映画評「出口のない海」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2006年日本映画 監督・佐々部清
ネタバレあり
「チルソクの夏」で佐々部清のタッチに惚れた。次に観た「半落ち」もぐっと来た。「四日間の奇蹟」にはこの監督らしい優しさはあったが若干物足りない思いを抱き、本作に至る。
原作は、太平洋戦争末期に使用された海軍の特攻兵器である人間魚雷<回天>をテーマにした横山秀夫の同名小説。山田洋次と冨川元文が共同で脚色している。
昭和20(1945)年、香川照之を艦長とする潜水艦に<回天>に搭乗する特攻兵の一人、甲子園の優勝投手にして明大野球部出身の市川海老蔵が、出撃を前に様々なことを回想する。父と母と妹のこと、別れて来た恋人・上野樹里のこと、大学時代の最後の日々、そして入隊後の悪戦苦闘。
回想場面は物語の陽の部分を構成する。無限の青空で白球を追っていた若者が海中で閉じ込められて最期を迎えようとしているという皮肉なコントラストがある。
「戦争映画としては奇麗すぎる」という固定観念に満ちた批判を読んだ。しかし、作者が描きたかったのは必ずしも戦争の真実ではない。戦争の醜さはこれまで何千という作品が描いてきたではないか。広大な大地と狭い魚雷というコントラストの中に青春を散らしていった若者を描こうとした本作が定石を敢えて繰り返す必要性は全くない。そんなものは昔観た戦争映画で補完すれば良いのである。軍人にしても全てが「人間の条件」や「戦争と人間」のような極悪非道な人間ばかりではなかろう。
しかし、その狙い故に薄味になったことは否めない。佐々部監督には描写や繋ぎに山田洋次ほど絶妙な上手さがまだないので、その当り前の部分が見ごたえになって来ないのである。最後の<回天>記念館の場面は蛇足のような印象を与えてしまっているが、演出次第では前段を損なわずもっと心に迫ったと思う。
生き残った年下の戦友は60年後、記念館の出口から、「死ぬことで<回天>の存在を後世に知らしめる」と言った後事故死した主人公の魂の残る海にボールを投げる。最後の・・・平和への祈りを込めた・・・戦友とのキャッチボールなのである。実際のキャッチボールをした最後の場面ときちんとリンクした幕切れであり、年老いた戦友から主人公へ投げられたボールは実は作者が我々に向けて投げたボールでもある。
劇中で歌われた「ああ紅の血は燃ゆる」は入隊前の1943年には歌われていないそうだが、映画の内容に直接に影響がなければ時代考証の僅かな誤謬などは何の問題でもない。それに比べ、長髪の下級軍人の出てくるTVの戦争ドラマが出演するアイドルに気を使っていかにいい加減な作り方をしていることか。最近の戦争ものとしては言葉使いを始め、かなりきちんと作られた作品ではないかと思う。映画初出演となる歌舞伎役者の市川海老蔵の起用は、そうした輪郭のはっきりした口跡に効果を残している。
惜しむらくは、全編に渡り録音が不調により音声がこもりがちで聞き取れなかった台詞が少なくない。
特攻は狂気に満ち、聖戦で死ねば天国に行けると信じているイスラム原理主義テロリストの自爆にそっくりである。アメリカ人にとって理解不能のその精神こそ怖かったと思う。しかし、特攻隊員の全てがテロリストのように恐怖を覚えなかったわけではあるまい。寧ろ自然な人間的感情の発露に本作の価値がある。
2006年日本映画 監督・佐々部清
ネタバレあり
「チルソクの夏」で佐々部清のタッチに惚れた。次に観た「半落ち」もぐっと来た。「四日間の奇蹟」にはこの監督らしい優しさはあったが若干物足りない思いを抱き、本作に至る。
原作は、太平洋戦争末期に使用された海軍の特攻兵器である人間魚雷<回天>をテーマにした横山秀夫の同名小説。山田洋次と冨川元文が共同で脚色している。
