映画評「深夜の告白」
☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1944年アメリカ映画 監督ビリー・ワイルダー
ネタバレあり
2004年度映画鑑賞メモより。
ブログを始めて16ヶ月余り経ち1000本以上の作品をピックアップしたが、大好きなビリー・ワイルダーをまだ一本も取り上げていないので何とかしようと思ったもののなかなか時間が取れず、この傑作に関する古いメモで妥協することにしました。ブログを始める前に書いた個人用メモなのでおざなりも良いところですが、悪しからず。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で知られるハードボイルド作家ジェームズ・M・ケインの中編小説「倍額保険」をビリー・ワイルダーが映画化した作品だが、残念ながら原作は読んでいない。
深夜、保険会社の事務所によろめきながら帰ってきた保険外交員フレッド・マクマレーがテープレコーダーに告白を吹き込み始める。その内容は・・・
自動車保険の更新の件で成功した実業家の許へ訪れた時に応待した若い妻バーバラ・スタンウィックに心を奪われた彼は、彼女に唆され、夫殺しによる保険金詐欺に協力することになる。そして、足を負傷した主人が同窓会に行くのを利用、事前に殺した彼に成り代わったマクマレーが列車から飛び降り、夫が自殺したと見せかける。
ビリー・ワイルダーに一時期よく使われた撮影監督ジョン・サイツはライティングを抑え目にし陰鬱な気分を醸成、情欲に捉われた人間を凝視する。彼のフィルモグラフィーの中でも「サンセット大通り」と並ぶ代表作と見做して良い。
さて演出であるが、列車から飛び降りた彼とバーバラが死体を線路脇に置き逃げようとする際に車がなかなか動かないといった辺りの(後に定石となった)サスペンスや、その直前、計画の核となる展望車に邪魔な人物がいていかに彼を排除するかという場面の緊張感が抜群。
さらに排除した例の人物が保険会社のベテラン調査員エドワード・G・ロビンスンにより呼び出されてマクマレーとすれ違う場面の巧さが際立っているが、台詞にも喜劇作家でもあるワイルダーの面目躍如と言うべき面白さがある。
幕切れの処理は断裁的で正にハードボイルド、アンチ・ハリウッド的な扱い。見事なお手前でした。
バーバラ・スタンウィックの悪女ぶりも圧巻。「白いドレスの女」でキャスリーン・ターナーに初めてお目にかかった時バーバラの再来と思われたベテラン・ファンも多かったであろう。
1944年アメリカ映画 監督ビリー・ワイルダー
ネタバレあり
2004年度映画鑑賞メモより。
ブログを始めて16ヶ月余り経ち1000本以上の作品をピックアップしたが、大好きなビリー・ワイルダーをまだ一本も取り上げていないので何とかしようと思ったもののなかなか時間が取れず、この傑作に関する古いメモで妥協することにしました。ブログを始める前に書いた個人用メモなのでおざなりも良いところですが、悪しからず。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で知られるハードボイルド作家ジェームズ・M・ケインの中編小説「倍額保険」をビリー・ワイルダーが映画化した作品だが、残念ながら原作は読んでいない。
深夜、保険会社の事務所によろめきながら帰ってきた保険外交員フレッド・マクマレーがテープレコーダーに告白を吹き込み始める。その内容は・・・
自動車保険の更新の件で成功した実業家の許へ訪れた時に応待した若い妻バーバラ・スタンウィックに心を奪われた彼は、彼女に唆され、夫殺しによる保険金詐欺に協力することになる。そして、足を負傷した主人が同窓会に行くのを利用、事前に殺した彼に成り代わったマクマレーが列車から飛び降り、夫が自殺したと見せかける。
ビリー・ワイルダーに一時期よく使われた撮影監督ジョン・サイツはライティングを抑え目にし陰鬱な気分を醸成、情欲に捉われた人間を凝視する。彼のフィルモグラフィーの中でも「サンセット大通り」と並ぶ代表作と見做して良い。
さて演出であるが、列車から飛び降りた彼とバーバラが死体を線路脇に置き逃げようとする際に車がなかなか動かないといった辺りの(後に定石となった)サスペンスや、その直前、計画の核となる展望車に邪魔な人物がいていかに彼を排除するかという場面の緊張感が抜群。
