映画評「ダウン・イン・ザ・バレー」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2005年アメリカ映画 監督デーヴィッド・ジェーコブスン
ネタバレあり
デーヴィッド・ジェーコブスンなる監督の日本初公開作。
ロサンゼルス郊外にあるサンフェルナンド・バレーに厳格な刑務官デーヴィッド・モースと自閉症気味の弟ローリー・カルキンと流されるように暮らしている17歳の少女エヴァン・レイチェル・ウッドが、ガソリン・スタンドで働くカウボーイ風の青年エドワード・ノートンと知り合って恋に落ちる。
という序盤は、朴訥なカントリー・ソングに乗って進む爽やかなムードが1970年前後のニューシネマにも似て、頗る良い感じである。
ところが、二人で出かけた牧場で馬を乗り回すうちに彼が知り合いと称する牧場主ブルース・ダーンに銃を突き付けられ警察の取り調べを受ける辺りから、この純朴そうな青年に些かうさん臭い部分が出、映画的にも首を傾げるところが現れる。
父親に交際を止められて逢えない少女の代りに弟を連れ出して射撃を教えた彼に対する彼女の信頼も揺らぎ出す。やがてどうしても駆け落ちしない少女を撃ってしまった彼は自らを撃ち全ての犯行をモースになすり付けるよう画策するが、カルキン少年を道連れにした逃避行先を嗅ぎ付けられてモースに射殺されてしまう。生還した少女は彼の遺灰を丘陵地に撒く。
こうした作品に共感を覚えるには青年の正体がはっきりしないとなかなか難しい。
本作の場合、刑事の言葉から彼が盗難で1年間臭い飯を食らったことだけは確かだが、それ以外のことは青年自身の説明しかない。父親が少年時代に出て行ったという説明は、青年が民家に侵入し「またバレーに暮らす努力をしたが、ここに住む人々は僕にとって人間ではない」という手紙を父親に残しているので、青年が少年時代に家を飛び出し戻ってきたというのが事実らしい。
一人で西部劇ごっこに興じるカウボーイ好きで、射撃の名手。これは終盤の伏線になっているが、モースに罪をなすり付けるなど悪辣なところがあり、カルキン少年を連れて行っても人質にするわけではなし、本気で少年の生活を変える気があるとも思えず、極めて曖昧。
少女の心情もよく解らないが、束縛の強い父子家庭から逃れたい乙女らしい夢がたまたま時代錯誤の非現実的な生活を送る青年にピントが合ってしまったのだろう。
といった具合にムードが優先し、そのムードも後半は相当怪しくなるものの、情緒的に捨てがたい味があり、エヴァンの透明な美しさも印象に残るので、★一つ分おまけ。ノートンは適役だが、ややとうが立ちすぎている。
サンフェルナンド・バレーにはワーナー・ブラザーズのスタジオがある。黄昏たる西部劇にオマージュを捧げた作品でもありますかな。
2005年アメリカ映画 監督デーヴィッド・ジェーコブスン
ネタバレあり
デーヴィッド・ジェーコブスンなる監督の日本初公開作。
ロサンゼルス郊外にあるサンフェルナンド・バレーに厳格な刑務官デーヴィッド・モースと自閉症気味の弟ローリー・カルキンと流されるように暮らしている17歳の少女エヴァン・レイチェル・ウッドが、ガソリン・スタンドで働くカウボーイ風の青年エドワード・ノートンと知り合って恋に落ちる。
という序盤は、朴訥なカントリー・ソングに乗って進む爽やかなムードが1970年前後のニューシネマにも似て、頗る良い感じである。
ところが、二人で出かけた牧場で馬を乗り回すうちに彼が知り合いと称する牧場主ブルース・ダーンに銃を突き付けられ警察の取り調べを受ける辺りから、この純朴そうな青年に些かうさん臭い部分が出、映画的にも首を傾げるところが現れる。
父親に交際を止められて逢えない少女の代りに弟を連れ出して射撃を教えた彼に対する彼女の信頼も揺らぎ出す。やがてどうしても駆け落ちしない少女を撃ってしまった彼は自らを撃ち全ての犯行をモースになすり付けるよう画策するが、カルキン少年を道連れにした逃避行先を嗅ぎ付けられてモースに射殺されてしまう。生還した少女は彼の遺灰を丘陵地に撒く。
こうした作品に共感を覚えるには青年の正体がはっきりしないとなかなか難しい。
本作の場合、刑事の言葉から彼が盗難で1年間臭い飯を食らったことだけは確かだが、それ以外のことは青年自身の説明しかない。父親が少年時代に出て行ったという説明は、青年が民家に侵入し「またバレーに暮らす努力をしたが、ここに住む人々は僕にとって人間ではない」という手紙を父親に残しているので、青年が少年時代に家を飛び出し戻ってきたというのが事実らしい。
一人で西部劇ごっこに興じるカウボーイ好きで、射撃の名手。これは終盤の伏線になっているが、モースに罪をなすり付けるなど悪辣なところがあり、カルキン少年を連れて行っても人質にするわけではなし、本気で少年の生活を変える気があるとも思えず、極めて曖昧。
少女の心情もよく解らないが、束縛の強い父子家庭から逃れたい乙女らしい夢がたまたま時代錯誤の非現実的な生活を送る青年にピントが合ってしまったのだろう。
といった具合にムードが優先し、そのムードも後半は相当怪しくなるものの、情緒的に捨てがたい味があり、エヴァンの透明な美しさも印象に残るので、★一つ分おまけ。ノートンは適役だが、ややとうが立ちすぎている。
サンフェルナンド・バレーにはワーナー・ブラザーズのスタジオがある。黄昏たる西部劇にオマージュを捧げた作品でもありますかな。
この記事へのコメント
>ノートンは適役だが、ややとうが立ちすぎている。
その前の「僕たちのアナ・バナナ」もどうもピンと来なくって。
スパイク・リーの「25時」は私的には作品はなかなかの評価だったんですけど、ノートンについては?でした。それよりもシーモア・ホフマンやバリー・ペッパー、アナ・パキンが冴えていた。「真実の行方」が衝撃的だったし、強烈なキャラクターとか、屈折した役では演技力を見せるけど、ごくありふれた普通の役となるとどうなんでしょうね。彼も40歳。これからが正念場なんでしょうね。
本作の出だしのノートンは、「荒馬と女」のモンゴメリー・クリフトと、「サイコ」になる前のアンソニー・パーキンズを合せて掻き混ぜ、ジェームズ・ディーンを調味料として加えた影のある純朴さがありましたが、どうもパーキンズのサイコの部分が途中から出てしまったような印象がありましたね。
>曖昧
本当の狙いは結局解らなかったなあ。^^;
>25時
からS・リーは少し普遍的な題材に目を向けるようになった気がしています。その点といっそう厳しくなった描写を買いましたが、ノートンについてはさほど印象に残らなかったというのが実際。
>40歳
青年役は難しいですよね。
性格俳優は年を重ねると脇役が多くないますから、そちらに活路を見出しますか?