コラム「『ローラーボール』(1975)は駄作か、または映画における社会性の価値について」
昨年10月初旬に「華麗なる賭け」の映画評を書き、監督であるノーマン・ジュイスンを紹介する時に「ローラーボール」を駄作と理由なしに断じた。それから1ヶ月ほどして<でたらめを言っては困る>だったか、それこそ出鱈目なハンドルネームの主から誹謗中傷的コメントが届く。
その主旨は「オリジナルの『ローラーボール』には深い社会性があって、それが解らないあんたは映画の見方に疎い愚か者」ということである。さらに「あんたは暗いね」という文言もあり、当時は性格のことを言っているのかと思ったが、あるいは「映画に暗い」ということだったのかもしれぬ。
どちらが映画に疎いか反論したくはなったが、「そういう誹謗中傷はさっさと消してしまうのが一番」と以前アドヴァイスされていたので、早速消去することにした。
投稿者が「ローラーボール」に深い愛着を持っていることは、オリジナルの監督ジュイスンがリメイクの製作もしたと述べた点を誤っていると指摘したことからも容易に伺える。僕はallcinema ONLINEの情報に従っただけだが、Imdbで確認したところ確かに名前がない。この点は素直に訂正したのだが、実はこれについても言いたいことがある。彼自身が認めているようにジュイスンは最初のうち確かに企画に乗っていたのだ。わが文脈の中では、実際にしたか否かより、駄作をまた製作しようとしたことのほうが重要であることは読解力のある方ならお解かり戴けるであろう。
さて、快適に過ごしていた1月にまたこの彼が今度は<CHANG CHANG>というハンドルネームでやってきた。今回は前回より真面目。しかし、内容は相変わらずである。使っている単語が【映画に疎い】から【映画に暗い】に変わったぐらいで主旨は全く同じ。
この時は瞬間湯沸かし器状態にカッとなって無礼な返事をしてしまったが、それこそ大人気ない反応だったので今後はこの類のコメントは無条件に削除することにする。
その代わりコラム等で色々言う材料にさせて戴く。因みに個人のハンドルネームを挙げているが、勿論個人批判ではなく、そこから帰納して一般論を導き出しているつもりでありますので、ご了解の程を。
さて、本論。
彼はその200字程度の短いコメントの中で三つもミスを犯している。順次述べて行きたいと思うが、あくまで氏のコメントからの推察なのでそうでない可能性もある。
その一。これが一番重要。
映画は映画として観なければならないが、投稿者にはそれができていない可能性が高い。いや、彼のみならず映画を観る人の多くが実は映画を見ていない。何を見ているのか。話を見ているのである。
彼は「ローラーボール」を深い社会性の映画と述べた。パラレル・ワールドにいるもう一人のCHANG CHANGさんが映画を観ずに原作だけを読んだと仮定しよう。このCHANG CHANG (B)さんは恐らく「深い社会性」と同じことを言うだろう。つまり、小説と映画の間に感想の差が生じないということは、映画を観たCHANG CHANG (A)さんは映画を物理的に観てはいても、実は物語性のみに着目しその印象を語っているに過ぎない。
従って、<深い社会性>のみを取り上げて「ローラーボール」に高い評価を与えることは、映画を評するという行為においては初歩的な誤りである。
映画は総合芸術である。(1)物語・主題(文学)、(2)演技(演劇)、(3)映像(写真、そして映画)、(4)編集と構成(映画)、(5)美術・装置(美術)、(6)音楽(音楽)といった要素から構成されるものである。
しかし、実際には文学的な面で語られることが余りにも多い。批評で生計を立てている人の中にすら少なからずいらっしゃる。
20年近く前「薔薇の名前」という作品にいたく感銘した後、たまたま目に付いた「キネマ旬報」の読者評を読んでみたのだが、誠にがっかりした。
著者は滔々と「本作のテーマは<神学と哲学の格闘>である」と書かれていた。しかし、そのテーマは原作を読めば容易に理解できるし、映画独自のテーマでも魅力でもない。そのテーマを表現する為に貢献した圧倒的な美術、役者の的確な演技、長い原作を短く再構築した脚色の素晴らしさ、編集の呼吸の良さ、それをまとめた監督の演出力に一言も触れていないではないか(実際には多少はあったかもしれないが、目に入らなかった)。果たしてこれが映画評なのか。単に映画の中で示された文学的テーマに気付いて浮かれているに過ぎないのではないか。
映画からそれだけの感想を得たことに対しては素直に感服した。しかし、思うに、それは非常に高級な感想文であって映画評ではない。感想文と映画評のどちらが良い悪いというのではなく、映画の映画固有の面に触れない文章は映画評でなく狭義の感想文(内容分析)であり、両者は明確に区別されるべきである。そうした映画の文学面について述べたものを映画評と解釈している「キネマ旬報」に大いに失望したのである。