さらに排除した例の人物が保険会社のベテラン調査員エドワード・G・ロビンスンにより呼び出されてマクマレーとすれ違う場面の巧さが際立っているが、台詞にも喜劇作家でもあるワイルダーの面目躍如と言うべき面白さがある。
幕切れの処理は断裁的で正にハードボイルド、アンチ・ハリウッド的な扱い。見事なお手前でした。
バーバラ・スタンウィックの悪女ぶりも圧巻。「白いドレスの女」でキャスリーン・ターナーに初めてお目にかかった時バーバラの再来と思われたベテラン・ファンも多かったであろう。
この記事へのコメント
どの時代も超越しドラマティックで
妖しく、狡猾で、情け容赦ない女。
まさに悪女ものサスペンスの逸品。
ほんとにJ・サイツの明暗を生かした撮影の
陰鬱さは本作のイメージにぴったり。
そしてB・スタンウィックを
キレイにキレイに撮っていたと思います。
思うに、40年代流行したハードボイルド映画はかなりアンチ・ハリウッド的で、米国映画が一番輝いていた時代かもしれませんね。出来栄えの差が激しい時代でもありました。
「スター・ウォーズ」の登場によりニュー・シネマ時代が終わり、そこにCGが加わったことにより、アメリカ映画、否、ハリウッド・メジャー映画の幼稚化が始まるのであります。
調べてみましたら、ジョン・サイツはワイルダーと切れた後は、2,3流の西部劇ばかり撮っていたようです。盛者必衰ですね。
用心棒さんのページにも書かせてもらったのですが、エドワード・G・ロビンソンには、誤ったものを正していく父親としての父性、バーバラが実はフレッドを愛していたのではないかと思うことなどから、健全な社会であれば素敵なホームドラマにしかならないはずの人物たちなのに、フィルム・ノワールになってしまう、と割り切れないものを感じてしまいました。
最近のオカピーさんのコメントも読ませていただきました。
>限定的な規制は、特に映画のような芸術では、良い結果をもたらすことが多いかも・・・
そこからのCG技術に関わる危険性のご指摘、実に興味深い考察です。これらのことは今の時代だからこそ、こだわっていかねばならないことのように感じています。
では、また。
エドワード・G・ロビンソンについては全く言及しなかったのですが、本作における彼は好評のようです。バーバラにばかり目のいった私はちょっと甘かったようです(笑)。
CGですか。CGは使うほうの問題が多いんですよ。私は決してアンチCGではない。劇映画は「月世界旅行」から実質的に始まったと思っている人間がCGを否定することはできません。実写、実技を上手く撮れず、構築的なカット割りもできない人間に限ってCGを使おうとしていることが危ないんです。
フィルムは積み重ねてイメージを構築していくものですが、どうも「なんか変だな」と思う作品に当たることの多い今日この頃です。ではまた。
何故かコメントがCG批判大会になってしまいましたが、しかし、こういうフィルムらしい味のある作品を見るとどうしてもそうなりますね。
この時代には倫理コードがありましたから、ヌードなどはご法度。それをどうセンシュアルに表現するか当時の監督は頭を悩ましたはずです。
CGは打ち出の小槌と言うべきツールで表現の制約がないから、前提となる実写撮影が非常に甘くなる。そうして出来た映画はクリープを入れすぎたまずいコーヒーになる。それを批判すると素晴らしい実写に触れたこともない甘ちゃん小僧から「お前の考えは古い」と来る。映画鑑賞の古いも新しいもありません。あるのは映画を愛しているかどうかです。
すみません、一応ジャイアンツ・ファンなんです。しかし、松井の抜けた後は些か力が入れにくい状況が続いています。彼はただの3割、40本のバッターではなかったです。
私に言わせるとファンが悪いと思います。常勝巨人なんて言葉を作った奴が悪い(笑)。それよりそのうち野球中継が消えるのではないかと心配ですよ。
何度も申しますが、映画は観客が良くするもの。実写と実技が駄目な作品を観客が騒いでいるようでは、実写映画の未来は暗いでしょう。
上のFROSTさんへのコメントもお読みください。
ジャイアンツは人気・実力とも衰退していますね。今考えれば「巨人」=長嶋そして王だったのが、その後継者に他球団の4番打者を使うようになって衰退していったのでしょうね。その根源は張本の移籍からではないでしょうか?