昭和20(1945)年、香川照之を艦長とする潜水艦に<回天>に搭乗する特攻兵の一人、甲子園の優勝投手にして明大野球部出身の市川海老蔵が、出撃を前に様々なことを回想する。父と母と妹のこと、別れて来た恋人・上野樹里のこと、大学時代の最後の日々、そして入隊後の悪戦苦闘。
回想場面は物語の陽の部分を構成する。無限の青空で白球を追っていた若者が海中で閉じ込められて最期を迎えようとしているという皮肉なコントラストがある。
「戦争映画としては奇麗すぎる」という固定観念に満ちた批判を読んだ。しかし、作者が描きたかったのは必ずしも戦争の真実ではない。戦争の醜さはこれまで何千という作品が描いてきたではないか。広大な大地と狭い魚雷というコントラストの中に青春を散らしていった若者を描こうとした本作が定石を敢えて繰り返す必要性は全くない。そんなものは昔観た戦争映画で補完すれば良いのである。軍人にしても全てが「人間の条件」や「戦争と人間」のような極悪非道な人間ばかりではなかろう。
しかし、その狙い故に薄味になったことは否めない。佐々部監督には描写や繋ぎに山田洋次ほど絶妙な上手さがまだないので、その当り前の部分が見ごたえになって来ないのである。最後の<回天>記念館の場面は蛇足のような印象を与えてしまっているが、演出次第では前段を損なわずもっと心に迫ったと思う。
生き残った年下の戦友は60年後、記念館の出口から、「死ぬことで<回天>の存在を後世に知らしめる」と言った後事故死した主人公の魂の残る海にボールを投げる。最後の・・・平和への祈りを込めた・・・戦友とのキャッチボールなのである。実際のキャッチボールをした最後の場面ときちんとリンクした幕切れであり、年老いた戦友から主人公へ投げられたボールは実は作者が我々に向けて投げたボールでもある。
劇中で歌われた「ああ紅の血は燃ゆる」は入隊前の1943年には歌われていないそうだが、映画の内容に直接に影響がなければ時代考証の僅かな誤謬などは何の問題でもない。それに比べ、長髪の下級軍人の出てくるTVの戦争ドラマが出演するアイドルに気を使っていかにいい加減な作り方をしていることか。最近の戦争ものとしては言葉使いを始め、かなりきちんと作られた作品ではないかと思う。映画初出演となる歌舞伎役者の市川海老蔵の起用は、そうした輪郭のはっきりした口跡に効果を残している。
惜しむらくは、全編に渡り録音が不調により音声がこもりがちで聞き取れなかった台詞が少なくない。
特攻は狂気に満ち、聖戦で死ねば天国に行けると信じているイスラム原理主義テロリストの自爆にそっくりである。アメリカ人にとって理解不能のその精神こそ怖かったと思う。しかし、特攻隊員の全てがテロリストのように恐怖を覚えなかったわけではあるまい。寧ろ自然な人間的感情の発露に本作の価値がある。
この記事へのコメント
そう、「自爆」ですね。でも、宗教的聖戦という観念より、やはり、故郷や、家族のために、という自己犠牲なんでしょうね。
思いますに、天皇をたてに<国を守る>を大義名分に一種の洗脳があったのは確かでしょう。僕はこれは一種の宗教と思います。
実際には国家は国民を守るために存在する。その国家を国民が守るというのは一種のループで、訳が解りませんね。
山田洋次という人は保守的と思われていますが、松竹に入った頃は小津安二郎が大嫌いだったという反骨の人ですし、実は定石を外す作品が多いですよね。
寅さんが海外へ行ってもカルチャー・ギャップを描かない。他の喜劇作家なら必ずギャップという定石で笑いを取ろうとする。そういった具合です。
今さら大金をかけて戦闘場面を大々的に描いても仕方がないでしょうし、ドキュメント・フィルムを使うのは野暮というもの。声高に反戦を訴える作品が山とあるのに今さらそんなものを作っても仕方がないという発想でしょう。
しかし、惜しむらくは佐々部監督はまだその脚本を味わい深く映像化できる境地に達していない印象です。好きな監督だけに敢えて厳しく言いますが、もっと勉強して山田洋次のような上手い監督になってほしいと思う次第。