映画はどう観ても自由であるという言葉をよく聞くが、映画評を書くという前提においては必ずしも正しいとは言えない。そこには書かれている方の逃げがある。映画批評は次の二段により成る。
どんな作者も主題を擁し狙いを設定して映画を作っている。映画批評の前段はそれを正確に把握すること。同じ管理社会の恐怖をテーマにしても、「モダン・タイムス」のように爆笑させ考えさせるのか、「華氏451」のように不気味に作るのか、或いは悲劇的に作るのか、スペクタクル風に作るのか、声高に作るのか、行間から漂わすだけにするのか、狙い若しくは手法は様々である。
それを正しく理解した上で、その達成度を測定するのが映画批評の後段である(但し、程度の著しく低い主題や下卑た狙いについては最初から低い最高点を設定せざるを得ない)。但し、たまに主題や狙いを曖昧にした作品や作者もある。そうした作品に対してはほぼ自由に理解し感じるしかなく、ここで述べた方法論は通用しない。
後段に対する各人の印象について、他人はとやかく言うことは出来ない。他人の趣味、好み、テイスト、感性を取り沙汰することは野暮であろう。ここにおいて人は映画をどう感じても良いと言うべきである。ただ、映画経験を積み、人生経験を積めばより一般的な審美眼は養われることは自明。
「社会性があるから或いはメッセージ性があるから、即、素晴らしい映画である」という考えは実に幼稚であると言わねばならない。社会性という文学的な要素とその他の要素が咬み合いアンサンブルを為した時初めてその社会性が本当の意味を成す、と理解するのが社会的なテーマを含んだ映像作品のより正しい見方である。そうした鑑賞者が増えることで、レベルの落ち続けている映画もまたかつての映画的魅力を呼び戻すことが出来ると信じ、期待もしている。見方を知っている観客が演劇を良くするという金言(マルセル・プルースト?)はそのまま映画にも適用できる。
この第一のポイントに関連して有名人二人のお言葉を引用してみよう。
フランスの劇作家・小説家であるジャン・ジュネの手紙から(訳:渡辺守章氏)・・・言葉の美しさが、時に我々を騙して、テーマが深遠だと思わせたりする。
サスペンスの神様アルフレッド・ヒッチコックがフランソワ・トリュフォーに語った映画論から(共訳:山田宏一氏・蓮實重彦氏)・・・観客をほんとうに喜ばせるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。
30年間僕が考えてきたことをこの二人が見事に語っている。また、古くから映画界にはこういう諺があるという。
悪い脚本からは悪い映画しか出来ないが、良い脚本からは良い映画と悪い映画が出来る。
文学的な面で映画の良し悪しは決まらない、ということである。
同じ脚本で作られたヒッチコックの「サイコ」とガス・ヴァン・サントの「サイコ」の出来栄えの差を見れば、この言葉やヒッチコック自身の文言の正しさを嫌でも確認することになる。
その二。ここでは「ローラーボール」がそれほど深い社会性を持っていたかを調べてみる。
と言っても手元にビデオはなく、再鑑賞する気もないので、30年前の記憶をベースにその他の映画との比較くらいしかできない。映画評ではなくコラムにしたのもそんな事情からである。しかし、全体の出来栄えに関する印象は明らかに残っている。採点をつけた映画10000本強の内95%の採点を記憶している。
この作品が作られたのは1975年。
映画のテーマは、端的に言えば<近未来における管理社会の恐怖>。競争すら禁止された社会という設定で一見平和だが、そこには大きな恐怖が横たわっている、そんな話である。
大昔のことなので正確には憶えていないが、当然その基調として自由への希求というメッセージ性もあったであろう。それをローラーボールという殺人スポーツを通して描くのが狙いである(出来上がった作品を観れば寧ろテーマと狙い・手法が逆ではないかと思えてくるのだが)。つまり、SF版「スパルタカス」である。
そう、これはコロシアムで平和なローマ市民たちが欲求不満解消の為に剣闘士の戦いを観る模様を描いた作品と基本的な差がない。原作者であり脚本も書いたウィリアム・ハリスンは恐らくそれをモチーフにしたのだろうが、発想が貧しい。大学教授時代に「スパルタカス」の講義でもしたのか。未来に舞台を移したのは、限定的な奴隷管理の代わりに市民の管理を描いて恐怖に普遍性を持たせたいからである。
これを観た時僕はまだ十代後半の映画小僧だったが、早くもハリウッドのメジャー映画会社の製作による風刺映画に限界を見た。