さてCG技術ですが、ここで留意しなければならいことは、CGの映像には不調和が介在せざるを得ないということ、それが忘れがちにならざるを得ない危険性です。
当たり前のようですが、CG映像はリアルな映像のようで実はそれは現実ではないということです。
すなわち観る側がそれをリアルと受け止めてしまい、現実との不調和を自覚しにくい危険性を熟知すべきで、異化としての解釈を忘れてはならないということです。
ファンタジーには自然の法則とは別に独自の法則があるわけで、「真実」を表現するために「現実」とは違う方法で描写すべきものだと思います。
わたしは今一度、作り手も観る側もブレヒトの演劇論における「異化による効果」に立ち返るべきであるとの「あせり」まで感じています。
分かり易い例をあげればCGによる殺人事件は、何ら現実の殺人を意味するものではないということです。
あまりのリアルな映像にリアルティがあるという錯覚をもってしまうことが、最も危険と感じるのです。トリックはトリックだと理解したうえで、テーマを読解しトリックの面白さを楽しむものであるのではないでしょうか?あくまで物語の真実の表現は素材を介在しているという映画の原点に立ち返る必要性がセキュリティとして確立されるべきだと考えます。
理屈っぽくなってしまい、かつこのページのテーマとはなれてしまい、すみませんでした。
では、また。
では、また。
>「異化」
ロシア・フォルマリズムみたいですね。文学も演劇も悩んだ末の異化効果の検証があったようですが、映画ではモンタージュ理論には影響を与えたようですが、一般化されていませんね。
>巨人
松井は屋台骨だったと思います。いわば脚本と演技の核、もしくは良心です。脚本と演技、そして人間性をなおざりにして枝葉ばかりを売りにしても結果は出ない。
まともな映画、まともな野球をみたいですね。実際FAが復活してから野球はどんどんつまらなくなった来ているような気がします。サッカーもしかりで、ヨーロッパリーグでEU国籍を持つ者はひとチーム何人でもリーグ戦に出場して良いようになってからは新人選手を見る楽しみが無くなってしまい、ただのサーカスみたいになっているのが現状です。
しかもたいして面白くもない。合掌!
CGに関してはルールがあるべきなのです。何でも出来るから何をやってもも良いということにはならないと思うんですけどね。ではまた。
トムさんの仰っていることに全く異論はないです。
チンパンジーが進化しても人にならないように、CGも決して実写にはならない。そこにまだ実写映画が生き残る可能性があると思います。しかし、それには観客が最初に目覚めねばならない。映画はゲームではなく、芸術であることを知ること。芸術とは人間を描くものであり、そこが決定的にゲームとは違う。ゲーム感覚に見えても「スピード」は芸術でした。映画を人間のみが持ちえる恐怖が支配しているからです。
翻って、何故ゲームを映画化した作品がつまらないのか。人間が道具の一つだからです。
>ファンタジー
トムさんの仰るとおりです。
ハリウッドはファンタジーの為にファンタジーを作っているのでどうも心に沁み込まない。そこに観られる人間的描写は付け焼刃にしか見えません。
(続く)
彼が世界的評価を得ても不思議ではありません。
実写におけるCGから離れましたが、アニメ界に映画の良心があるのは皮肉なものであると思わざるを得ませんね。
ジャイアンツ・ファンも或いはそれに類似する世界各国のスポーツ・ファンもタイガースのように我慢を憶えなければいけないでしょう。結果的に見れば、お金に流されない日本的な義理と人情はスポーツの楽しみの根源なのでしょうね。
一つだけ言わせて貰えば、視聴率低下の大半はTV局に原因があります(笑)。あんな放送をしていれば当然ですよ。従って頑張れNHKとなります。
すみません、つい、こだわっています。
やはり、CG映像の重さと質量がない安心感に人の感覚は、麻痺しうるのではないかと危機感を募らせてしまいます。
観る側が作品に同化できるような作品は恐らくありえない(実際問題として不可能な)ことなのではないかと思います。
ロッセリーニの諸作品にはまるで、その現場にいるような現実感、リアリティがあると思います(特に映画館での観賞では)し、それは今そこにある現実として理解することに意味があったように思います。だからこそテーマが、映画(仮想)であっても感情移入できたのだと思いますし、それを実生活に生かすことにも意味があったように思います。
しかし、CGは本来そのような現実を表現しえず、基本的に滑稽(語弊有り)な描写にしかならないと思われます。やはりCGの全能の範囲は0と1の二進法でしかないのでは?
