映画評「蜘蛛巣城」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1957年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
黒澤明第16作は再び時代劇。ウィリアム・シェークスピアの四代悲劇の一つ「マクベス」を戦国時代の日本に舞台を移して翻案した野心作である。
マクベスに相当するのが三船敏郎演ずるところの一の砦の大将・鷲津武時。ある戦国大名の下、二の砦の大将・三木義明(千明実)と共に目下の敵との戦いで功績を上げた彼は北の館(たち)の主に、義明は一の砦の大将に出世する。
それだけなら何ということはないが、城にたどり着く前に二人は老婆の格好をしたもののけ(浪花千栄子)に出会い、そのことを予言されていたから驚くことになる。その予言によれば、武時は城主に、そして義明の息子も城主になるということで、二人の間に緊張感が生まれる。
この辺りまでは、浪花のもののけが日本古典芸能的で昔話の世界を復活させたようなところが面白く印象深い。雨や霧を使ったおどろおどろした雰囲気の醸成も抜群である。
この話を知った鷲津浅茅(山田五十鈴)は主君への忠誠や友情を重んじ現状に満足している夫・武時を焚き付け、北の館を訪れた主君を殺させる。武時にしてもいざ城主になると義明が自分の地位を狙わないかと疑心暗鬼になり暗殺者を送る。
この中盤では、浅茅が暗闇で突然見えなくなるといった、妖気を醸成する演出が幾つか確認できる一方で、山田五十鈴に施されている化粧が能面(女面)のようだったり、全体的に能を意識した所作が生み出す幽玄な様式美が観客を魅了する。衣擦れの音にも注意が払われている。
終盤は「マクベス」お馴染みのハイライトの連続で、死産した浅茅が敵方に攻め込まれて発狂し手の血を落とすそぶりを見せた後、予言通りに森が動いて武時は手下どもの猛烈な弓矢の攻撃に倒れる。
かくして戦国時代の恐怖劇は幕を下ろすわけだが、弓矢には銃器では出てこない残酷性と威圧的な迫力があり、特殊撮影を使わずに実際に一斉に射させた最後の一幕は圧巻と言うべし。三船敏郎の引きつった恐怖演技の中には実際の恐怖も入り混じっていたのではないだろうか。
首が矢に射ぬかれる特殊効果はフィルムの繋ぎ合わせではないので完璧。今回解説の山本晋也氏がそのからくりを教えてくれたが、これぞ手作りの映画の魅力であるとそのアイデアに膝を打った。
また主君や義明の暗殺場面が省かれている為に武時の最期が際立つことも指摘しておきたい。これは他の「マクベス」映画にはない演出である。
騎馬術の見事さ。「隠し砦の三悪人」も凄いがこちらも凄い。撮り方も誠に上手い。
といった次第で、黒澤組はリアリズムを基調に能に準ずる様式的演出を加え、欲望に苛まれる人間の狂気を見事に描き上げた。惜しいことに、怒声の台詞が聞き取れずに状況を理解しにくいところがままあるので、お気に入り度合いに比べ採点は抑え目にせざるを得ない。
1957年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
黒澤明第16作は再び時代劇。ウィリアム・シェークスピアの四代悲劇の一つ「マクベス」を戦国時代の日本に舞台を移して翻案した野心作である。
マクベスに相当するのが三船敏郎演ずるところの一の砦の大将・鷲津武時。ある戦国大名の下、二の砦の大将・三木義明(千明実)と共に目下の敵との戦いで功績を上げた彼は北の館(たち)の主に、義明は一の砦の大将に出世する。
