映画評「テス」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1979年イギリス=フランス映画 監督ロマン・ポランスキー
ネタバレあり
ヴィクトリア朝後期英国の文豪トーマス・ハーディの「日陰者ジュード」と並ぶ代表作「ダーバヴィル家のテス」をロマン・ポランスキーが映画化した文芸大作。先年ディケンズの「オリヴァー・ツイスト」を映像化した彼にとって本作が初めての本格的文芸映画だったと記憶する。
農村の娘テス(ナスターシャ・キンスキー)は名門の末裔であることを知った父親により下女として送り込まれた同門の富豪の家でぐうたらな息子アレック(リー・ロースン)に暴行されて妊娠、実家で産むが間もなく赤子は死亡、正式な洗礼を受けていない庶子故に牧師は教会での埋葬を許さない。
数年後乳絞りになった時牧師の息子ながら酪農を勉強していた若者エンジェル・クレア(ピーター・ファース)と愛し合って結婚するが、彼はアレックとの過去を許せず出奔する。
酷烈な生活の末に家族の為にアレックと妻となったテスは、エンジェルの出現に動揺してアレックを殺し、逃避行の末に死刑になる。
父親が偶然知った情報から純真な娘が道を過つことになる運命の皮肉を綴りながら、父親から始まる男性の身勝手さに批判の目を向け、教会や聖職者の偽善を指摘し見応え十分。主題は原作と同じだが、映画的テクニックを駆使してポランスキーは盛大にヒロインの流転を描き上げる。
例えば、省略の効果。ヒロインがアレックから去った場面に農作業をするテスの前に妹が赤ん坊を連れて来る場面を繋ぐが、省略を上手く利用して映画的魅力を生んだ名演出である。
印象派の絵画のような牧歌的な、時に野趣溢れるショットの連続で、これだけでも観る価値は十分ある。
残念なのは今回の放映版の解像度が昔のVHSレベルで、特にロングショットが純粋に楽しめなかったこと。27年前に映画館で観た時はスクリーンの状態が悪くて余り快く観られなかった記憶があり、どうも巡り合わせの悪い作品らしい。ただ、時にそのぼけ具合が上手く機能して絵画的効果を発揮する個所もある。
本作で本邦初登場したナスターシャ・キンスキーは父親クラウス・キンスキーの威光に関係なく、なかなかの大物ぶりだった。イングリッド・バーグマンの再来とも言われたが、口元に品がないのが玉に瑕。その後も注目作に出続けるが、90年代以降はパッとせず、最後に観たのは6,7年前の「マイ・ハート、マイ・ラブ」。
ポランスキーはオープニング・タイトルの最後で"To Sharon"と、10年前の1969年にチャールズ・マンスン一味に惨殺された愛妻シャロン・テイトに献辞を捧げている。どういう思いがあったものか。
1979年イギリス=フランス映画 監督ロマン・ポランスキー
ネタバレあり
ヴィクトリア朝後期英国の文豪トーマス・ハーディの「日陰者ジュード」と並ぶ代表作「ダーバヴィル家のテス」をロマン・ポランスキーが映画化した文芸大作。先年ディケンズの「オリヴァー・ツイスト」を映像化した彼にとって本作が初めての本格的文芸映画だったと記憶する。
農村の娘テス(ナスターシャ・キンスキー)は名門の末裔であることを知った父親により下女として送り込まれた同門の富豪の家でぐうたらな息子アレック(リー・ロースン)に暴行されて妊娠、実家で産むが間もなく赤子は死亡、正式な洗礼を受けていない庶子故に牧師は教会での埋葬を許さない。
数年後乳絞りになった時牧師の息子ながら酪農を勉強していた若者エンジェル・クレア(ピーター・ファース)と愛し合って結婚するが、彼はアレックとの過去を許せず出奔する。
酷烈な生活の末に家族の為にアレックと妻となったテスは、エンジェルの出現に動揺してアレックを殺し、逃避行の末に死刑になる。
父親が偶然知った情報から純真な娘が道を過つことになる運命の皮肉を綴りながら、父親から始まる男性の身勝手さに批判の目を向け、教会や聖職者の偽善を指摘し見応え十分。主題は原作と同じだが、映画的テクニックを駆使してポランスキーは盛大にヒロインの流転を描き上げる。
例えば、省略の効果。ヒロインがアレックから去った場面に農作業をするテスの前に妹が赤ん坊を連れて来る場面を繋ぐが、省略を上手く利用して映画的魅力を生んだ名演出である。
