映画評「第七の封印」
☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1956年スウェーデン 監督イングマル・ベルイマン
ネタバレあり
巨星墜つ。尊敬する映画監督イングマル・ベルイマンが30日に亡くなった。
「サラバンド」の昨年末の公開もあり、今年はベルイマンの年になると予感を覚えてわがブログでも古い作品から少しずつ記事を書いているところだが、まさかその意味でベルイマンの年になるとは思わなかった。89歳と高齢なのである程度覚悟していたものの、実際にその日が訪れると心の中にぽっかりと穴が開いたようである。夭逝したトリュフォーと違って涙は出てこなかった。
追悼の為に大好きな本作を選んで観た。
読者におかれては本作の解読を期待される向きもあるだろうが、正直に言ってとても無理です。悪しからず。但し、表面的にはかなり解りやすく、娯楽性も高い。僕が30年前からベルイマンは最高の娯楽映画だと主張している意味が本作を観ればお解かり戴けるのではないかと思う。
14世紀、十字軍遠征に挫折した騎士マックス・フォン・シドウが従者グンナール・ビョルンストランドと共に10年ぶりに妻の待つ城館へ戻る途中死神ベント・ニーケロートと出会い、勝った時は死から解放するように交渉してチェスで勝敗を争う。
騎士と従者は勝負の間に、悪魔と交わった為に火刑に付される少女や十字架を背負った狂信者の群れなど、様々な出来事を見聞する。森の中で王手をかけられた騎士は途中で加えた者たちと共に城館に戻り、妻が黙示録の<第七の封印>の部分を音読しているところへ死神が訪れ、黄泉の国へと一行を導いていく。
序盤からマリア様など幾つかの奇跡を見てきた狂言回しとも言うべき旅役者ニルス・ポッペはその姿を目にするが、妻ビビ・アンデルセンは彼の言葉を信じない。
牧師の家に生まれながら宗教に対して疑問を持ち続けたベルイマンはこの作品から明確に映画の中でも神の存在へ疑問を投げかけ始めている。現代人の性意識を神の問題に絡めた60年代の<神の沈黙>三部作と違って、もっと直接的に神の存在の問題を世に問おうとしているわけである。
十字軍で人間不信に陥り、ペストが蔓延して死体が溢れる世の中を見て騎士と従者は神を疑う。全てが信じられなくなっている。
十字軍を扇動した神学教師がコソ泥になって現れたり、偽善的な狂信者の言動や少女の火刑を見聞きすることで、その疑いはどんどん深まっていく。人生の意義を考える為に死を延期してもらった形の騎士だが、人生の虚無を確認するだけに終わり、死を寧ろ喜んで迎える。結局彼は死神以外の神も悪魔も目にすることはない。
ベルイマンは常に宗教や神の存在に疑問を抱きながらも完全に否定したことはないと思う。
本作でも狂言回しとも言うべき旅役者夫婦を登場させ、人生について懐疑的な騎士一行と鮮やかに対比させている。彼らは宗教と神を信じ、人生を疑わず楽観的に生きている。その結果死神に纏わり付かれることもなく、天国を約束されているとでも言うように、大天使と同じミカエルという名の赤ん坊を抱き上げさせて我々に希望を与える。ベルイマンの不安なき人生への切なる願いであろう。
一方、キリスト教文化圏で育っていない一般の日本人である我々に、キリスト教的思想を土台にした死生観や登場人物の神とのあり方を底流部分で理解できるはずもない。「暴力(肉欲)も愛である」と従者が主張するあたりでおぼろげに反カトリック的な雰囲気が掴める程度だが、それでも神秘主義的様式美に溢れた映像には、そうした理解を超えた筆舌に尽くしがたい映画的魅力がある。それだけでも必見と言うべし。
従者と鍛冶屋の古典劇的な掛け合いなど、初期のベルイマンに見られたコミカルな味わいも捨てがたい。
ベルイマン殿、人類の宝とでも言うべき秀作の数々を与えてくれて有難う。安らかにお眠り下さい。貴方の満足するような作品に出会えたら報告致します。さようなら。
1956年スウェーデン 監督イングマル・ベルイマン
ネタバレあり
巨星墜つ。尊敬する映画監督イングマル・ベルイマンが30日に亡くなった。
「サラバンド」の昨年末の公開もあり、今年はベルイマンの年になると予感を覚えてわがブログでも古い作品から少しずつ記事を書いているところだが、まさかその意味でベルイマンの年になるとは思わなかった。89歳と高齢なのである程度覚悟していたものの、実際にその日が訪れると心の中にぽっかりと穴が開いたようである。夭逝したトリュフォーと違って涙は出てこなかった。
