映画評「ゲド戦記」
☆☆★(5点/10点満点中)
2006年日本映画 監督・宮崎五朗
ネタバレあり
原作となったアーシュラ・K・ル・グウィンの同名大河小説は「ナルニア物語」「指輪物語」と並ぶ三大ファンタジー小説だそうだが、全く知らない。それ以上の話題が、宮崎駿の息子の五朗氏の最初の映画作品ということである。
君主である父を殺した王子アレンが、自分の影を恐れて放浪の旅をしている間に、大賢人と言われる最高峰の魔法使いハイタカ(ゲド)と出会って一緒に旅を続け、彼が命を救った女性の家に辿り着き、農作業を手伝う。
永遠の生を願う魔法使いクモに主婦を人質に取られ呼び出されたハイタカはクモの城では無力になるのであえなく捕縛され、主婦の可愛がっている孤児の少女テルーが先に捕えられてクモの言いなりになっているアレンに大事な宝剣を届ける為城に侵入、宝剣を得たアレンは彼女の力強い言葉と共に蘇る。
伝奇ものには多かれ少なかれ似たところがあるが、竜と師匠的人物が出てくる作品では先日観た実写映画「エラゴン」より面白い。或いは、駿氏の「風の谷のナウシカ」にも似ていると思ったら、氏は本原作よりあの秀作の着想を得たと聞いた。
しかし、竜が出てくる作品と言えば第一に思い出すのは駿氏の「千と千尋の神隠し」で、どちらにおいても名前が重要な要素として扱われているのは偶然ではあるまい。前述作ではヒロインは本名を奪われてしまうが、こちらでは魔法使いに操られない為に偽名を使っているという設定。アレンもテルーもハイタカも偽名である。
日本の昔の女性が匿名なのは悪霊から身を守るという習慣だったと聞いたことがあるし、洋の東西を問わずそういう考えもあるのかと感興が湧くが、困ったことに映画を見ているだけでは名前と魔力との関係など解りにくい。
これを筆頭に不明な箇所が幾つもあり、多くの方が仰るように、原作を読んでいることを前提にして作ったとしか思えず、不親切極まりない。
原作云々という意見には概して賛成しがたいことが多いのだが、本作に限っては全くもってその通り。原作を読んでいない人が多い為に、かかる意見が主流を占めているのであろう。
説明不足とは別に流れも悪くて、序盤王子が父王を殺し旅に出るタイトル前後の繋がりは間が抜けているし、人と竜が一体であったという説明が具体性を帯びるのが最終盤というのでは持って回った感じが強い。エクスカリバーと同じように選ばれた者しか抜けない剣も映画の中では大した威力を発揮せず、肩すかしと言うべし。
一方テーマとしては、生と死、光(善)と影(悪)という表裏一体の概念を中心に据えて盛んにメッセージを放っているが、台詞に頼りがちなので印象に残りにくい。しかし、抽象論をこねくりまわしただけの「CASSHERN」よりは実感を伴っている分だけずっと宜しく、「死があるから生が意味を成す」という哲学は昨日の「イーオン・フラックス」と共通する。同趣旨の作品が続く背景には、そう主張しなければならない程、生を大事にしない風潮があるということなのだろう。
絵については駿氏の背景はもっと精細だが、依然スタジオジブリ調ではある。
色々指摘のある吹き替えも概ね好調。尤も僕は、世間とは全く逆の立場で、そもそも声優の明瞭だが硬い台詞回しが好きでないので、一般俳優の起用を歓迎している。
こんなん出ましたゲド。
2006年日本映画 監督・宮崎五朗
ネタバレあり
原作となったアーシュラ・K・ル・グウィンの同名大河小説は「ナルニア物語」「指輪物語」と並ぶ三大ファンタジー小説だそうだが、全く知らない。それ以上の話題が、宮崎駿の息子の五朗氏の最初の映画作品ということである。
君主である父を殺した王子アレンが、自分の影を恐れて放浪の旅をしている間に、大賢人と言われる最高峰の魔法使いハイタカ(ゲド)と出会って一緒に旅を続け、彼が命を救った女性の家に辿り着き、農作業を手伝う。
永遠の生を願う魔法使いクモに主婦を人質に取られ呼び出されたハイタカはクモの城では無力になるのであえなく捕縛され、主婦の可愛がっている孤児の少女テルーが先に捕えられてクモの言いなりになっているアレンに大事な宝剣を届ける為城に侵入、宝剣を得たアレンは彼女の力強い言葉と共に蘇る。