管理社会の恐怖・・・黴が生えそうな古色蒼然としたテーマ・・・「メトロポリス」ではフリッツ・ラングが1925年に早くも来るべき未来の管理社会の恐怖を幻想的にイマジネーションたっぷりに描き、1936年の「モダン・タイムス」ではチャップリンが鮮やかに諧謔した(チャップリンらが創設したユナイテッド・アーティスツが「ローラーボール」を・・・名目上は別会社になっているものの・・・製作したのも何かの縁だろうか)。1967年の「華氏451」では未来の焚書坑儒による思想統制が具体的な描写をもって我々を不気味がらせた。
翻ってこの作品は、古臭いだけでなく、上記作品に比べ、固定観念的で奥行きと広がりがなく、主人公の心理は具体性を欠き、画面から「この映画はメッセージを掲げた問題映画ですよ」と声高に聞こえてくるムードが漂い、白けるばかりだった。従って、本作の社会性なるものは、コメント寄せてくれたYさんの仰る<付け足し>、或いは<付け焼刃>といった程度と結論づけたい。
「2001年宇宙の旅」が発表される1968年までSF映画におけるメッセージは貧弱な作りを誤魔化す単なる目くらましに過ぎなかったが、75年作なのでさすがに目くらましというほど出鱈目ではなかったし、管理しているのが国家ではなく企業である点が唯一、当時としては新味だったように思う。先日鑑賞したドキュメンタリー「ザ・コーポレーション」の、<現在世界の覇権者は企業である>という説にも符合する。が、「ローラーボール」を作ったのがその覇権者たる、人々をコントロールする大企業の一つであるという矛盾にCHANG CHANGさんはお気付きになったであろうか。そこまで行かないと深い鑑賞とは言えない。
僕はこの作品に映画会社の欺瞞性を見る。きれいなパッケージの中に「甘い生活」の腐った大魚の如き腐臭漂う醜いものを見出したら、秀作だの傑作だのとは逆立ちをしても言えなくなるだろう。昨年観た「アイランド」も同じような欺瞞を感じ、腹が立って仕方がなかった。
尤も、映画はスクリーンに現れたものが全てである。仮にその背後に偽善や欺瞞があろうと、中味が良ければ敢えてそこに触れる必要もないし、それを理由に作品の評価を下げる必要もない。ただ出来の悪い映画ではそれが露骨に気になるものである。
一方、古臭いお話やテーマでも作り方次第でどうにでもなるのが文学と違って映画の良い点なのだが、UAというハリウッド屈指のメジャー会社が渾身の力を込めて作り上げたローラーボールという架空のゲームが当時日本でも流行っていたローラーゲームのつまらない焼き直しに過ぎず、浅薄なテーマを強力にバックアップするほど視覚的な魅力に富んではいなかった。勿論これは僕のテイストであり審美眼であるから、他人がそれをどう感じても構わない。
ただ、CHANG CHANGさんは僕への中傷として「スペクタクルを期待して失望したから・・・」と仰っていることから、この作品の視覚的な面がその深い社会性とやらに比べ魅力に欠けることを図らずも認めている。
しかも、第一部で述べたように、映画はそのように分解して語ることは出来ないのだ。各項目のバランスやアンサンブルを見定めきちんと評価して初めて映画を語ることになる。
そのバランスは個々の映画において全て違う。従って杓子定規に見ることは危険であり、その映画はどういうバランスで観るのがベストなのか経験から探っていくしかない。「第三の男」と「カサブランカ」とでは映像と物語性のバランスは著しく違う。同じ尺度で観たらどちらについても正確な評価を下すことは出来ない。映画批評はかくも難しいのである。
ある方が映画を観ることに経験は要らないと遠まわしに僕を批判した。「最近映画観始めたばかりの高校生でも鋭い意見を言う人がいる。方や、古典偏重なだけのベテランもいる」といった主旨だったが、全く的外れだ。映画批評で大事なことは鋭さではなく、精度である。精度の高いレビューこそ参考にすべきものであり、精度は経験によってしか養われない。比較吟味していくことにより誤差が減っていくのだ。勿論個人差はあるので、40年近い映画歴の僕より精度の高い見方が出来る20代の方がいても何ら不思議ではない。
他人が本作をどう感じているか古い雑誌で調べてみた。こういうカルトになりやすい作品に対する最近の評価は疑問が付きまとうから参考にするのは控える。
当時映画批評を10年以上やってきた著名な映画批評家の評価は良くて凡作(荻昌弘氏など)、概ね駄作(SF映画に詳しい双葉十三郎氏など)であった。SFが大好きな石上三登志氏もその年のベスト10でどの雑誌にも全く投票していない。年に10本もSF映画が公開されない時代にである。
唯一山田和夫氏がキネマ旬報のベスト10選出作業で10位(1点)に推薦。僕の持っている雑誌で獲得した総得点はこの1点だけであった。
その三。推論と実像
<言わずもがな>ですが、一応述べます。
彼は僕が駄作とした理由を「スペクタクルを期待してそれが裏切られたからだろう。表面的な見方しかしていない証拠」と推察されているが、大外れ。