それだけなら何ということはないが、城にたどり着く前に二人は老婆の格好をしたもののけ(浪花千栄子)に出会い、そのことを予言されていたから驚くことになる。その予言によれば、武時は城主に、そして義明の息子も城主になるということで、二人の間に緊張感が生まれる。
この辺りまでは、浪花のもののけが日本古典芸能的で昔話の世界を復活させたようなところが面白く印象深い。雨や霧を使ったおどろおどろした雰囲気の醸成も抜群である。
この話を知った鷲津浅茅(山田五十鈴)は主君への忠誠や友情を重んじ現状に満足している夫・武時を焚き付け、北の館を訪れた主君を殺させる。武時にしてもいざ城主になると義明が自分の地位を狙わないかと疑心暗鬼になり暗殺者を送る。
この中盤では、浅茅が暗闇で突然見えなくなるといった、妖気を醸成する演出が幾つか確認できる一方で、山田五十鈴に施されている化粧が能面(女面)のようだったり、全体的に能を意識した所作が生み出す幽玄な様式美が観客を魅了する。衣擦れの音にも注意が払われている。
終盤は「マクベス」お馴染みのハイライトの連続で、死産した浅茅が敵方に攻め込まれて発狂し手の血を落とすそぶりを見せた後、予言通りに森が動いて武時は手下どもの猛烈な弓矢の攻撃に倒れる。
かくして戦国時代の恐怖劇は幕を下ろすわけだが、弓矢には銃器では出てこない残酷性と威圧的な迫力があり、特殊撮影を使わずに実際に一斉に射させた最後の一幕は圧巻と言うべし。三船敏郎の引きつった恐怖演技の中には実際の恐怖も入り混じっていたのではないだろうか。
首が矢に射ぬかれる特殊効果はフィルムの繋ぎ合わせではないので完璧。今回解説の山本晋也氏がそのからくりを教えてくれたが、これぞ手作りの映画の魅力であるとそのアイデアに膝を打った。
また主君や義明の暗殺場面が省かれている為に武時の最期が際立つことも指摘しておきたい。これは他の「マクベス」映画にはない演出である。
騎馬術の見事さ。「隠し砦の三悪人」も凄いがこちらも凄い。撮り方も誠に上手い。
といった次第で、黒澤組はリアリズムを基調に能に準ずる様式的演出を加え、欲望に苛まれる人間の狂気を見事に描き上げた。惜しいことに、怒声の台詞が聞き取れずに状況を理解しにくいところがままあるので、お気に入り度合いに比べ採点は抑え目にせざるを得ない。
この記事へのコメント
完全に娯楽に徹した「隠し砦の三悪人」に対し
こちらは芸術的な作品でしたね。
それでいて、娯楽性も失ってなかったのが流石ですよね。
山田五十鈴さんが秀逸でした。
最新の技術を使って、音声を聞き取りやすくして欲しいですね。
こちらこそ有難うございます。
>芸術的・・・娯楽性も失っていない
黒澤明という人は昔からそういう志向の人でしたね。晩年の数作品は、一般的な意味で娯楽性が乏しくなったかもしれませんが。
>山田五十鈴
普段から怖い人ですが、本作の迫力は白眉でしたね。
能面のような顔、暗闇に消えるような演出が効果的だったと思います。
>最新の技術を使って
うーん、或いは、このバージョンも僕が最初に観たものより聞き取り易くなっているかもしれません。前は半分くらい聞き取れない感じでしたから。
妖しい雰囲気がお気に入りです。
我が家では書きませんでしたが、衣擦れの音も印象的でしたよね。
首に刺さる矢、私は解説を聞きませんでした。我が家のほうのコメントででもいいので、面倒でありませんでしたら、どうやったのか教えていただけませんか?
