映画評「姿三四郎」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1943年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
黒澤明監督第一作としてのみ評価される傾向がある作品だが、とんでもない、黒澤作品の中でも最も映画的な躍動感に富んでいると言っても良い傑作である。
太平洋戦争もたけなわの1943年に作られ同年完全版が初公開された後、残念ながら翌44年に検閲で20分ほどカット、結局欠損部分のネガが発見されないまま字幕で補う形で戦後リバイバルされ、今日に至っている。やはり、大きく飛んでいる二ヶ所はバランスが悪くなっているが、字幕が追加されている為に話の流れが損なわれていないのは有難い。
原作は柔道家・嘉納治五郎が開いた講道館をモデルに富田常雄が書いた同名小説で、何度も映像化されているので日本人にはお馴染のお話。因みに、僕は1970年に放映されたTVシリーズで堪能、高城丈二が演じた檜垣源之助の名前は頭に染み込んでいる。
明治15年頃、修道館創始者・矢野正五郎(大河内伝次郎)が柔道の進出を面白く思わぬ柔術一門の襲撃を受けながら軽々とやっつけるのを見た三四郎(藤田進)は早速入門、実力は抜群でも負けず嫌いの性格が玉に瑕。技術より人格形成を重んずる修道館柔道には合致しないのだ。
そんな彼も池の中に飛び込んで蓮を見るうちに人間的に目覚めるのだが、この有名な場面と三四郎と闘うことになった村井半助(志村喬)の娘・小夜(轟夕起子)が父の武運を祈る姿に打たれる場面と組み合され、「美に勝てる物なし」というテーマが鮮やかに形成されている。
この時点で三四郎は彼女が村井の娘であることを知らず祈る美しさに純粋に感動したのであり、雨のなか鼻緒をすげるのをきっかけに好意を抱き合うようになってもまだ互いにその事実は知らない・・・無心もまた映画のテーマである。鼻緒をすげる場面や、それに続く二人が石段ですれ違うショットの積み重ねが大変美しい。
結局村井に勝って罪の意識に苦しめられる三四郎に対して、村井の弟子・檜垣源之助(月形龍之介)が果し状を叩きつけ、これまた有名な右京が原の決闘と相成る。
傾斜のあるだだっ広い草原で行われる決闘はコンパクトで切れ味抜群。壮大なロケ景観を生かす為にロングショットを交えダイナミックに構成しているのはさすがの才覚と言うべし。
ということでアクションについて。まず矢野が柔術派の門弟たちを次々と川へ投げ込む場面の格好良さ。
次に、中盤の試合で三四郎が得意技“山嵐”で門馬三郎(小杉義男)を投げ付ける場面のカット割りの素晴らしさ。門馬が投げられる。空中の様子を特撮で1秒足らず捉え、見物人の様子をカットインして120度ほどゆっくりとパンしていくと隅に倒れている門馬がフレームイン、やがて羽目板への衝撃で上に嵌められていた明かり障子が落ちて来るのをスローで捉える。鳥肌が立つねえ。
村井が負ける場面ではズームアップを使わず同じアングルのショットをサイズを変えて重ねて彼の負けを強調するが、他にも幾つかこの手法を使っている。このように対象を強調したり、暗示・象徴的に捉えるショットが多い。例えば、路地に残された三四郎の下駄が川に落ちて下っていく変遷は時間経過を示し、同時に世の荒波に揉まれ流転する人生を暗示する。
といった次第で、僕にはメッセージ性が強くなった戦後作品よりずっと映画的という気がするのだ。
音声は聞き取り易いとは言えないものの、15年も後の悪名高い「蜘蛛巣城」よりは聞きやすい。
配役では藤田進の木訥な感じが良いが、轟夕起子が後のイメージに比べると大分ほっそりして美しい。
1943年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
黒澤明監督第一作としてのみ評価される傾向がある作品だが、とんでもない、黒澤作品の中でも最も映画的な躍動感に富んでいると言っても良い傑作である。
太平洋戦争もたけなわの1943年に作られ同年完全版が初公開された後、残念ながら翌44年に検閲で20分ほどカット、結局欠損部分のネガが発見されないまま字幕で補う形で戦後リバイバルされ、今日に至っている。やはり、大きく飛んでいる二ヶ所はバランスが悪くなっているが、字幕が追加されている為に話の流れが損なわれていないのは有難い。
