映画評「あにいもうと」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1953年日本映画 監督・成瀬巳喜男
ネタバレあり

室生犀星の同名短編小説の二度目の映画化。

年下の大学生(船越英二)の子を孕んだもん(京マチ子)が家に戻ってくるが、人夫頭として長い間指揮を取って来た一本気の父親(山本礼三郎)は面白くない。それでも、流産したもんが再びどこかへ消えている時にお詫びにやって来た学生を悶着なしに帰す。

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それを観ていたぐうたらな兄・伊之吉(森雅之)は学生の後をつけて暴力を振るう。
 小説でも本作でもここが最初のハイライトで、兄の妹に対する深い愛情が滲み出る名場面となっている。蛇蠍に対するが如く妹に酷い憎まれ口を叩くのは強くて深い愛情の裏返しである。

原作は極めて短く90分前後の映画にするのは難しいので、脚色した水木洋子は次女・さん(久我美子)の出番を増やしている。どちらかと言えば、煮え切らない恋人(堀雄二)に振り回されるさんは狂言回し的な扱いで、主題には直接かかわって来ないが、この類の陰気な物語の中で案外重要な清涼剤の役目も負って十二分の効果を上げていると言って良い。

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原作同様映画でも二つ目のハイライトはもんと伊之吉との取っ組み合いにまで発展する猛烈な口論である。しかし、あろうことか、この重要な口論に一か所だけではあるがNHKは手を加えた。
 黒澤明では一切の変更を加えないのに、同じくらい重要な監督である成瀬巳喜男や木下恵介の作品では差別して平気で音声を消し、「最小限の音声上の処理」なんて尤もらしい字幕をつけて幕を引く。差別用語の取り扱いで監督や作品を差別するのは、文字通り自家撞着である。
 言葉は時代を反映するものだから、製作された時代、背景となった時代の言葉をいじるのは甚だしく芸術性を損なうものであり、許すべからず。現にもんの憤りが減殺されてしまったではないか。人権意識が高まり、必要以上の規制や自粛が行われ、世の中は益々窮屈になるばかりだ。

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閑話休題。
 原作は口論で終わるが、本作はさんと歩くもんにこんなことを言わせている、「あんな顔でも時々逢いたくなるからね」と。これはもんの兄に対する愛情表現に他ならない。兄と妹の憎しみが強い愛情故に生まれていることを両者の間でバランスを取って描いているのである。

成瀬監督らしく季節色を織り込み兄妹愛の機微を情感豊かに浮かび上がらせた名編と言うべし。

悪口(あっこう)の中に愛情が籠っていた時代。今は、慇懃無礼の時代。昭和は遠くなりにけり。

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