また、同じく人形の映像やアニメーションにおいても、生活に持ち帰ることが可能なのは「テーマ」であって、リアルな映像ではなく、そのことを観る側には言うまでもないわけです。しかしCGはそれを言わなければならない映像なのだと思います。CG映像が、そこから離れてどこか他に実際に存在するものではない、ということを、但し書きしなければならない時代が来るようにように思うのです。つまりCGには手段・方法論としてのセキュリティが必要な気がするんですよねえ。
わたしは最近の異常犯罪が、犯罪の定義を超えて(犯罪にまでいたらない異常性、許容できる異常性として、もしくは軽度の心の病として)日常に浸透してしまうことが、とても恐いことのような気がしています。
少し深刻に考えすぎているかもしれません。すみません。
「日本ハム」のように地方が元気になる球団の素晴らしさ、新庄のプレイとキャラクターは、確かに現実に存在し、観るものの心を豊かにするように思います。
では、また。
CGでなんでも映像に出来ると思っている制作者が密室でコソコソプログラミングしている様子を想像すれば結構おかしいですね。鼓動や体温を感じないのがCG映像の特徴ではありますがいつまでも作り物らしく作っていて欲しいのです。
作り物だと解って見る方が健全なのではないでしょうか?CGにかんしては似非リアリズムは不必要であり、虚構を虚構として楽しむのが大人としての態度かなあとも思っています。
個人的には殺人などの流血描写や性描写などの残酷または猥褻な映像は一般向けの映画では規制しても良いと思います。
「表現の自由が重要であり、見る人とやってしまう人では天と地ほどの差があるのだ」というのは戯言に過ぎないのではないでしょうか。なんでもありだからこそ、ルールを決める必要性があるのです。金になればよい、話題になればよいというのでは映画に未来はありません。
CGといえば、昔は広島対巨人だったんですけどね。阪神ファンなのでプロスポーツの価値が「勝った」「負けた」だけではないのは知っているつもりです。底辺から浮かび上がれない時には「真弓がヒット打ったから今日はええねん」「巨人の10勝と阪神の1勝は同じ価値を持つ」と真剣に思っていました。ではまた。
トムさんの仰るアニメとCGありの実写映画との鑑賞後の落差についての言及は大変興味深いですね。私は、映画以上にゲームに対する規制があったほうが良いと思う口です。あれは本当に危険な感じがします。
以前一世代若いCG擁護派の方が私に向って「あなた方もハリーハウゼンなどを今のCGと同じような(現実的な)感じで見たはず」と仰いましたが、そんなことはありませんよね。多少の動きの悪さが却って現実とは違う、映画固有の興奮を誘ったというのが事実であり、実写との差は十分認識していたはずです。旧世代はそれほど鈍感ではない(鈍感なのは寧ろ若い世代)。
(続く)
或いは、「火垂るの墓」は韓国では上映禁止ですよね。日本の敗戦が描かれていないという理由だけで。こんな検閲はごめんです。
私は、そうですね、20年位前に勝ち負けは殆ど気にしなくなりました。面白い試合であればどっちが勝っても良いという境地になりましたね。大学在学中くらいからどうも変わったようです。
阪神ファンも中日ファンも嫌いではないですが、アンチ巨人ファンという主体性のない存在は何とかなりませんか。巨人が勝手に地盤沈下しているので、そういう人種も減っているでしょうが。
>映画以上にゲームに対する規制
>国の役人なら嫌
