映画評「ゾンビーノ」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2006年カナダ映画 監督アンドリュー・カリー
ネタバレあり
ゾンビ映画はコメディー化する傾向にあるが、本作の着想は僕が観た限りでは初めてでなかなか興味深い。
地球外からの影響で死体が蘇って人肉を食らうようになり、ここに人間とゾンビの戦争が始まるが、ゾムコン社がゾンビをコントロールする首輪を販売して地球は平和になる。その装置が時々壊れるのがポイントである。
本作本編が始まるのはここからで、金持ちの家は最低一人のゾンビを雇っている町に暮らす少年クサン・レイが、母親キャリー=アン・モスの見栄で雇うことになった中年男性のゾンビ(ビル・コノリー)をファイドと名付けて可愛がるが、油断した間に制御が外れた彼が老婦人を襲い、そこから街は野生ゾンビが溢れてしまう。ゾムコン社が犯人と特定したファイドを連れ去ると、少年はゾムコン社を首になった男ティム・ブレイク・ネルスンと協力してファイドを連れ戻すべく敷地内に潜入する。
この作品の面白さはゾンビを召使として使う社会というブラック・ユーモアだが、その程度ではただの思いつきに終わってしまったであろう。
そこで捻り出されたのが舞台を近未来ではなく、パラレル・ワールド的に(恐らくは)1950年代に設定するというアイデアである。つまり、ゾンビを召使として酷使されていた黒人その他の有色人種と重ねることでその粗雑な扱いにかつてアメリカで露骨に行われていた人種差別(今行われていないという意味にあらず)への揶揄が当時の偽善ムードのうちにじんわりと滲み出ているのだ。
カナダ映画ということを考えれば、学校で射撃の練習をする様子にアメリカ銃社会への風刺も垣間見える。家族が増えると養育費ではなく葬儀保険費用を心配するといった生死の価値観の転換なども面白い。
が、終盤の展開には思ったほどひねりがなく、結局そのアイデアの範囲に留まっているのは残念。
「ハリーの災難」のハリーも蘇ったかもしれないですな。
2006年カナダ映画 監督アンドリュー・カリー
ネタバレあり
ゾンビ映画はコメディー化する傾向にあるが、本作の着想は僕が観た限りでは初めてでなかなか興味深い。
地球外からの影響で死体が蘇って人肉を食らうようになり、ここに人間とゾンビの戦争が始まるが、ゾムコン社がゾンビをコントロールする首輪を販売して地球は平和になる。その装置が時々壊れるのがポイントである。
本作本編が始まるのはここからで、金持ちの家は最低一人のゾンビを雇っている町に暮らす少年クサン・レイが、母親キャリー=アン・モスの見栄で雇うことになった中年男性のゾンビ(ビル・コノリー)をファイドと名付けて可愛がるが、油断した間に制御が外れた彼が老婦人を襲い、そこから街は野生ゾンビが溢れてしまう。ゾムコン社が犯人と特定したファイドを連れ去ると、少年はゾムコン社を首になった男ティム・ブレイク・ネルスンと協力してファイドを連れ戻すべく敷地内に潜入する。
この作品の面白さはゾンビを召使として使う社会というブラック・ユーモアだが、その程度ではただの思いつきに終わってしまったであろう。
そこで捻り出されたのが舞台を近未来ではなく、パラレル・ワールド的に(恐らくは)1950年代に設定するというアイデアである。つまり、ゾンビを召使として酷使されていた黒人その他の有色人種と重ねることでその粗雑な扱いにかつてアメリカで露骨に行われていた人種差別(今行われていないという意味にあらず)への揶揄が当時の偽善ムードのうちにじんわりと滲み出ているのだ。
カナダ映画ということを考えれば、学校で射撃の練習をする様子にアメリカ銃社会への風刺も垣間見える。家族が増えると養育費ではなく葬儀保険費用を心配するといった生死の価値観の転換なども面白い。
が、終盤の展開には思ったほどひねりがなく、結局そのアイデアの範囲に留まっているのは残念。
「ハリーの災難」のハリーも蘇ったかもしれないですな。
この記事へのコメント
まずは、退院おめでとうございます!
本調子ではないのに、
ご丁寧にコメント&TB頂きありがとうございました。
どうかお大事にされてくださいね。
この映画は、ゾンビ映画なのにコメディで、
さらに社会風刺まで効いていて非常に面白い映画でしたね♪
おっしゃるとおり1950年代に設定したのも良い雰囲気が出ていて良かったですよね~
目からウロコのゾンビ映画でした(^^)
ご心配戴き、有難うございます。
>ゾンビ映画
はコメディでないと僕には辛いので、丁度良かったです。
風刺の扱いも上手かったですね。