伝奇ものには多かれ少なかれ似たところがあるが、竜と師匠的人物が出てくる作品では先日観た実写映画「エラゴン」より面白い。或いは、駿氏の「風の谷のナウシカ」にも似ていると思ったら、氏は本原作よりあの秀作の着想を得たと聞いた。
しかし、竜が出てくる作品と言えば第一に思い出すのは駿氏の「千と千尋の神隠し」で、どちらにおいても名前が重要な要素として扱われているのは偶然ではあるまい。前述作ではヒロインは本名を奪われてしまうが、こちらでは魔法使いに操られない為に偽名を使っているという設定。アレンもテルーもハイタカも偽名である。
日本の昔の女性が匿名なのは悪霊から身を守るという習慣だったと聞いたことがあるし、洋の東西を問わずそういう考えもあるのかと感興が湧くが、困ったことに映画を見ているだけでは名前と魔力との関係など解りにくい。
これを筆頭に不明な箇所が幾つもあり、多くの方が仰るように、原作を読んでいることを前提にして作ったとしか思えず、不親切極まりない。
原作云々という意見には概して賛成しがたいことが多いのだが、本作に限っては全くもってその通り。原作を読んでいない人が多い為に、かかる意見が主流を占めているのであろう。
説明不足とは別に流れも悪くて、序盤王子が父王を殺し旅に出るタイトル前後の繋がりは間が抜けているし、人と竜が一体であったという説明が具体性を帯びるのが最終盤というのでは持って回った感じが強い。エクスカリバーと同じように選ばれた者しか抜けない剣も映画の中では大した威力を発揮せず、肩すかしと言うべし。
一方テーマとしては、生と死、光(善)と影(悪)という表裏一体の概念を中心に据えて盛んにメッセージを放っているが、台詞に頼りがちなので印象に残りにくい。しかし、抽象論をこねくりまわしただけの「CASSHERN」よりは実感を伴っている分だけずっと宜しく、「死があるから生が意味を成す」という哲学は昨日の「イーオン・フラックス」と共通する。同趣旨の作品が続く背景には、そう主張しなければならない程、生を大事にしない風潮があるということなのだろう。
絵については駿氏の背景はもっと精細だが、依然スタジオジブリ調ではある。
色々指摘のある吹き替えも概ね好調。尤も僕は、世間とは全く逆の立場で、そもそも声優の明瞭だが硬い台詞回しが好きでないので、一般俳優の起用を歓迎している。
こんなん出ましたゲド。
この記事へのコメント
いろいろブログを見ているとこのテーマに気がついている人はほとんどいない。魔法使いのゲドが、魔法を使わずに農作業をしているのもそのためだ。これをつまらないという人は、テーマを理解していないということだろう。また、話の舞台が小さいという批判もあるが、そこでは、世界の均衡を崩す原因の象徴をめぐって心の戦いがあり、世界の縮図のようなものである。
これは当記事へのコメントではなくて、どこかで書いた感想の転載ではないかと思いますが、逆に質問させて下さい。
<傑作という判断について>
仮に、A、B、Cという三人の監督に、全く同じテーマで、大まかなストーリーと登場人物を同じにするという条件で、映画を作らせたとします。
実際に出来上がった三作品を見れば、観終わった後の感動が明らかに違うはずです。
一方で貴殿はテーマが高尚だから傑作と言う。すると、どんなに下手に作ろうとテーマが同じように高尚なのでABCの作品に優劣はつけないのでしょうか?
それは変ではないですか?
仮に原作と全く同じテーマだとしたら、貴殿の賛辞は原作者か監督者のどちらに送られるものなのでしょうか?
トラックバックが張り込めない、というのは時々、あるようです。
私にもよく理由がわからないです。申し訳ないです。
今後もブログ、頑張ってくださいね。私も、もう少し続けたいと思います。
TBについてはブログ間の相性というのがよくあるようですね。
最近ちょっとバテ気味で良い映画評が書けていないという不満が募っていますが、まだまだ大丈夫。
僕の方も応援させて戴きます。
また中盤でテルーが歌う曲も良かったです。
息子には余り興味が湧きませんねえ。
原作は有名らしいですげど(ゲド)。