おっしゃるとおりですよね。最も危険でしょうね。
>CGの普及でいろんなものがくっきりはっきり・・・この作品のような雰囲気は完全になくなって・・・。もったいない限りだ。
>「なんか変だな」と思う作品
>いつまでも作り物らしく
考えてみれば、極端かもしれませんがクラシックがクラシックらしいのはノイズがあるからかもしれません。
>芸術とは人間を描くものであり、そこが決定的にゲームとは違う
描かれた人間から、生活をつちかう欲求が生まれるとまで言っても良いですよね。
いずれにしても視覚の映画効果としてのCG技術、最も効果的な(CGで真実を描く)セオリーを学び探し出すべきなのでしょうね。
では、また。
単に懐古と思われてもいけませんが、昔の監督に比べて最近の監督が技術不足なのは歴然。
映画に文法があるということすら知らないのではないかと思います。「イントゥ・ザ・サン」という日本を舞台にした活劇を見ましたが、<てにをは>を無視して映画を作っていました。そういう映画を作るのは、大概格好良い映像を撮るということで呼ばれてくるミュージック・クリップかCM畑。
良い監督についた経験のある助監督のほうが余程しっかりした絵を構成しますので、映画会社は彼らを抜擢すべし。
>生活をつちかう欲求
寅さんなどは正にその例でしょう。きっと自殺を留まった人も少なからずいるでしょうよ。
なんとなく呼ばれたような気がしましたので
私、やって参りましたわ。(笑)
やっと「地球温暖化に関する聴聞会(?)」も
終了しましたのでね。(笑)
みなさまのお話を伺って、私ごとで恐縮ですが
私に映画の楽しさを教えてくれた父の言葉を思い出しまた。
~日本人には、何でも見せちゃいかんのだよ~
同じ顔、同じ言語、階級のない(漠然とはあるが)似た
ような暮らしぶり、無いに等しい宗教、そして好き嫌いを
明瞭にしないうやむやな中庸意識に加え、敗戦してから如実・
突出・闊歩している厳然たる拝金主義。
このくらいタガが外れたある意味、自由な国は珍しい。
ところが日本人はすこぶる頭がいい人が多いのに
選択能力に欠けると私はいつも思うのです。
何事にも迎合しておけば波風が立たない・・・
未来を担うはずの若者にその迎合精神が
良くないカタチでだいぶ前から現れ続けています。
つづきます。
“いま”を知るためには“過去”を知ることが必須条件。
「観っぱなし」「やりっぱなし」「深く考えない」
“知る”ことに貪欲さが全く無い現代人。
映画は勿論、芸術・文化も含めすべからく、観て、受けて、
「この作り手はなぜこんな描き方、観せ方をするんだろう?」
って発想も思い浮かばないのかしら。
あるひとつの命題に諸々の見方と意見があったならばそのひとつ、
ひとつを検証しつつ自分の考えもそこに加味し最終的にその見方、
意見のバックボーンを探す旅に人間は出かけるはずなのです。
今の人は“それをやらない”。
みんなの飛びつくモノに、すぐ、飛びつく。ハハハ、(笑)
若松孝二がかつて「性と暴力を描けば売れる!」と豪語しました。
でもあれは彼独特の美学であったのですが、今まさに彼の主張の
悪い面ばかりが助長され、それに技術ばかり高度になったCGが
導入されゲームの世界が幻想の世界が“現実”なんだと
考え違いをする子供たちを作り続けている。
性懲りもなく続きます。(笑)
やはり前に一歩でも動くしかない。
ですから、このような形でプロフェッサーや皆様たちが
ことあるごとに熱く“いい映画”を語り続けていく。
これも素晴らしいこと!
