映画評「主人公は僕だった」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2006年アメリカ映画 監督マーク・フォースター
ネタバレあり
黒澤明は「醜聞」の脚本について「書いているうちに主人公が生き生きと動き始めた」旨述べているが、作家以上に脚本家にはそういう経験に出会うことがあるのではないかと思う。若手脚本家ザック・ヘルムがそうした経験から着想したような面白い作品である。
国税庁の会計検査官ウィル・フェレルが判で押したような規則正しい生活をしているある日、どこからともなく女性の声が聞こえ、自分の生活を的確に描写するのに驚く。しかも、その声が「この行為が死を招くと知る由もなかった」と言うのを聞き、死ぬわけにはいかないと駆けずり回った挙句、自分がある小説の主人公にちがいないと思えたので有名な文学教授ダスティン・ホフマンに相談することに。
彼の勧めに従って自分の人生が喜劇か悲劇か見極める恋の冒険が始まる。その相手は防衛費に税金が使われるのに反対して納税しないケーキ屋の女店主マギー・ギレンホール。どうも悲劇だということで匙を投げられた主人公が密かに憧れていたギターを買って人生を謳歌し始めた途端に運命は喜劇の方に向っていくが、声の主即ち<作者>が悲劇に拘る限り死を避けられないので、今度は<作者>を探すことになる。
演劇でもピランデルロが「作者を探す六人の登場人物」という実験的な戯曲を80年以上も前に発表しているが、作者が登場しないあの作品と違って、この作品では作者の住む近くに主人公が実在しているという設定にして映画的なヒネリを加えている。
厳密にはヒネリというよりは通俗化・卑近化であり、登場人物と作者を交錯させずに大衆の関心を引き寄せることはできないのだ。その為に却って<作者>エマ・トンプスンの迷いを交え一般ファンタジー的に展開させざるを得なくなった終盤に若干の手詰まりを感じるが、いずれにせよ、作者なるものが、映画であろうと小説であろうと、作品において神に等しい存在であるということを観客に意識させる、恐らく初めての本格映像作品として相当興味深く観た。
その興味深さには次のような観方ができることも含まれる。
作家の助手クィーン・ラティファや教授が進行している奇怪な現象に驚かないことに鑑賞者は驚いたり首を傾げる必要はない。何故ならば、映画の外から中を覗いて見れば、作家も助手も教授も、主人公同様に脚本家ザック・ヘルムに好きなように操られるモルモットにすぎないからだ。その意味で本作は鑑賞者の反応を内容に組み込んだ多重構造の作品と言っても良いであろう。
細かい点では、<作者>が主人公の死に方を色々と考える場面の映像処理がカット割りを含めて優秀。前作「ステイ」でも感覚の良さに感心させられたマーク・フォースターの才能をやはり強く感じる。
主題は創作そのものだった。
2006年アメリカ映画 監督マーク・フォースター
ネタバレあり
黒澤明は「醜聞」の脚本について「書いているうちに主人公が生き生きと動き始めた」旨述べているが、作家以上に脚本家にはそういう経験に出会うことがあるのではないかと思う。若手脚本家ザック・ヘルムがそうした経験から着想したような面白い作品である。
国税庁の会計検査官ウィル・フェレルが判で押したような規則正しい生活をしているある日、どこからともなく女性の声が聞こえ、自分の生活を的確に描写するのに驚く。しかも、その声が「この行為が死を招くと知る由もなかった」と言うのを聞き、死ぬわけにはいかないと駆けずり回った挙句、自分がある小説の主人公にちがいないと思えたので有名な文学教授ダスティン・ホフマンに相談することに。
彼の勧めに従って自分の人生が喜劇か悲劇か見極める恋の冒険が始まる。その相手は防衛費に税金が使われるのに反対して納税しないケーキ屋の女店主マギー・ギレンホール。どうも悲劇だということで匙を投げられた主人公が密かに憧れていたギターを買って人生を謳歌し始めた途端に運命は喜劇の方に向っていくが、声の主即ち<作者>が悲劇に拘る限り死を避けられないので、今度は<作者>を探すことになる。
演劇でもピランデルロが「作者を探す六人の登場人物」という実験的な戯曲を80年以上も前に発表しているが、作者が登場しないあの作品と違って、この作品では作者の住む近くに主人公が実在しているという設定にして映画的なヒネリを加えている。
厳密にはヒネリというよりは通俗化・卑近化であり、登場人物と作者を交錯させずに大衆の関心を引き寄せることはできないのだ。その為に却って<作者>エマ・トンプスンの迷いを交え一般ファンタジー的に展開させざるを得なくなった終盤に若干の手詰まりを感じるが、いずれにせよ、作者なるものが、映画であろうと小説であろうと、作品において神に等しい存在であるということを観客に意識させる、恐らく初めての本格映像作品として相当興味深く観た。
その興味深さには次のような観方ができることも含まれる。
作家の助手クィーン・ラティファや教授が進行している奇怪な現象に驚かないことに鑑賞者は驚いたり首を傾げる必要はない。何故ならば、映画の外から中を覗いて見れば、作家も助手も教授も、主人公同様に脚本家ザック・ヘルムに好きなように操られるモルモットにすぎないからだ。その意味で本作は鑑賞者の反応を内容に組み込んだ多重構造の作品と言っても良いであろう。
細かい点では、<作者>が主人公の死に方を色々と考える場面の映像処理がカット割りを含めて優秀。前作「ステイ」でも感覚の良さに感心させられたマーク・フォースターの才能をやはり強く感じる。
主題は創作そのものだった。
この記事へのコメント
旨いですね。
>作家も助手も教授も、映画の中の主人公同様に脚本家ザック・ヘルムに好きなように操られるモルモットにすぎないからだ。
本当にそうですね。創作と言うのは、やはり、捜索する主体が「神」であるわけですね。物語の秘密です。
僕は、日常的に映画の外から観る癖が付いているので、作者が登場人物をコマとして好きなように操っているという感じを抱いているのです。
映画を見ている時は中に入り込んでしまうこともままありますが、その場合でも映画評なるものを書く時は外に出て「何故作者はそうするのか」と考えます。
だから、仰るように創作の秘密を探るような展開で面白かったですね。
ほんと着想が面白くシャシンが
ザワザワしていない上にユニークなこと。
プロフェッサーが私向きではないと
言われておりました「ネバーランド」も
この間初見しましたがなかなか良作で
楽しめましたよ。
あのジョニー・Dもクサくなくて
ナチュラルでしたし。^^
フォースター、今度は007の新作だそうですね。
マイ記事の出だしの数行までしっかり
浮かんできたところでプロフェッサーに
先を越されてしまった本作・・(笑)
私、最近、行ってませんからね~劇場。
観たいものがあまりに僅少なので~。
もっぱら有料チャンネル派に
なりつつありますなぁ~。(--)^^
今書きかけの記事の後に
当作品感想UPしたいと考えています。
おそらくまた私のことですから
俳優中心のオチャラケ記事で
お茶を濁すと思いますがその際は
お気持ユタリ~~っとご笑覧を。
早速絵文字使われていますね。はや~い。
>ネバーランド
おおっ、またまた大外れでしたか。
それが人の考えを理解する難しさであり、面白さであります。^^
苦手なジョニー・デップも気にならなかったようで、
おめでとうございます。
>007
前作より演出的には面白くなるかもですね。
ただ、主演はやはり気に入らない。
ジーパンが似合いそうな007なんて、気分出ないです。^^;
>もっぱら有料チャンネル派に
観たいのがあっても行けない田舎者の私に憐れみを。^^
週に平均二本以上映画館で観ていた昔がウソのようです。