追悼の為に大好きな本作を選んで観た。
読者におかれては本作の解読を期待される向きもあるだろうが、正直に言ってとても無理です。悪しからず。但し、表面的にはかなり解りやすく、娯楽性も高い。僕が30年前からベルイマンは最高の娯楽映画だと主張している意味が本作を観ればお解かり戴けるのではないかと思う。
14世紀、十字軍遠征に挫折した騎士マックス・フォン・シドウが従者グンナール・ビョルンストランドと共に10年ぶりに妻の待つ城館へ戻る途中死神ベント・ニーケロートと出会い、勝った時は死から解放するように交渉してチェスで勝敗を争う。
騎士と従者は勝負の間に、悪魔と交わった為に火刑に付される少女や十字架を背負った狂信者の群れなど、様々な出来事を見聞する。森の中で王手をかけられた騎士は途中で加えた者たちと共に城館に戻り、妻が黙示録の<第七の封印>の部分を音読しているところへ死神が訪れ、黄泉の国へと一行を導いていく。
序盤からマリア様など幾つかの奇跡を見てきた狂言回しとも言うべき旅役者ニルス・ポッペはその姿を目にするが、妻ビビ・アンデルセンは彼の言葉を信じない。
牧師の家に生まれながら宗教に対して疑問を持ち続けたベルイマンはこの作品から明確に映画の中でも神の存在へ疑問を投げかけ始めている。現代人の性意識を神の問題に絡めた60年代の<神の沈黙>三部作と違って、もっと直接的に神の存在の問題を世に問おうとしているわけである。
十字軍で人間不信に陥り、ペストが蔓延して死体が溢れる世の中を見て騎士と従者は神を疑う。全てが信じられなくなっている。
十字軍を扇動した神学教師がコソ泥になって現れたり、偽善的な狂信者の言動や少女の火刑を見聞きすることで、その疑いはどんどん深まっていく。人生の意義を考える為に死を延期してもらった形の騎士だが、人生の虚無を確認するだけに終わり、死を寧ろ喜んで迎える。結局彼は死神以外の神も悪魔も目にすることはない。
ベルイマンは常に宗教や神の存在に疑問を抱きながらも完全に否定したことはないと思う。
本作でも狂言回しとも言うべき旅役者夫婦を登場させ、人生について懐疑的な騎士一行と鮮やかに対比させている。彼らは宗教と神を信じ、人生を疑わず楽観的に生きている。その結果死神に纏わり付かれることもなく、天国を約束されているとでも言うように、大天使と同じミカエルという名の赤ん坊を抱き上げさせて我々に希望を与える。ベルイマンの不安なき人生への切なる願いであろう。
一方、キリスト教文化圏で育っていない一般の日本人である我々に、キリスト教的思想を土台にした死生観や登場人物の神とのあり方を底流部分で理解できるはずもない。「暴力(肉欲)も愛である」と従者が主張するあたりでおぼろげに反カトリック的な雰囲気が掴める程度だが、それでも神秘主義的様式美に溢れた映像には、そうした理解を超えた筆舌に尽くしがたい映画的魅力がある。それだけでも必見と言うべし。
従者と鍛冶屋の古典劇的な掛け合いなど、初期のベルイマンに見られたコミカルな味わいも捨てがたい。
ベルイマン殿、人類の宝とでも言うべき秀作の数々を与えてくれて有難う。安らかにお眠り下さい。貴方の満足するような作品に出会えたら報告致します。さようなら。
この記事へのコメント
大学を卒業して後、初めてベルイマンを観たのが本作でした。テレビの深夜帯での放送です。
驚きました。いえ、驚いたという言葉では明らかに表現が足りないでしょう。光と影が織り成す極めて美しい映像に、私は神そのものの姿を観たかのような高揚をおぼえ、かつて友人が褒め称えていた意味を知ることとなったのです。
もっとも、神の存在を問う映画的主題はあまりに深遠で、私がベルイマンの思想にどれほど近づけたかについて語れば、自らの不明を恥じるより他ございません。
本作をビデオで何度も再鑑賞し、自分なりの解釈を周囲に語りたくてしょうがなかった若気の至りも、同時に思い出してしまいます。
それでなくても、ベルイマンは難解な作家だと思われているフシがありますので、プロフェッサーご指摘のように、娯楽性を兼ね備えた作品を作り続けた監督だと伝える必要もございましょう。
それにしても・・・