事前に監督者以外に何の情報を得ないで観ることにしている僕は観ている最中に(作品によっては観終った後)映画のテーマと狙いを見極め、評価する立場である。よってこの映画がどういう話なのか全く知らないで観始めた。駄作とする理由は、テーマが浅薄でこれ見よがし、映画的魅力に乏しいという総合的判断に過ぎず、「華麗なる賭け」の中でそう紹介したわけである。
お好きな方に甚だ恐縮だが、深く観れば観るほどボロが出てくる駄作と言わねばならない。
好きな映画を悪く言われた時にそれを愛する人を悪く言っていると短絡的に考える傾向が世間にあるが、実に勿体ない考え方である。寧ろ、その映画についてもう一度考え、真の理解に近づくチャンスと考えるべきではないか。私ごとだが、異論に基づき色々と会話を続けるうちにその作品なり監督なりをより深く理解できたと思われる経験をこの一年だけでも随分している。
その意味で、中傷する前に彼は僕にその正確な理由を尋ねるべきだった。大きなミスである。僕も偉そうなことは言えず、<井の中の蛙大海を知らず>にならないように努めていきたい。
その主旨は「オリジナルの『ローラーボール』には深い社会性があって、それが解らないあんたは映画の見方に疎い愚か者」ということである。さらに「あんたは暗いね」という文言もあり、当時は性格のことを言っているのかと思ったが、あるいは「映画に暗い」ということだったのかもしれぬ。
どちらが映画に疎いか反論したくはなったが、「そういう誹謗中傷はさっさと消してしまうのが一番」と以前アドヴァイスされていたので、早速消去することにした。
投稿者が「ローラーボール」に深い愛着を持っていることは、オリジナルの監督ジュイスンがリメイクの製作もしたと述べた点を誤っていると指摘したことからも容易に伺える。僕はallcinema ONLINEの情報に従っただけだが、Imdbで確認したところ確かに名前がない。この点は素直に訂正したのだが、実はこれについても言いたいことがある。彼自身が認めているようにジュイスンは最初のうち確かに企画に乗っていたのだ。わが文脈の中では、実際にしたか否かより、駄作をまた製作しようとしたことのほうが重要であることは読解力のある方ならお解かり戴けるであろう。
さて、快適に過ごしていた1月にまたこの彼が今度は<CHANG CHANG>というハンドルネームでやってきた。今回は前回より真面目。しかし、内容は相変わらずである。使っている単語が【映画に疎い】から【映画に暗い】に変わったぐらいで主旨は全く同じ。
この時は瞬間湯沸かし器状態にカッとなって無礼な返事をしてしまったが、それこそ大人気ない反応だったので今後はこの類のコメントは無条件に削除することにする。
その代わりコラム等で色々言う材料にさせて戴く。因みに個人のハンドルネームを挙げているが、勿論個人批判ではなく、そこから帰納して一般論を導き出しているつもりでありますので、ご了解の程を。
さて、本論。
彼はその200字程度の短いコメントの中で三つもミスを犯している。順次述べて行きたいと思うが、あくまで氏のコメントからの推察なのでそうでない可能性もある。
その一。これが一番重要。
映画は映画として観なければならないが、投稿者にはそれができていない可能性が高い。いや、彼のみならず映画を観る人の多くが実は映画を見ていない。何を見ているのか。話を見ているのである。
彼は「ローラーボール」を深い社会性の映画と述べた。パラレル・ワールドにいるもう一人のCHANG CHANGさんが映画を観ずに原作だけを読んだと仮定しよう。このCHANG CHANG (B)さんは恐らく「深い社会性」と同じことを言うだろう。つまり、小説と映画の間に感想の差が生じないということは、映画を観たCHANG CHANG (A)さんは映画を物理的に観てはいても、実は物語性のみに着目しその印象を語っているに過ぎない。
従って、<深い社会性>のみを取り上げて「ローラーボール」に高い評価を与えることは、映画を評するという行為においては初歩的な誤りである。
映画は総合芸術である。(1)物語・主題(文学)、(2)演技(演劇)、(3)映像(写真、そして映画)、(4)編集と構成(映画)、(5)美術・装置(美術)、(6)音楽(音楽)といった要素から構成されるものである。
しかし、実際には文学的な面で語られることが余りにも多い。批評で生計を立てている人の中にすら少なからずいらっしゃる。
20年近く前「薔薇の名前」という作品にいたく感銘した後、たまたま目に付いた「キネマ旬報」の読者評を読んでみたのだが、誠にがっかりした。