先に御記事を読ませて戴きましたが、同工異曲で安心しました。
>妖しい雰囲気
シェークスピアの原作同様に、怪奇色が濃厚な作品ですね。実際にもののけも出てきますし。
衣擦れの音や能面のような顔、さっと消えて現れるような暗闇の演出・・・怖いですねえ。(笑)
>首に刺さる矢
上手く説明できますかどうか、トライしてみましょう。^^
さて、わたしはというと、秋の夜長、黒澤の『蜘蛛巣城』を46型TVで観ました(笑)。
凄い、そして素晴らしい作品ですよね。
特に、この救いのない作品でも黒澤のヒューマニズムは、しっかりと理解出来ました。
他の黒澤作品と異なり、(同系列の『乱』や『影武者』と比べてさえ)徹底して残酷な展開ですけれど、自らの良心に敗したものの末路こそ、浅茅や武時の最期であるのでしょうね。
例え、成功者であっても誰からも祝福されない生き方など、自らを律して良心を失わずに、清貧に生きる尊さに比べたら、虫けら未満であるということが、良くわかります。
主君に忠実で友を大切にしていたら、質素(とはいっても一国一城の主)ではあっても浅茅や武時も幸福な人生であったと思います。
たぶん、あの物の怪は、彼らの負の潜在意識だったんでしょうね。その弱い心に勝てなかった情けない人たちだったんでしょう。
良い作品を鑑賞すると、例え、残酷でショッキングであったとしても心が洗われるような気がしました。
では、また。
ええと、食事に気を使って極力刺激物は取らず、脂質も一日30g(かつ一回10g)を超えないようにしています。薬は暫くは続ける必要があるようで、12月のCTで特に異状がなければ薬から解放されるのではないでしょうかねえ。
シェークスピアの悲劇も、スケールこそ違え、バルザック同様、人間喜劇という印象を残しますよね。人の営みの悲哀を神の視点で観ている。
>彼らの負の潜在意識
そうなんでしょうね。「マクベス」の魔女たちより実存性が希薄な分そういう象徴的な印象が強めらている気がします。
>良い作品を鑑賞すると、例え、残酷でショッキングであったとしても
>心が洗われるような気がしました。
観ているうちに気持ちが引き締まりますよね。
僕は常々「映画は観客に夢を見させるものでなければならない」と申しているのですが、夢というのは所謂ハッピーエンドやファンタジー的な夢ばかりではなく、悪夢や苦い味も含めているわけです。
本作を例にとれば、登場人物の不可思議な人生や愚昧を観て【他山の石】にしたり、呆然として「自分の人生でなくて良かった」と思うのも一種の(逆説的な)夢ではないでしょうか。
>12月のCTで特に異状がなければ・・
そうであることを心から祈っていますよ。
なるほど、人の営みの悲哀を神の視点で観ている、とは。
言い得ていると思います。
わたしが、この作品から欲しい答えのひとつとして、何故、浅茅は、気が触れてしまったのか?ということなのですが、オカピーさんは、どう思います?
>観客に夢を見させるもの・・・
シュエットさんの映画の見方もレス・コメでお聞きしたのですが、いずれにしても映画は人の感性を豊かにしてくれるものなのでしょうね。
わたしも今まで、いろんな気持ちで映画を観てきたように思いますが、今は、観るだけで心が再生できるような映画を求めています。
だから、ヌーヴェル・ヴァーグや溝口のような映画、つまり、観る側に映画への関わりを預けられているものを愛好するところまでは行っているかどうか?甚だ疑問です。思えば軟弱な映画ファンかもしれません。
>悪夢や苦い味
不思議ですけれど、エイゼンシュテインの「ストライキ」の虐殺シーンや「若者のすべて」のレイプ・シーン・・・などを思い浮かべます。オカピーさんのおっしゃっていることがわかるような気がします。
では、また。
今日は、戦前家を出て行った婿だった祖父の後妻つまり義理の祖母(?)の葬儀に出かけてきました。
シュエットさんのコメントにもまだレスし切れていないのですが、ブログのメンテがこれから半日あるので、ぼつぼつレスして明日午後にでもクリアする見込み。
因みに、ブログのメンテは本日23:00から明日の午前中いっぱいくらいだそうです。
>何故、浅茅は、気が触れてしまったのか?
非常に難しい問題ですが・・・・・
浅茅が自分で考えていた彼女内部の悪の部分より、実際に行った行為に対して彼女が罪悪であると感じた部分の方が大きかった、ということでしょうか。
そんなのは当たり前ですか。^^;
>観るだけで心が再生できるような映画
商業主義に走っている今の作品に求めるのはなかなか難しいですかね。
映画の完成度だけでは測れないところもあって、先日観た邦画「きみの友だち」は技術的にはどうかと思う部分もままありましたが、理想的な友情が観られたようで、観終わった良い気分になりましたよ。
素材がシンプルに扱われている為に観る人によって逆の印象を受ける可能性もありますけど。
>軟弱な映画ファン
そんなことはないと思いますが、僕はもっと単純に全ての映画から何か収穫を得ようとしている映画ファンですかね。見方によっては非常にノーテンキな。
40年近く「良い映画とはどういうものか」「映画評とはどうあるべきか」と考えてきた僕ですが、良い映画とは純粋であること、映画評のスタンスとは素直にかつフレキシブルに素材に接することというところに大体落ち着いています。
三年ぶりに黒澤作品の感想を書きましたので、持ってきました。なかなか書けなかったのですが、トムさんが背中を押してくださいましたので何とか記事として纏まりました。
人間の弱い部分や悪い部分を曝け出す演出は迫力がありますし、サタジット・レイの『大地の歌』がその前の年か後の年だったら、再度グランプリを取っていたのかもしれないと思うと、残念ではあります。
ではまた!