時を同じくしてアントニオーニも亡くなり、本当に神は不在なのではないか、死神だけが跋扈しているのではないか、とどうしようもない虚しさにかられてしまいます。
仮に映画の神が存在するのであれば、それはフェリーニやトリュフォーであり、ベルイマンやアントニオーニが神々たちの列に加わったのだ・・・と考えて、虚しさを薄めるより他ありません。
しかし、ベルイマンとアントニオーニがチェス・ボードを挟んで映画談義に花を咲かせている光景を思い浮かべれば、いくらかでも心は慰められるような気がいたします。
まずは巨星の逝去にお悔やみ申し上げます。
最後の映画作家といえる人たちが亡くなるのはつらいですね。ついにベルイマン監督が亡くなったのだなあ、とがっくりしていた矢先にアントニオーニ監督までがあとに続くとは想定外でした。
なんだか心の空白と無常観に覆われる夏になってしまいそうですね。黒澤監督が亡くなった時にしばらく呆然としましたが、贔屓の監督の新作を永久に観る機会が失われてしまうのは辛いものです。ではまた。
幸いなことに映画においては、その魂が作品として残されていることが唯一救いではありますが。
死というものは、その人生の終焉として最も厳粛なるものかもしれませんが、わたしは黒澤明監督の『夢』のラスト・シークエンスのお葬式が未来における理想であるとも思っております。
ベイルマンの作品は宗教的で神々しく(実際は無神論的で醒めた視線なのでしょうが)難解であるイメージが強いですが、恋愛や結婚など実体験としての人間の洞察があまりにも先鋭的で苦しくなることもありました。生活の中で映画を、残された名作を、見続け言葉に発し続けていくことが残された者の課題なのかもしれません。
では、また。
コメント、有難うございます。
私も生意気の大学時代何度か観た「ペルソナ」について熱く友人に語ったことがあります。多分彼は理解していなかったでしょうが、まるで優一郎さんとは逆の関係だったわけです。
私も最初のベルイマン体験は大学入学を目前にした頃TVの放映でした。当時は有名なベルイマン作品はTV放映されていなくて、日本未公開の「狼の時間」だったと記憶しています。コントラストの強い映像に圧倒され、「これが噂のベルイマンか、東京へ行ったら見てやるぞ」と東京の大学以外は頭から消えてしまいました(笑)。
ベルイマンは難解とは余り思わないですね。難解なのではなく、抽象的な問題が奥が深くて難しいのであって、解らないように作った映画は一本もないのではないでしょうか。だから、ベルイマンのテーマは難しいといった方が正しいでしょうね。
デーヴィッド・リンチのほうが余程難解ですよ。
キリスト教的土壌に立脚した作品である反面、死と生、愛と性を扱った普遍的なテーマの作品群でもあったと思います。
彼の作品は棺桶の中まで持って行きたい。
>ベルイマンとアントニオーニがチェス・ボードを挟んで
私もそう思いますね。
同じように、ヒッチコックとトリュフォーが天国から昨今の映画界を見て「なっとらん」と怒っているような気がしますね。
そう思うと幾らか愉快な気持ちになってきました。
どうも有難うございました。
コメント、痛み入ります。
ブログ仲間のシュエットさんから報告を受けたり、新聞記事で確認しても涙は出ませんでしたが、本稿を書いていると不覚にも涙が出てきまして、なかなか止められなくなりました。
個人的にはアントニオーニはさらに高齢であるので、ショックはありませんでしたが、映画作家の時代は完全に終わったと思わざるを得ませんね。
現在は少し成功した作家はすぐに製作に回って新しい才能を発掘しようとする。そんな循環で才能は使い捨てされ、映画作家と言えるほど実績を積む前に消えていく。
世界中に新人監督・若手監督が溢れ返っている。監督で映画を見る傾向にある我々には困った時代ですね。
仰るように、作家であれ、音楽家であれ、映画監督であれ、物を生み出す人は死して作品を残せるのが救いですね。ベルイマンの作品は100年後でも残っている人類の財産でしょう。
用心棒さんへのコメントにも書いたように、映画作家の時代は完全に終わったと思いますね。これからは映画会社もしくは製作者の時代・・・そして商業主義の蔓延。