著者は滔々と「本作のテーマは<神学と哲学の格闘>である」と書かれていた。しかし、そのテーマは原作を読めば容易に理解できるし、映画独自のテーマでも魅力でもない。そのテーマを表現する為に貢献した圧倒的な美術、役者の的確な演技、長い原作を短く再構築した脚色の素晴らしさ、編集の呼吸の良さ、それをまとめた監督の演出力に一言も触れていないではないか(実際には多少はあったかもしれないが、目に入らなかった)。果たしてこれが映画評なのか。単に映画の中で示された文学的テーマに気付いて浮かれているに過ぎないのではないか。
映画からそれだけの感想を得たことに対しては素直に感服した。しかし、思うに、それは非常に高級な感想文であって映画評ではない。感想文と映画評のどちらが良い悪いというのではなく、映画の映画固有の面に触れない文章は映画評でなく狭義の感想文(内容分析)であり、両者は明確に区別されるべきである。そうした映画の文学面について述べたものを映画評と解釈している「キネマ旬報」に大いに失望したのである。
映画はどう観ても自由であるという言葉をよく聞くが、映画評を書くという前提においては必ずしも正しいとは言えない。そこには書かれている方の逃げがある。映画批評は次の二段により成る。
どんな作者も主題を擁し狙いを設定して映画を作っている。映画批評の前段はそれを正確に把握すること。同じ管理社会の恐怖をテーマにしても、「モダン・タイムス」のように爆笑させ考えさせるのか、「華氏451」のように不気味に作るのか、或いは悲劇的に作るのか、スペクタクル風に作るのか、声高に作るのか、行間から漂わすだけにするのか、狙い若しくは手法は様々である。
それを正しく理解した上で、その達成度を測定するのが映画批評の後段である(但し、程度の著しく低い主題や下卑た狙いについては最初から低い最高点を設定せざるを得ない)。但し、たまに主題や狙いを曖昧にした作品や作者もある。そうした作品に対してはほぼ自由に理解し感じるしかなく、ここで述べた方法論は通用しない。
後段に対する各人の印象について、他人はとやかく言うことは出来ない。他人の趣味、好み、テイスト、感性を取り沙汰することは野暮であろう。ここにおいて人は映画をどう感じても良いと言うべきである。ただ、映画経験を積み、人生経験を積めばより一般的な審美眼は養われることは自明。
「社会性があるから或いはメッセージ性があるから、即、素晴らしい映画である」という考えは実に幼稚であると言わねばならない。社会性という文学的な要素とその他の要素が咬み合いアンサンブルを為した時初めてその社会性が本当の意味を成す、と理解するのが社会的なテーマを含んだ映像作品のより正しい見方である。そうした鑑賞者が増えることで、レベルの落ち続けている映画もまたかつての映画的魅力を呼び戻すことが出来ると信じ、期待もしている。見方を知っている観客が演劇を良くするという金言(マルセル・プルースト?)はそのまま映画にも適用できる。
この第一のポイントに関連して有名人二人のお言葉を引用してみよう。
フランスの劇作家・小説家であるジャン・ジュネの手紙から(訳:渡辺守章氏)・・・言葉の美しさが、時に我々を騙して、テーマが深遠だと思わせたりする。
サスペンスの神様アルフレッド・ヒッチコックがフランソワ・トリュフォーに語った映画論から(共訳:山田宏一氏・蓮實重彦氏)・・・観客をほんとうに喜ばせるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。
30年間僕が考えてきたことをこの二人が見事に語っている。また、古くから映画界にはこういう諺があるという。
悪い脚本からは悪い映画しか出来ないが、良い脚本からは良い映画と悪い映画が出来る。
文学的な面で映画の良し悪しは決まらない、ということである。
同じ脚本で作られたヒッチコックの「サイコ」とガス・ヴァン・サントの「サイコ」の出来栄えの差を見れば、この言葉やヒッチコック自身の文言の正しさを嫌でも確認することになる。
その二。ここでは「ローラーボール」がそれほど深い社会性を持っていたかを調べてみる。
と言っても手元にビデオはなく、再鑑賞する気もないので、30年前の記憶をベースにその他の映画との比較くらいしかできない。映画評ではなくコラムにしたのもそんな事情からである。しかし、全体の出来栄えに関する印象は明らかに残っている。採点をつけた映画10000本強の内95%の採点を記憶している。
この作品が作られたのは1975年。
映画のテーマは、端的に言えば<近未来における管理社会の恐怖>。競争すら禁止された社会という設定で一見平和だが、そこには大きな恐怖が横たわっている、そんな話である。
大昔のことなので正確には憶えていないが、当然その基調として自由への希求というメッセージ性もあったであろう。それをローラーボールという殺人スポーツを通して描くのが狙いである(出来上がった作品を観れば寧ろテーマと狙い・手法が逆ではないかと思えてくるのだが)。つまり、SF版「スパルタカス」である。