並行してトムさんからもコメントが届いています。
早速のトラックバック有難うございました。
>『大地の歌』がその前の年か後の年だったら
ベスト10でも映画賞でも、運不運というものはつきもので、「例年なら受賞できたのに」とか「例年ならちょっと厳しい」というケースもままありますよね。
特に米アカデミーの外国語映画賞は獲れるか獲れないかによって公開される映画館数が相当に変わってきますから、相当重要。
その点山田洋次の「たそがれ清兵衛」が獲れなかったのが実に惜しいと思います。
山田監督は世界にもっと知られないといけない監督です。
>「たそがれ清兵衛」
綺麗な映画でしたね。暖かみのある映画がどんどん少なくなってきていますし、テンポが速すぎたり、不必要にカットを割りすぎるものも増えており、観客のというか人間の生理すら分かっていない者が製作者にいるようで、ちょっと怖いなあと思うこともままあります。
大学生と一緒に映画を製作されているようですので、彼の薫陶を受けた学生さんがのちに彼のDNAを受け継ぐような作品を撮ってくれたら楽しいですね。
ではまた!
>彼の薫陶
敬愛する山田監督ももう78歳ですからね、映画文法、映像言語をきちんと駆使できる後継者がそろそろ欲しい時期になりました。
とにかく、今の若い人は映画作りの勉強の前に人生勉強。あの中から一人でも良い才能が出てくると良いですね。
佐々部清がタイプ的には近いと思いますが、まだ技術的にちょっと足りない気がします。彼の今後に僕は期待しております。
>人間の生理すら分かっていない
ああ、そういう映画が多いですね。
今の監督は絵コンテなんて書かないでしょ? それじゃ変てこなカット割りにもなりますよ。あんなに刻むならコンテの書きようもないし。
観客のほうも何かと「テンポが悪い」と言いすぎるのも気になります。
【じっくり描かなければならない部分】と【冗長な描写】の区別なしに、テンポの良し悪しで映画を評価しすぎではないでしょうか?
ちまたの映画感想(ひとことコメントみたいなやつです。)でよく見るのが
「後半のシーンはスピード感があって面白いが、前半から中盤が間延びしている云々」です。
中盤までに物語の種まき(ディティールを語る)をして観客を映画に引き付けてから後半に一気に盛り上げて、最後にまた弛緩させるという構成を理解していない。2時間も緊張しっぱなしなんてありえないのですが、それを望んでいるのですかね。ロックのライブ(これも大体2時間)でも、中盤あたりにギタリストの歌を入れたり、バラードを入れたりして弛緩させるのになあ、と思ったりします。ついでにいうと大学の講義も2時間弱だったような気もします。90分でしたかね?
カットの割りすぎもムカムカしますね。無意味に、しかも激しい速さでカットを割られると目が痛くなりますし、画面に集中しようと思わなくなります。
色々と困った状況になってきていますね。ではまた!
ヒッチコックは、大体30分ほどは布石とムード醸成に使っていますよね。
その後からじわじわと布石を回収しながら新たな布石をしきつつ、やがて怒涛のサスペンスとなる。
ヒッチコックでなくても、こうした作劇が常識であるわけで、80年代くらいから開巻直後に派手なイントロダクションを持ってくる傾向が出てきましたが、それにしてもその後は布石あるいは種まきをするわけですからね。
同じスピード、同じテンションで作ったら却って一本調子でつまらない作品になる可能性が高いですよ。
>大学の講義
90分だったかな(笑)。
>カットの割りすぎ
何をやっているのか解らない場合もありますよね。カットを割る場合はアップを併用しますから、なかなかアクション全体が掴めないことが多く、迷惑しておりますよ。