印象派の絵画のような牧歌的な、時に野趣溢れるショットの連続で、これだけでも観る価値は十分ある。
残念なのは今回の放映版の解像度が昔のVHSレベルで、特にロングショットが純粋に楽しめなかったこと。27年前に映画館で観た時はスクリーンの状態が悪くて余り快く観られなかった記憶があり、どうも巡り合わせの悪い作品らしい。ただ、時にそのぼけ具合が上手く機能して絵画的効果を発揮する個所もある。
本作で本邦初登場したナスターシャ・キンスキーは父親クラウス・キンスキーの威光に関係なく、なかなかの大物ぶりだった。イングリッド・バーグマンの再来とも言われたが、口元に品がないのが玉に瑕。その後も注目作に出続けるが、90年代以降はパッとせず、最後に観たのは6,7年前の「マイ・ハート、マイ・ラブ」。
ポランスキーはオープニング・タイトルの最後で"To Sharon"と、10年前の1969年にチャールズ・マンスン一味に惨殺された愛妻シャロン・テイトに献辞を捧げている。どういう思いがあったものか。
この記事へのコメント
わたくし、一時期、ナスターシャ・キンスキーが好きだった頃があります。この『テス』は彼女の魅力が最大限に引き出されていたように思います。イングリット・バーグマンと同タイプかもしれませんが、現代的でセクシュアルですよね。
思うにポランスキーは前衛作家のような初期から古典に回帰していった作家のように思います。実にトリュフォーに似ていると以前から思っていました。彼の影響も受けていたのかなあ?
トリュフォーの作風の変化の仕方と共通のものを感じてしまうのですが・・・。
フィルム・ノワール、サスペンス・スリラーなどの作品から、フランス映画の古典あたりに回帰していったように思います?特にこの作品には、映画の前衛はあまり感じられず実に古典的作風だったような印象でした。
では、また。
そうですね、ナスターシャのほうが野性的でセクシュアルです。あのイチゴのシーンはエロっぽかったですよね(笑)。
実際には映画歴5年目くらいだったはずですが、本作くらい彼女の魅力が発揮された作品はないですね。「マリアの恋人」は凡作、「ホテル・ニューハンプシャー」は変てこ、「パリ・テキサス」は出番が些か少ない。
ポーランドの若手はヌーヴェルヴァーグの影響を受けたでしょうし、まして早めにフランスを中心に活動するようになったポランスキーがトリュフォーの活動に触発された可能性がないとは言えないでしょうね。。
些か暴論ですが、文学であれ映画であれ、基本の優れているのが古典の古典たる所以ですから、才能のある作家たちはそういうものに惹かれて行くのが当然のような気がします。いや、ゴダールに才能がないとは言いませんが(笑)。
また、トリュフォーについては、本人が自分の持っている古典的資質にある時突然気付いたのではないかと思っているのですが、如何でしょう?
考えてみるとポランスキーは興味深い演出家ですね。『チャイナタウン』なんか、フィルム・ノワールの原則通りですし、『戦場のピアニスト』なんかジョセフ・ロージーのリアリズムにも通じます。ニコルソンやキンスキーに対しての、素晴らしいスターの素質を見抜く眼はクレマン、メルヴィル、デュヴィヴィエに通ずる。この『テス』は、おっしゃるように古典回帰、トリュフォーや、古くはフェデール、カルネ、オータン・ララみたいだし・・・(フランス映画ばかりの例えでスミマセン)。
経験と学習が映画の演出家としての資質にすべてプラスにしていけた人なのでしょうね。
特に関心のある作家ではありませんでしたが、今後、注目していくべき貴重な人材だと気付かされました。
>基本の優れているのが古典の古典たる所以
いや、全くそのとおり、その言葉は何度「言葉」にしても、し足りない。お互い一生言い続けていきましょう。
>トリュフォーについては・・・ある時突然気付いた・・・
おっしゃるとおりでしょうね。そして恐らく自己矛盾にも苦しんだように思いますよ。(これはドロンを使ったゴダールにも言える。彼なりに古典回帰したような気がします)。
そして、トリュフォーの場合は、それをストレートに作品にぶつけていった。だから彼の内面の闘いが、その作品群の魅力に表れているようにも感じるのです。
ジャン・ルノワール、ジャン=ピエール・レオとの信頼関係やゴダールとの決別、どんな人生だったのでしょう?