子供さんがいる方には選択能力を伸ばせるように
親たちがバックアップしてあげなければ。
私が映画から貰った感動や未知の世界の豊穣さは計り知れず、
墓場まで持っていく私の人生の“宝物”!
これまた個人的で恐縮ですが、今年高校3年になる娘を
いま私は“コントロール中”。(笑)
娘はビジュアル・ロックの分野ですが、その経緯が珍妙。(笑)
セーラームーン→リトル・マーメイド→ホール&オーツ→
M・ジャクソン→突然、浜崎あゆみ→ガクト→ディル&グレイ→
X-ジャパン→ニッケルバック→シカゴ→KISS・・・
2・3日前から私はずっとビートルズを部屋中に流して
いるのです・・・・ウフフ。(笑)
>単に懐古と思われてもいけませんが、昔の監督に比べて最近の監督が技術不足なのは歴然
古い映画技術でのシンプルな映画は良いです。
感動的なストーリー、キザなセリフ、わかりやすいテーマ、説得力のある編集、センセーショナルなカメラ技術、美しい音楽、理想的な美しさを体現する俳優のヒーローとしての肉体的な資質やオーラ・・・等々
この『深夜の告白』など映画の原点に近いフィルム・ノワールのように思います。テーマやストーリーでも、失われつつある父権性や女性の貞操(いい意味で。特に精神性においてですが)などが、犯罪になりうる可能性であることが実にわかりやすいテーマとなっているような気がします。カメラや編集技術の極めて映画的な作り方に心が解放されます。。
>良い監督についた経験のある助監督のほうが余程しっかりした絵を構成します・・・
地道な積み重ねこそ優れた芸術の土台なんだなあ、とつくづく思いますよ。
シカゴ→KISS・・・わたしならその後、→エアロ・スミス→クィーン→ローリング・ストーンズ
と続きます。
『ナイロビの蜂』やっとレンタルしました。観たらお邪魔します。
では、また。
>明瞭にしないうやむやな中庸意識
厳密な意味での中庸は明確な考えがなければ立ち得ない立場だと思いますが、日本人の中庸はなまなか、中途半端という印象です。または事なかれ主義。
一月に最低一件嫌がらせのようなコメントが紛れ込みますが、罵詈雑言を放ってサヨナラとは、実に勿体ないと思いますよ。(映画に限りませんが)一本の映画に対する理解を深める絶好のチャンスなのに。個人の考えや感性は尽く違い、そこに真理に近づく道があることを知らぬ若者たち。
個性を主張するのに実は個性の埋没が進んでいると感じています。そこにいじめの原因もあるでしょう。
持論なのですが、日本人に個人主義と(アメリカ的)民主主義は馴染まない。その背景は弥生時代にまで遡るのですが、これを言い始めたら長くなりますので、この辺で。
実は簡単なプロットほど上手い演出が要求されるから、実は作るのが難しい。昨今の映画はまやかし、はったり、ごまかしばかりで、表面の飾りを取っ払ってしまえは大したことはない。
今「激突!」の脚本を渡してスピルバーグと同じようにきちんと映像化できる人がいますでしょうか?