映画作家は僅かにインディ映画界に残るということになっていくでしょう。ああ、また悲観論が始まった(笑)。こうして毎日映画評を書いていますと、監督が新人ばかりで驚かされますよ。僕らが映画を見始めた頃は、新聞の映画欄を見ても、ジョージ・シドニーだ、ノーマン・タウログだ、ヘンリー・ハサウェイだと繰り返されるうちに監督名を憶えたものです。今は憶える気にもなれないし、憶える意味も殆どない。寂しい時代になったものです。
たしかに新人監督が多いですね。自分のところでも作品を紹介する時、クラシック作品では必ず監督名をどこかで入れていましたし、各監督独自の個性がありますので、入れないのは失礼だとも思っています。
しかし最近の「製作総指揮」の蔓延には呆れ果てますね。巨匠気取りをするには二十年早い輩が指揮とはどういうことなんだろうと思います。そしてその下請けに使われる「監督」には残念ながら興味は湧きませんね。
よって監督名を出さないことも増えてきました。
「最後の」と呼んでも良い映画作家はもはやジャン・リュック・ゴダール監督のみでしょうか。彼はどちらかというと哲学者ですがね。
かれには滅び行く映画作家へのレクイエム(平家物語みたいですなあ)として、一本でよいので、劇映画を仕上げて欲しいですね。
ではまた。
正に仰る通りだと思います。
ベルイマンは構成は非常に明確・明解であり、表面的に解りにくい作品は殆どないと思いますが、キリスト教的精神性の核まではとても解らない。しかし、それでも観ないより観た方が良い、それがベルイマンです。
グンナール・フィッシャーやニヴェン・スクヴィストの協力を得て作られた深遠な映像が観客の感覚を磨いてくれるような気がしますね。
また少しずつ観ていきたいと思います。
ゴダールは余りに特殊ですからねえ。
私の中では60年代でほぼ終わっているんですよ。そんなことを言うと、トムさんに「けしからん」と怒られますけどね(笑)。
但し、「ヌーヴェルヴァーグ」だけはしっかり見直そうと思います。トムさんの分析には「目からうろこ」的なものがありました。
いや、まったくけしからんです、あははは。
ある意味、見抜いていた人は見抜いていた「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちの弱さ。しかし、彼らの残した革新が素晴らしい実績であることも間違いない。
ゴダールは自身の内部にも大きな矛盾を持っているように感じます。インテリ作家としての自分と大衆のための映画、なかなか統一できていない。ドロンとの共作は、その原点に立ち返った作品なのだと思います。
ゴダールとしては、「作家主義」から、「集団での映画創り」へのレベル・アップも感じるんですよね。この作品に。
では、また。
いままでずっとオカピーさんの専門分野であるベルイマン監督作品は記事にしてこなかったのですが、先日亡くなられたこともあり、ご供養?の意味で今月中に一本はアップしようと思っています。
かなりの確率で、オカピーさんから見れば、的外れと思われやしないかとヒヤヒヤではありますが、どうぞ笑ってやってください。
ではまた。
立てて崩れ落ちるイメージが全身を襲いまして、
元気な私にしては珍しく、ベッコリ(笑)、
沈んでおりましたきょうこの頃・・・
本日から、再始動ざます。
>ベルイマンは常に宗教や神の存在に疑問を抱きながらも
完全に否定したことはないと思う。
私もいつもそう思って観てきました。
「神の不在」「神の沈黙」3部作とかよく言われますが
ベルイマン自体は何もその点、言及していないとか・・。
未公開の3作、「恥」「狼の時刻」「蛇の卵」が収録された
DVDをマイ・ブログ3年目突入記念に買いたいな~
なんて思っていますが、プロフェッサーはもしかして~
いずれかの作品、ご覧になったかしら?
「パッション」で商業映画に復帰して以来およそ四半世紀に渡り、60年代中頃から始めた縦横無尽の文字の羅列とナレーションの複合を懲りもせずに繰り返すのを見るうちに、ゴダールの言語によるコラージュを理解するのは頭を素通りさせることだと発見(笑)する一方で、マンネリだなと思っていたんですけどね。
「ヌーヴェルヴァーグ」はトムさんの分析したアングルから観ると興味深いですし、「映画史」には歴史的名作を紹介しない「世界文学全集」みたいな面白さがありました。
>「集団への映画創り」へのレベルアップ
なるほど、総合芸術の指揮官としては、それまでの作風は自己矛盾だったわけですね。
最後に一本、かつての「勝手にしやがれ」のような爆発的作品を観てみたいですが、可能性は?