ゴダールの「ヌーヴェルヴァーグ」には間接的なトリュフォーへのオマージュもあったのかもしれないなあ。
オカピーさんの記事やコメントは、いろんな連想を呼び起こさせてくれます。
では、また。
P.S.用心棒さんの「ガメラVSゴジラ」の記事、とても面白いですよ。
ポランスキーは、恐らくユダヤ人狩りで知った<恐怖なるもの>を通奏低音として作品を作ってきた人だと思いますね。「吸血鬼」も「マクベス」も「オリバー・ツイスト」も。従って、表面的には様々なタイプに分かれる彼の作品群は実は全て彼の恐怖心の表白だったのではないかと。
古典回帰と言っても、ポランスキーの場合は、恐らく映画作家的な職人たらんとしたのではないでしょうか。
一方、トリュフォーはあくまで映画作家たらんとしたのではないかと思います。テーマとジャンルが一定以上には広がらなかったのを見るが故に。
「ヌーヴェルヴァーグ」は相変わらずとその時は思えたのですが、トムさんのご意見を拝聴するうちに「もう一度観なければならん」と思い始めました(笑)。
「ガメラVSゴジラ」に行って参りました。たまげました!
しつこいコメントすみません。
>ポランスキーは、恐らくユダヤ人狩りで知った<恐怖なるもの>・・・彼の作品群は実は全て彼の恐怖心の表白だったのでは・・・
う~む、そうだ、彼はユダヤ人でしたよね。
思えばスピルバーグもそうですよね。『激突』も『ジョーズ』も『ET』でさえ、追われるものの恐怖ばかりです。そして、彼も古典といえば古典ですよね。
>映画作家的な職人>映画作家
実に微妙なところでの違いかもしれませんね。トリュフォーは育ちが良くてデリケートだったから、素直に美しいもの(映像や主人公の生き方やキャラクター、そして悲劇であっての喜劇であっても)に惹かれていったのではないでしょうか?
用心棒さんのGG対決、面白かったですね。オカピーさんも何か創作物に挑戦してみては。
では、また。
母親を収容所で失っていますね。だからこそ「戦場のピアニスト」での徹底した観照性が感動的でした。
ところが、「淡々としすぎている」といったふざけたコメントもあります。あんな悲惨な状況を感情的に描いたら映画として収拾がつかないでしょうに。現実こそが最もドラマティックなのは言うまでもありません。
スピルバーグの場合は完全なアメリカ育ちですからトラウマとしてはないでしょうが、仰るように<追われるものの恐怖>はテーマになっていて、共に過小評価された「A・I」や「宇宙戦争」にも当てはまる部分がありますね。
職業監督と映画作家、どちらでも良いのですが、基本的にヒッチコックや小津安二郎のように一定のテーマにこだわる人は映画作家と言うべきですし、脚本家に対する支配が大きいように思いますね。映画作家と言われる監督が自ら脚本を書くことが多いのは必然です。ヒッチコックや溝口健二はクレジットにこそ名は出ませんが、相当書き換えさせているので自ら書いているのに等しい。
私は他人の褌で相撲を取る方ですなあ(笑)。
>ナスターシャ・キンスキー
そういう意味では、やはり文芸ものやファンタスティックな寓話といったジャンルが合いそうですね。
僕は本邦(本格)初登場の「テス」一番好きでした。