そう、これはコロシアムで平和なローマ市民たちが欲求不満解消の為に剣闘士の戦いを観る模様を描いた作品と基本的な差がない。原作者であり脚本も書いたウィリアム・ハリスンは恐らくそれをモチーフにしたのだろうが、発想が貧しい。大学教授時代に「スパルタカス」の講義でもしたのか。未来に舞台を移したのは、限定的な奴隷管理の代わりに市民の管理を描いて恐怖に普遍性を持たせたいからである。
これを観た時僕はまだ十代後半の映画小僧だったが、早くもハリウッドのメジャー映画会社の製作による風刺映画に限界を見た。
管理社会の恐怖・・・黴が生えそうな古色蒼然としたテーマ・・・「メトロポリス」ではフリッツ・ラングが1925年に早くも来るべき未来の管理社会の恐怖を幻想的にイマジネーションたっぷりに描き、1936年の「モダン・タイムス」ではチャップリンが鮮やかに諧謔した(チャップリンらが創設したユナイテッド・アーティスツが「ローラーボール」を・・・名目上は別会社になっているものの・・・製作したのも何かの縁だろうか)。1967年の「華氏451」では未来の焚書坑儒による思想統制が具体的な描写をもって我々を不気味がらせた。
翻ってこの作品は、古臭いだけでなく、上記作品に比べ、固定観念的で奥行きと広がりがなく、主人公の心理は具体性を欠き、画面から「この映画はメッセージを掲げた問題映画ですよ」と声高に聞こえてくるムードが漂い、白けるばかりだった。従って、本作の社会性なるものは、コメント寄せてくれたYさんの仰る<付け足し>、或いは<付け焼刃>といった程度と結論づけたい。
「2001年宇宙の旅」が発表される1968年までSF映画におけるメッセージは貧弱な作りを誤魔化す単なる目くらましに過ぎなかったが、75年作なのでさすがに目くらましというほど出鱈目ではなかったし、管理しているのが国家ではなく企業である点が唯一、当時としては新味だったように思う。先日鑑賞したドキュメンタリー「ザ・コーポレーション」の、<現在世界の覇権者は企業である>という説にも符合する。が、「ローラーボール」を作ったのがその覇権者たる、人々をコントロールする大企業の一つであるという矛盾にCHANG CHANGさんはお気付きになったであろうか。そこまで行かないと深い鑑賞とは言えない。
僕はこの作品に映画会社の欺瞞性を見る。きれいなパッケージの中に「甘い生活」の腐った大魚の如き腐臭漂う醜いものを見出したら、秀作だの傑作だのとは逆立ちをしても言えなくなるだろう。昨年観た「アイランド」も同じような欺瞞を感じ、腹が立って仕方がなかった。
尤も、映画はスクリーンに現れたものが全てである。仮にその背後に偽善や欺瞞があろうと、中味が良ければ敢えてそこに触れる必要もないし、それを理由に作品の評価を下げる必要もない。ただ出来の悪い映画ではそれが露骨に気になるものである。
一方、古臭いお話やテーマでも作り方次第でどうにでもなるのが文学と違って映画の良い点なのだが、UAというハリウッド屈指のメジャー会社が渾身の力を込めて作り上げたローラーボールという架空のゲームが当時日本でも流行っていたローラーゲームのつまらない焼き直しに過ぎず、浅薄なテーマを強力にバックアップするほど視覚的な魅力に富んではいなかった。勿論これは僕のテイストであり審美眼であるから、他人がそれをどう感じても構わない。
ただ、CHANG CHANGさんは僕への中傷として「スペクタクルを期待して失望したから・・・」と仰っていることから、この作品の視覚的な面がその深い社会性とやらに比べ魅力に欠けることを図らずも認めている。
しかも、第一部で述べたように、映画はそのように分解して語ることは出来ないのだ。各項目のバランスやアンサンブルを見定めきちんと評価して初めて映画を語ることになる。
そのバランスは個々の映画において全て違う。従って杓子定規に見ることは危険であり、その映画はどういうバランスで観るのがベストなのか経験から探っていくしかない。「第三の男」と「カサブランカ」とでは映像と物語性のバランスは著しく違う。同じ尺度で観たらどちらについても正確な評価を下すことは出来ない。映画批評はかくも難しいのである。
ある方が映画を観ることに経験は要らないと遠まわしに僕を批判した。「最近映画観始めたばかりの高校生でも鋭い意見を言う人がいる。方や、古典偏重なだけのベテランもいる」といった主旨だったが、全く的外れだ。映画批評で大事なことは鋭さではなく、精度である。精度の高いレビューこそ参考にすべきものであり、精度は経験によってしか養われない。比較吟味していくことにより誤差が減っていくのだ。勿論個人差はあるので、40年近い映画歴の僕より精度の高い見方が出来る20代の方がいても何ら不思議ではない。
他人が本作をどう感じているか古い雑誌で調べてみた。こういうカルトになりやすい作品に対する最近の評価は疑問が付きまとうから参考にするのは控える。