ベルイマンやトリュフォーについてはヒッチコックと違って現物だけを頼りに理解してきたので、専門分野などということはありませんが、映画作家と職業監督のどこが違うかと言えば、映画作家は一本観ただけでは理解はできない、ということです。
その意味では、史上最高の職業監督と言っているウィリアム・ワイラーも実は映画作家です。作るジャンルは違えども一本筋が入っていましたから。
「沈黙」については先ほどざっと読ませて戴きましたが、さすがの分析でありました。後でそちらにコメントしにお伺い致します。
ウェルカム・バック!
姐さんがいなくちゃ始まらないや。^^)v
>3本立DVD
リヴ・ウルマン主演ですね。^^
「狼の時刻」は私は「狼の時間」として記憶していますが、未公開作品の中では最も上出来の一編だと思います。やや恐怖映画的なところもありました。
「恥」も観ていますが、「狼」には及びません。しかし、Imdbでの皆様の評価はこちらのほうが良いみたい。アメリカ人好みなのかな?
「狼の時刻」が観られるなら買っても良いと思いますよ。
さっきベルイマンの「魔笛」記事書いてました。プラナーの消化不良の「魔笛」にげんなりで、ベルイマンの「魔笛」は未見だったんですけど、改めて巨匠を感じました。観られました?月曜日に記事UPするんで拙文ですが読んでやってください。
私は「てにをは」の間違いが多いです。途中から文章を変えるのに「てにをは」がそのままなので、とんでもないことになっています。^^;
「魔笛」は観たことがありますよ。
昔高く評価しましたが、意外と憶えていないものですね。また見なくちゃ。
ブラナーはシェークスピアもたくさん映画化していますが、余り良くないですね。「ヘンリー5世」など大絶賛されてImdbのベスト250に堂々と入っていますよ。ローレンス・オリヴィエの「ヘンリー五世」のほうが全然立派なのに、こちらは入っていない。
ベルイマンもオリヴィエもブラナーより演劇を映像に移し替える時にやらねばならないことをよく知っています。オリヴィエは役者としても格が違いますよね。
昨日、わたしの好きな「秋のソナタ」も併せて、再見してしまいました。やっぱり素晴らしいですね。最近ドイツ表現主義の何作かを観ていたのですが、ベルイマンの原点はそこにあることは間違いないと確信できます。
それにしても北欧の神さまたちは、おっそろしく奇っ怪ですねえ。
恐らくベルイマンが、この時代背景を選んだのは、神への模索を自身のなかで整理しようとしていたのでしょうね。
以前観たときは、ラスト・シークエンスの意味が、全く理解できませんでしたが、
>死を寧ろ喜んで迎える。
>旅役者夫婦・・・宗教と神を信じ、人生を疑わず楽観的・・・天国を約束されているとでも言うように・・・
とオカピーさんが、おっしゃられていることから、
むしろ騎士たちの死は、神の導きであるとの、ある意味ベルイマンの逆説であったことに気づかされましたよ。
本来なら虚無的になる、すなわち神の不在を痛感する結末に、神による救済を比喩したのだと理解することができたように思います。
では、また。
スウェーデンの先輩監督にヴィクトル・シェストレームという名監督がいて、ベルイマンは後に「野いちご」の主役に起用していますが、この監督名作「霊魂の不滅」(1921年)は想像するにかなりドイツ表現主義的であったはずで、この時代のベルイマン映画の神秘的な映像は「霊魂の不滅」や同じ映画先進国だったドイツ怪奇映画の影響を正確に伝承するものと言えると思います。
14世紀は十字軍が目的を失い、黒死病が流行し、100年戦争が始まった、宗教が下手をすると力を失いかねなかった世紀ですから、ベルイマンのテーマに合致したんでしょうね。
恐らく逆説でしょうね。
ベルイマンは「処女の泉」でも奇跡を示して終わりましたし、宗教という以上に、神については疑惑の対象ではあっても否定の対象ではなかったのでしょう。
この次の作品はいよいよ「野いちご」です。難儀しそうです(笑)。
いえいえ、こちらこそお粗末で、恐縮です。
物語をトレースするのは難しくないですが、その奥にあるものを正確に掴むのは容易ではないですよね。
かと言ってそれに恐れをなしてベルイマンを観ないのは一生の損。未見の方には、とにかく映像に触れることから始めて戴きたいものです。
やはり解らないですよ。^^;
しかし、難解というイメージだけでベルイマンを見ないのは損だなと思わせる代表的な一本ですね。
美しい作品です。