原作は柔道家・嘉納治五郎が開いた講道館をモデルに富田常雄が書いた同名小説で、何度も映像化されているので日本人にはお馴染のお話。因みに、僕は1970年に放映されたTVシリーズで堪能、高城丈二が演じた檜垣源之助の名前は頭に染み込んでいる。
明治15年頃、修道館創始者・矢野正五郎(大河内伝次郎)が柔道の進出を面白く思わぬ柔術一門の襲撃を受けながら軽々とやっつけるのを見た三四郎(藤田進)は早速入門、実力は抜群でも負けず嫌いの性格が玉に瑕。技術より人格形成を重んずる修道館柔道には合致しないのだ。
そんな彼も池の中に飛び込んで蓮を見るうちに人間的に目覚めるのだが、この有名な場面と三四郎と闘うことになった村井半助(志村喬)の娘・小夜(轟夕起子)が父の武運を祈る姿に打たれる場面と組み合され、「美に勝てる物なし」というテーマが鮮やかに形成されている。
この時点で三四郎は彼女が村井の娘であることを知らず祈る美しさに純粋に感動したのであり、雨のなか鼻緒をすげるのをきっかけに好意を抱き合うようになってもまだ互いにその事実は知らない・・・無心もまた映画のテーマである。鼻緒をすげる場面や、それに続く二人が石段ですれ違うショットの積み重ねが大変美しい。
結局村井に勝って罪の意識に苦しめられる三四郎に対して、村井の弟子・檜垣源之助(月形龍之介)が果し状を叩きつけ、これまた有名な右京が原の決闘と相成る。
傾斜のあるだだっ広い草原で行われる決闘はコンパクトで切れ味抜群。壮大なロケ景観を生かす為にロングショットを交えダイナミックに構成しているのはさすがの才覚と言うべし。
ということでアクションについて。まず矢野が柔術派の門弟たちを次々と川へ投げ込む場面の格好良さ。
次に、中盤の試合で三四郎が得意技“山嵐”で門馬三郎(小杉義男)を投げ付ける場面のカット割りの素晴らしさ。門馬が投げられる。空中の様子を特撮で1秒足らず捉え、見物人の様子をカットインして120度ほどゆっくりとパンしていくと隅に倒れている門馬がフレームイン、やがて羽目板への衝撃で上に嵌められていた明かり障子が落ちて来るのをスローで捉える。鳥肌が立つねえ。
村井が負ける場面ではズームアップを使わず同じアングルのショットをサイズを変えて重ねて彼の負けを強調するが、他にも幾つかこの手法を使っている。このように対象を強調したり、暗示・象徴的に捉えるショットが多い。例えば、路地に残された三四郎の下駄が川に落ちて下っていく変遷は時間経過を示し、同時に世の荒波に揉まれ流転する人生を暗示する。
といった次第で、僕にはメッセージ性が強くなった戦後作品よりずっと映画的という気がするのだ。
音声は聞き取り易いとは言えないものの、15年も後の悪名高い「蜘蛛巣城」よりは聞きやすい。
配役では藤田進の木訥な感じが良いが、轟夕起子が後のイメージに比べると大分ほっそりして美しい。
この記事へのコメント
黒澤作品というとどうも敷居が高いと敬遠する方もいるでしょうが、実は娯楽作品としても出来栄えがかなり良いですね。
まあ、説教臭いところを煙たがる方も多いのでしょうが、若い方で、特に映画ファンを名乗ると言うのなら、黒澤・小津・溝口作品は最低この中から10本以上(つまり10x3人分)は観るべきでしょうね。
祝!トムさん復帰!ではまた!
おおっ、返事が遅れておりました。すみません。
>黒澤作品というとどうも敷居が高いと
特に女性が多いんですよね。
しかし、先入観を持ってはいけません。
「生きる」などは女性ファンが観てもぐっと来るのでは?
>説教臭い
確かにそういうところもあります。
僕が黒沢作品に文句を付けるとしたら、それより<くどい>ことです。
「生きる」にしても最後がくどすぎるくらいくどい。
「用心棒」「椿三十郎」はその辺りもクリアしていますね。
これは私も同意見です!「七人の侍」や「用心棒」同様に、これも純粋にエンターテインメントとして楽しめました。そして、デビュー作でいきなりこの完成度には驚きました。さすが巨匠!ちなみに「生きる」は小さい頃に観て号泣しました。それっきり観てないので、今度の放送を楽しみにしています。
元来シェークスピアやドストエフスキーがお好きな方ですから、自ずとそういう方向へ向かう運命だったのでしょうが、ある意味ジレンマを抱えた作家ですね。
黒澤明は全作ビデオで持っていますが、今回の放映でDVDも作っております。が、「静かなる決闘」で失敗。残念だなあ。もう一回やってくれないだろうなあ。
>「生きる」
僕も感激した口ですが、
4回目の今回は厳しく観ようと思っています。^^