当時映画批評を10年以上やってきた著名な映画批評家の評価は良くて凡作(荻昌弘氏など)、概ね駄作(SF映画に詳しい双葉十三郎氏など)であった。SFが大好きな石上三登志氏もその年のベスト10でどの雑誌にも全く投票していない。年に10本もSF映画が公開されない時代にである。
唯一山田和夫氏がキネマ旬報のベスト10選出作業で10位(1点)に推薦。僕の持っている雑誌で獲得した総得点はこの1点だけであった。
その三。推論と実像
<言わずもがな>ですが、一応述べます。
彼は僕が駄作とした理由を「スペクタクルを期待してそれが裏切られたからだろう。表面的な見方しかしていない証拠」と推察されているが、大外れ。
事前に監督者以外に何の情報を得ないで観ることにしている僕は観ている最中に(作品によっては観終った後)映画のテーマと狙いを見極め、評価する立場である。よってこの映画がどういう話なのか全く知らないで観始めた。駄作とする理由は、テーマが浅薄でこれ見よがし、映画的魅力に乏しいという総合的判断に過ぎず、「華麗なる賭け」の中でそう紹介したわけである。
お好きな方に甚だ恐縮だが、深く観れば観るほどボロが出てくる駄作と言わねばならない。
好きな映画を悪く言われた時にそれを愛する人を悪く言っていると短絡的に考える傾向が世間にあるが、実に勿体ない考え方である。寧ろ、その映画についてもう一度考え、真の理解に近づくチャンスと考えるべきではないか。私ごとだが、異論に基づき色々と会話を続けるうちにその作品なり監督なりをより深く理解できたと思われる経験をこの一年だけでも随分している。
その意味で、中傷する前に彼は僕にその正確な理由を尋ねるべきだった。大きなミスである。僕も偉そうなことは言えず、<井の中の蛙大海を知らず>にならないように努めていきたい。
この記事へのコメント
TB入れたんですが、反映されていないようですね。もう一回入れてみますね。
反映致しました。
Webryがどうも変でしてね。Webryのブログが全部はじかれてしまうのですよ。同属嫌悪かな(笑)。
確かに映画を映画としてみること、当たり前のようですが誤解も多いでしょうね。
映画は
動く「絵画」や「彫刻」でも、「音楽」や「文学」の解説でも、「建築」や「演劇」の映写でもありません。
独立した総合芸術であり、現代人が文化(カルチャー)を耕し続けている一形態なのだと思います。
「その独自性を忘れて、映画を語るべからず」とまでは言わずとも、これらのことを目指して映画を解読していくべきだと思います。
用心棒さんやオカピーさんの目指すものに、わたしも強く賛同します。我々が今生きている社会は、「視覚的人間」で構成された人類史のなかにいると確信しています。日本の時代区分で言えばも江戸時代から明治へかけての人間と、そこが異なる部分だと思います。
しかし人類が進んでしまった今の在り方を「逆行」することは、生物学的にも社会学的にも不可能なことなのだと思っています。
『視覚的人間』である現代人として、いかに未来を創出していくべきか、オカピーさんのレビューを読みながら、いつもそんなことを考えています。
では、また。
しかし映像で感情や思考を表現できない者はメッセージをトーキーの安易さ、つまり台詞で演者にすべて言わせてしまう傾向が強い。とりわけ小説の映画化にその傾向が顕著に現れる。
小説や原作に共鳴した監督が映像と言葉の表現の違いを深く考えることなく、原作をなぞろうとすると、それは塗り絵にもなり得ない俗物に成り下がる。また小説の愛読者が映画化された「可愛い」作品を観た場合、ほとんどが幻滅して、映画の批判に回ってしまう。
また映画化作品を批判する者も原作には愛着が強いので、批判されると感情論で満たされた批判、根拠の薄い批判をする者が多い。
もうひとつ。最後に言っておきたいことがあるのです。批判する者の多くは逆批判を浴びるとさっさと逃げ出し、名前を変えてちょっと「良心的な」コメントを入れることがある。困ったものです。
ちょっと文章が繋がっていませんが悪しからず。ではまた。
文学的な面で映画が語られるのは当然なのですが、「メッセージ性が凄い。傑作!」などと文言を見かけると、「メッセージだけなら僕でも書ける」と反発を覚えることが多いですよ。反戦を訴え、環境問題を訴えるだけで良い映画になるなら、私だって作れる。どうしてそのメッセージが観客に伝わったかを分析せねば、少なくとも<映画評>ではないです。
観客は無意識にそうした部分を感知しているのに、無意識であるが為に結局「良い話だった」で終る。ただ見るだけならそれでOKでしょう。
しかし、その状態で理由も知らずに他人を批判するのは困ります。私は寧ろメッセージ性(社会性)が『ローラーボール』を駄目な映画にしたと思っているくらいなんです。原作はいざ知らず、映画は<製作に対する言い訳>に扱っていました。深い社会性ねえ?
