終わってしまった。
向き不向きってありますね
>ここのところ映画を見まくっています
幅広いジャンルに挑戦されていますね。
放映される作品のレベルは決して低くないですが、最近のNHK-BSは貴重品が少なく、僕が保存したり鑑賞したりする作品が殆どないので、貴重品連発だった20世紀を懐かしんでおります。
>向き不向き
井川よりダメだったのは、今年読売ジャイアンツに移籍した中島裕之。彼は結局大リーグに進めなかった。大リーグにまで進めなかった選手は他にいるかもしれませんが、彼のようにメジャー契約をしてこけたケースは他にありません。彼は完全に大リーグには合わない選手です。日本に来れば今でもそこそこやりますからね。
>貴重品連発だった20世紀を懐かしんでおります。
ジョン・レノンが準主役の「How I won the war?」リンゴ・スターが準主役の「Magic Christian」嬉しかったです
>彼は完全に大リーグには合わない選手です。
本当に野球に詳しいんですね
>マイルス・デーヴィス
まさに天才
>「How I won the war?」「Magic Christian」
昔見ましたが、何故か保存しなかったです。
今度衛星放送に出てきたら、保存がmustですね。
>野球に詳しい
それでも、ご贔屓だった松井が大リーグへ移って日本のプロ野球を観るのが減り、松井が引退したらプロ関係の試合を殆ど観なくなりましたので、昔に比べると今の選手には知らない人が多くなりましたよ。
高校野球は昔も今もよく観ます。プロとは違う下手なりの面白さがあります。
>>マイルス・デーヴィス
安くて素晴らしい10枚組(海外盤)が出ていて、昨年から欲しいと思っているですが、ケチらざるを得ない状況が続いていまして控えております。同時に、消費税があがる前に買おうかという考えもあります。
「八十日間世界一周」も良かったですパスパルトゥー(カンティンフラス)の運動能力も凄かったです
>プロとは違う下手なりの面白さ
ゲッツーもプロに比べると、ぎこちない。でもそれがまたいいです
>消費税があがる前に買おうか
悩みますね
>「八十日間世界一周」
これはハイビジョンで保存しました。綺麗な画面で有りがたし。
>ゲッツー
そうなんですよ。
内野手の守備でプロと高校生の違いは、送球ですね。プロは高校生に比べると肩が強いですし、悪送球の頻度が断然低い。しかも、悪送球は、寧ろ余裕があり過ぎで起こることが多くて笑えます。
>消費税
先ほどAmazonへ行って調べたら、3000円も値上がりして10000円を超えていました。消費税どころではなくなりましたTT
古い盤だけの10枚セット(アルバム数は20)では2000円くらいであり、こちらも欲しいですね。
>綺麗な画面で有りがたし。
大西洋を横断する場面もいいですね
>悪送球は、寧ろ余裕があり過ぎで起こる
内野ゴロをグラブで取る。送球前に一呼吸置いて、ボールを持った手でグラブを叩く。でも悪送球
>こちらも欲しいですね
そう思うのが我々人間というものですね
>
昨夜は「ロリ・マドンナ戦争」を見ました。個性派役者が大活躍
>そう思うのが我々人間というもの
若き井上陽水が「限りない欲望」という歌で揶揄していましたね、そうした人間を。
>「ロリ・マドンナ戦争」
僕が十代の頃、「スクリーン」の表紙裏に宣伝されていて、シーズン・ヒューブリーという若手女優の綺麗さにため息が出たのを思い出しますね。結局彼女は思ったように売れませんでしたが。
「君と僕が教会で結ばれて」の部分が凄いです
>結局彼女は思ったように売れませんでしたが
ネット上で、そのように書いてる人が多いです
売れるかどうかって難しいです。逆のパターンもあるし。
昨夜は「西部悪人伝」を見ました。なかなか楽しめるマカロニウェスタンでした
>限りない欲望
JASRACがうるさいので、前回歌詞は省略しましたよ。
こんな会話も許さないなんて文化破壊団体と言われるだけのことはありますね。
それはともかく、陽水は初期には素朴故の凄味がありました。
>彼女(シーズン・ヒューブリー)