単純なプロットの作品は寧ろ上手い職業監督のほうが良い映画に仕立てられる可能性が高いのです。その意味でヒッチコックやワイルダーは、映画作家にして職業監督でもあったと思いますね。ワイラーは完璧な職業監督でした。
三作目までのシカゴは馬力があってお気に入り。しかし、テリー・キャスが亡くなってからはMORみたいになってがっかり。「長い夜」の攻撃的なリード・ギター、格好良かったなあ。
昨日クローネンバーグ監督のドキュメンタリーを観てたんですが、長い間インディーズで(つまり低い予算で)映画を撮ってきた彼ならではのコメントがありました。「CGなんか多用しなくても、それらしく作ることは簡単なんだよ」って。むしろ彼にとっては、おもしろい脚本を作る、あるいは発掘する方が大問題だとも言ってましたね。
諸先輩方のご指摘どおり、いかにおもしろい題材をおもしろく演出するか、に尽きるんですよね結局。その術を知っている監督が、なんだか最近少なくなってきているような気がするんですが。
クローネンバーグがそんなことを仰っていましたか。
最初からCGを想定して脚本を書き、絵コンテを書いたところで良いものが出来るはずがありませんよね。あっ、最近は絵コンテはなしか(笑)。
実写映画においては、実写と実技が映画文法の基本言わば<てにをは>なのですから、出鱈目な<てにをは>の前後にいくら高級な四字熟語(CG)を使っても意味をなしません。
先日消したコメントの中に「お前の考えは古いんだよ。もっとSFXを勉強しろ」というのがありましたが、CGとSFXを混同している投稿者が何を言っているのか。SFXの基本はCGと違ってアナログですって。
とにかく、そんな彼らは映画をゲームと同一線上に考えていますから、実写映画に対する愛情が全くありません。ここに集った方々のように真の映画ファンは実写映画の未来を大変憂えておりますね。結局観客の映画観から変えないと映画の未来は暗いと思います。
DVDを買った後にオカピーさんの記事が出まして、満点評価は嬉しゅうございました。
昨日ようやく観まして、早速TBさせていただきました。
改めてコチラの記事を読ませていただきましたが、取り上げたシーンが同じだったので、真似たみたいで・・・。(笑)
ワイルダー映画はワイラーよりも少しだけソフトな印象があったんですが、これは強烈でしたネ。
本当に凄い数のコメントになりました。
私がご贔屓にしている方々がいかにCGを軸にした最近の映画作りに危機感を抱いている証左。観客が映画の映画たる所以を軽んじていては、良い実写映画が減るのは火を見るより明らかですね。
ワイルダーは、脚本家時代はコメディー中心、監督を任されてから暫くはサスペンス系に腕をふるうことが多かったようです。その時代には、「失われた週末」「サンセット大通り」など、かなり強烈な作品を残していますね。「サンセット大通り」は特に鬼気迫る作品で、いつかは取り上げねばならないでしょう。
今回「白いドレスの女」の記事書くんでちょっと周辺を調べて、本作を下敷きにって知ってみた次第で。殺人の告白をして、そして最後は相棒キースに対する告白。女が最後にみせた真実の愛の告白。このシーンのバーバラ・スタンウィックの聖女のような美しさ!
オープニングの深夜の映像からしていいんですよね。
最後、タバコに火をつけてやるシーンなんて、男同士のこんなシーンは、女としては妬けるぐらいに悔しいシーン。
一つの言葉、一つのシーンで見事に人間の弱さ、愚かさ、哀しさを描いている。
韻として引き摺るのはこんな人としての情感。
こうしてみると「白いドレスの女」はスリリングな余韻はあるけれど、人間を深く描いた作品が醸し出す余韻とは違うんですよね。スリリングはこれはこれでゾクゾクさせてくれるんだけれど…。
この作品見たら、ほかの作品はずっと退いてしまうみたい。
>ワイルダー
そんなことを言われては困るだー(一応洒落)。
へプバーンの2本だって傑作なんだから。(笑)
「サンセット大通り」「情婦」「失われた週末」もあるでよ。
勿論後年のコメディーも良いですし(さすがルビッチの弟子!)。
個人的には「熱砂の秘密」や晩年の「悲愁」も大好き。
>「白いドレスの女」
本作比較してしまうと部が悪いです。
でも、80年代半ばはまだ映画が映画していましたよね。
「ダイ・ハード」くらいまでが映画だなあ。
90年代、少なくともハリウッドは映画の魂を売ってしまった。もはやr映画とも言えない作品群が跋扈している。