映画評「羅生門」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1950年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
偶然にも本作がNHK-BS2で放映された日の昼間、芥川龍之介が「羅生門」と「藪の中」の材を求めた二作が入っている「今昔物語 巻第二十九」を読んだ。
本作はその「藪の中」を橋本忍が脚本化、黒澤明が映像化した作品である、なんてことは映画ファンなら既に御存じであろうが、「七人の侍」と「用心棒」と並んで世界の映画界に大きな影響を与えた黒澤映画の一本で、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞作。
真相がはっきりしない状態を【藪の中】と言うようになったのも芥川の原作のせいだが、この映画版からはアメリカで「暴行」という忠実なリメイクのほか、「魅惑の巴里」や「戦火の勇気」のように直接アイデアを戴いた亜流作品が数多く生み出されている。
別の形で影響が現れているのは「パルプ・フィクション」で、あの作品の影響力ももの凄いから、芸術のエッセンスが引き継がれていくのがこれほどはっきり解る系譜も珍しいのではあるまいか。但し、この趣向自体は「羅生門」が初めてではない。
平安時代、森の中で侍(森雅之)が刺殺体として発見され検非違使の庁にて取り調べが行われるが、加害者と思われる盗賊(三船敏郎)、被害者の妻(京マチ子)、巫女の口を借りて語られる被害者の証言が尽く食い違い、雨宿りをしている発見者のそま売り(志村喬)や目撃者の旅法師(千秋実)の頭を悩ませる。
そこへ下人(上田吉二郎)が加わり、そま売りが新たな話をするものだから、益々真相が解らなくなる。
盗賊は自分が殺したと言い、妻は意識朦朧として前後は解らないと言い、被害者は自決したと言うのだが、彼らの心理の奥に人間のエゴが垣間見え、人間は弱く醜悪な生き物であるいう主題が浮かび上がってくる。海外ではそこから敷衍して一つの事実が角度によって見え方が違ってくると理解されることが多く、そこに人気の秘密があるのではないかと思う。
僕自身は15歳の時に初めて観て完全には解らなかったがすっかり陶酔、それまで洋画しか見なかったのが邦画も観るようになった。日本映画への思いを刷新した記念すべき作品である。
ただ、冷静に観てみると、微妙な差が面白味を生むとは言え、大同小異の場面が続くのでそま売りの回想場面辺りになると些か飽きてくる。
太陽光を鏡で反射させて森で撮影した場面では圧倒的な野趣が、また、そま売りと旅法師の二人を右奥に置いて証言者を正面に据えて語らせる場面では構図の美しさが得点を大いに稼いでいるのでマイナス印象はそれほど大きくないが、絵づらに変化が少ないという弱点は否定しきれないであろう。
検非違使庁の場面では検非違使は一切現れず口も利かないという省略が効果を上げて実に鮮やか、墨汁を混ぜた大雨が降りかかる壮大な羅生門のセットは最初と最後に雄姿を見せ圧倒する。黒澤が殆ど任せたという名人・宮川一夫による撮影は最初から最後まで強烈である。
撮影と同じくらい素晴らしいのが配役で、色々と変幻する女性を巧みに演じた京マチ子の幽玄な美しさや森雅之の雅な色気が我々を平安時代にタイムスリップさせる。海外では絶賛され日本では批判も多い三船敏郎の大げさな表現も僕のお気に入りと言わねばならない。
1950年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
偶然にも本作がNHK-BS2で放映された日の昼間、芥川龍之介が「羅生門」と「藪の中」の材を求めた二作が入っている「今昔物語 巻第二十九」を読んだ。
本作はその「藪の中」を橋本忍が脚本化、黒澤明が映像化した作品である、なんてことは映画ファンなら既に御存じであろうが、「七人の侍」と「用心棒」と並んで世界の映画界に大きな影響を与えた黒澤映画の一本で、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞作。
真相がはっきりしない状態を【藪の中】と言うようになったのも芥川の原作のせいだが、この映画版からはアメリカで「暴行」という忠実なリメイクのほか、「魅惑の巴里」や「戦火の勇気」のように直接アイデアを戴いた亜流作品が数多く生み出されている。
別の形で影響が現れているのは「パルプ・フィクション」で、あの作品の影響力ももの凄いから、芸術のエッセンスが引き継がれていくのがこれほどはっきり解る系譜も珍しいのではあるまいか。但し、この趣向自体は「羅生門」が初めてではない。
平安時代、森の中で侍(森雅之)が刺殺体として発見され検非違使の庁にて取り調べが行われるが、加害者と思われる盗賊(三船敏郎)、被害者の妻(京マチ子)、巫女の口を借りて語られる被害者の証言が尽く食い違い、雨宿りをしている発見者のそま売り(志村喬)や目撃者の旅法師(千秋実)の頭を悩ませる。
そこへ下人(上田吉二郎)が加わり、そま売りが新たな話をするものだから、益々真相が解らなくなる。
盗賊は自分が殺したと言い、妻は意識朦朧として前後は解らないと言い、被害者は自決したと言うのだが、彼らの心理の奥に人間のエゴが垣間見え、人間は弱く醜悪な生き物であるいう主題が浮かび上がってくる。海外ではそこから敷衍して一つの事実が角度によって見え方が違ってくると理解されることが多く、そこに人気の秘密があるのではないかと思う。
僕自身は15歳の時に初めて観て完全には解らなかったがすっかり陶酔、それまで洋画しか見なかったのが邦画も観るようになった。日本映画への思いを刷新した記念すべき作品である。
ただ、冷静に観てみると、微妙な差が面白味を生むとは言え、大同小異の場面が続くのでそま売りの回想場面辺りになると些か飽きてくる。
太陽光を鏡で反射させて森で撮影した場面では圧倒的な野趣が、また、そま売りと旅法師の二人を右奥に置いて証言者を正面に据えて語らせる場面では構図の美しさが得点を大いに稼いでいるのでマイナス印象はそれほど大きくないが、絵づらに変化が少ないという弱点は否定しきれないであろう。
検非違使庁の場面では検非違使は一切現れず口も利かないという省略が効果を上げて実に鮮やか、墨汁を混ぜた大雨が降りかかる壮大な羅生門のセットは最初と最後に雄姿を見せ圧倒する。黒澤が殆ど任せたという名人・宮川一夫による撮影は最初から最後まで強烈である。
撮影と同じくらい素晴らしいのが配役で、色々と変幻する女性を巧みに演じた京マチ子の幽玄な美しさや森雅之の雅な色気が我々を平安時代にタイムスリップさせる。海外では絶賛され日本では批判も多い三船敏郎の大げさな表現も僕のお気に入りと言わねばならない。
この記事へのコメント
それにしても、影響を受けた作品が多いことに驚きました。同じ事実でもまったく違って受け取られるという人間心理の奇妙さに、あの妖しい映像が相まってのことなんでしょうね。
僕は、三船敏郎の証言と志村喬の回想の内容がかなり類似していて、映画としてはどうなのかな、と思うところでありました。
ストーリーと映像的興味にかかわる部分ですが、世界的名作につき、大きな減点と言えば減点ですかね。^^
>影響
「パルプ・フィクション」はアングルによって見え方が変わってくるというのを地で行った作品で、この作品以降時系列をバラバラにする作品と登場人物が本筋に大して関係のないセリフをべらべら喋る作品が急増したのでした。^^;