その後カート・ラッセルと結婚したのも何となく記憶しています。
ディズニーのとぼけた兄ちゃんキャラクターだったラッセルはこの後アクション俳優として人気急上昇。本人は売れなかった彼女は寧ろあげまんでした。
>「西部悪人伝」
余り多く☆は付けませんでしたが、一回目も二回目も楽しく観ました。仕込んだ武器が多かったと記憶しております。
この映画は、都会を映すノワールなモノクロ映像と即興演奏によるジャズの音楽が、現代人の空虚な心理を斬新な演出で鋭く抉った、ルイ・マル監督の秀作だと思います。
この映画「死刑台のエレベーター」は、「ジュ・テーム、ジュリアン」と電話口でけだるく囁く女の顔のアップで、幕を開けます。
マイルス・デイヴィスのトランペットの旋律が、けだるく響き、この疲れた顔の女の恋が、切なくもの哀しい運命にある事を予感させます。
監督は、フランスの新しい波と言われるヌーヴェル・ヴァーグの旗手的存在だった、ルイ・マル監督の若干25歳の時の衝撃のデビュー作で、音楽は、モダンジャズの帝王マイルス・デイヴィス、撮影は「太陽がいっぱい」の名手アンリ・ドカエ、主演は、当時29歳のフランスの名女優ジャンヌ・モローと「太陽がいっぱい」「鬼火」のフランスを代表する演技派俳優のモーリス・ロネ。
監督、撮影、音楽、役者、ストーリーと、どれをとっても最高に素晴らしく、それらが互いに絡み合い、見事に化学反応を起こし、優れた映像世界を作っているのです。
土地開発会社で働くジュリアン(モーリス・ロネ)は、社長夫人フロランス(ジャンヌ・モロー)と密会を重ね、遂に、邪魔者になった社長を殺す完全犯罪を企て、二人は実行しますが、犯行直後、帰り際に乗ったエレベーターが、電源解除のため停止してしまい、彼はその中に閉じ込められてしまいます--------。
フロランスは、ジュリアンと連絡がとれないため、ジュリアンを探して、夜のパリの街を歩くシーンは、まさに"映画そのもの"で、夜の中を、ジャズのけだるい音楽の中を、街の灯の中を、ハイヒールを履いた身なりのいい女が必死にさまよい歩く--------。
そして、小雨が降り始め、雷が鳴り響き、女の顔には目の下に深いくまが刻まれ、焦りと焦燥の色がにじみ出てきて--------。
名手アンリ・ドカエのカメラワークとマイルス・デイヴィスの即興演奏によるジャズのけだるい響きが、フロランスの心理を効果的に物語っていて、実に見事です。
およそ映画でしか表現できない、"映像が伝える感情"が、ここにあるのです。
パリの街中を行き交う人々や車、ネオンサイン、こういう"夜の街の表情"が、全て恋人を必死で探し歩く女の心理を的確に表現しているのだと思います。
このような優れた映像テクニックを持つルイ・マイ監督の映画は、極力、無駄なセリフをなくし、我々観る者の創造力をかき立ててくれます。
そして、車の窓ガラスに映った自分の顔を見て、「ひどい顔、悪魔のようだわ」とつぶやく女------、ジャンヌ・モローは本物の女優だと痛切に感じます。
この映画の全編を覆う、アンリ・ドカエの撮影によるモノクロの映像が、美しくもスリルに満ちた光と影を投げかけ、映像的な痺れるような陶酔感を味合わせてくれます。
それにしても、このモノクロの映像による、夜のパリの美しさは、比較するものがない程の美しさに溢れています。
喧噪の中に孤独が潜み、傍観者にはただ美しく見える街、それがパリの街なのです。
真っ暗なエレベーターの中で、ジュリアンの憔悴しきった横顔を照らし出すライターの光。
見回りに来た警備員が持っている蛍光灯の光、そしてラストの--------。
この映画「死刑台のエレベーター」は、ヌーヴェル・ヴァーグの存在を広く世界に知らしめた記念すべき作品で、ルイ・デュリック賞を受賞した、映画史に長く残る名作だと思います。
>ジャンヌ・モローは本物の女優
ヌーヴェルヴァーグ以前から出演作はありますが、ヌーヴェルヴァーグの監督の方が彼女を上手く使った気がしますね。
>マイルス・デイヴィスの即興演奏
YouTubeで全部聞けるので、これもCD化しましょう!