原作ファンというのは本当に始末に負えないものです。
小説には<場面を自由に想像する>余裕があり、映画にはない。
そこに<愛着>という重石が載るのだから、原作ファンにとって映画が原作以上になることは100%ありません。
従って、原作ファンは映画を見ては駄目(笑)、というのは冗談ですが、その印象をあたかも映画の実力のように語るのだけはご勘弁ですよね。
台詞劇というのを私は必ずしも否定しません。しかし、それを成立させるには結局優れた映像での表現力がいるわけです。
ウディー・アレン、エリック・ロメールの湧き出るイメージの豊かさはその洪水のような台詞群すら超える力があると思います。
>メッセージ
確かに映画においての大切なものであることは間違いありません。
しかし、いっしゃるように、それには種々の要件が必要になってくると思われます。
わたしの好きな評論家のリアリズム映画に関わっての評論に「・・・すべて矛盾と対立とをはらみながら、そしてまたはらむが故に、たえず動き発展していくこの世の中の現実を、その生きた複雑な形のままで、しかも発展していく動きの中でどのようにとらえ、それをどんなに生き生きとした姿で描いていくか。・・・」
メッセージの表現自体においても、その表現の方法すなわちカメラの眼、マイクの耳等、種々の映像技術が特有であることを踏まえるべきであるのでしょうね。
>その生きた複雑な形のまま
>生き生きとした姿で描いて
これらを表現しうるのは舞台や小説よりも『映画』であることを今一度、考えてみる必要があるように思います。
>深い社会性
はこのような目的と方法をもって達成可能なのではないでしょうか?
では、また。
メッセージ性、社会性、テーマ性、興奮、感動・・・例外もありますが、これらを生かすのは具体的な表現であり、具体的な描写であろうと思います。
トムさんの引用された評論家の言説やトムさんのコメントは、それを指していると私は解釈しました。
翻って、「ローラーボール」の管理社会(の恐怖)は実に抽象的であり、主人公の心理はよく解らず、観念論的に推移していたような記憶があります。良い映画である要件を満たしていたとはとても思えませんね。
未来と言うよりも1970年代テイストですね。そして、それほど評価が高いわけではないのにリメイクされたと言う点では「デス・レース2000年」と同じです。一部の映画ファンに愛される理由があるのでしょう。日本人(演じている人は日本人ではないですが・・・)が出てくる点も好まれるのかも知れません。
僕は映画と言うものは楽しんで見る事が出来ればいい。そう思います。
>僕は映画と言うものは楽しんで見る事が出来ればいい。そう思います。
楽しめる映画はそれで良いと思います。
問題は楽しめない映画ですよ。
勿論趣味から外れる作品は誰にもありますが、趣味の範囲外であっても、何故楽しめないか考えないのは、一生の損です。
僕などもこのスタンスによって楽しめるようになった映画や音楽が数多くあります。
昔苦手だった「オールド・ブラウン・シュー」も、この曲を研究したというより、他のアーティストやジャンルを色々聴くうちに好きになって来ました。
今ボクがちと世評ほど楽しめない名作アルバムは、ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』とジョニ・ミッチェルの『ブルー』です。
『ネヴァーマインド』のうちどの1曲でもピックアップして聴く分には悪くないのですが、続けて聴くと同じような曲ばかりに聞こえて退屈する感じ。
『ブルー』はシンガーソングライターの作品群なので、歌詞をよく消化してみようとトライしてみましたが、まだまだ掴めません。ギターは上手いらしいですが、僕もその辺は解るような解らないような。
とにかく、良い素材を放っておくのは勿体ない。人間の一生には限りがあるので、とても全部を見たり聞いたりはできないのですけどね。
映画「ローラーボール」はジェームズ・カーンが主演だったのを覚えています。当時活躍していたのですよね。映画自体、スペクタルとかそういう風には宣伝されていなかった、というか、宣伝自体が苦しかった物件、近未来を舞台にした一種のディストピアものみたいな、アクションとしても売りづらいみたいな雰囲気も覚えています。
>ジャン・ジュネ、ヒッチコックと、自分の敬愛する作家の名前、彼らによる箴言が読めてうれしくなりました。
ヒッチコックはともかく、ジャン・ジュネを敬愛していらっしゃいますか。
凄いですねえ。
何のタイミングか知りませんが、僕はこれを読んでいたんですねえ。
>映画「ローラーボール」はジェームズ・カーンが主演だったのを覚えています。当時活躍していたのですよね。
「ゴッドファーザー」でぐっと知名度を上げました。この時代の出演作に阿ちょっとした佳作が多かったです。
>宣伝自体が苦しかった物件、近未来を舞台にした一種のディストピアものみたいな、アクションとしても売りづらいみたいな雰囲気も覚えています。
そう思います。
ローマ闘技場ものの未来版でしたね。
>ジャン・ジュネ、ちょっと淀川長治先生に通じる何かがあるんですよね、感覚的に、物言いも。
そうですか。僕はそこまで読み込んでいないので、また別のものを読んでみようかな。
淀川先生は感覚的な人で、これは他人には真似できなかったですね。だから、予想を覆す評価もされたことがままありました。
その喋りで紹介された映画は、実物より面白かったですよね。