映画評「八月の狂詩曲(ラプソディー)」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
1991年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
黒澤明第29作はテーマ的に第15作「生きものの記録」の作り直しと言って良い。
8月、長崎市から少し離れた山村に住む80歳くらいの老女・鉦(かね=村瀬幸子)に預けられた4人の孫たち(吉岡秀隆、大寶智子、伊崎允則、鈴木美恵)は長崎市の原爆資料館や被爆の痕跡の残る場所を訪れて言葉を失う。戦争の悲惨な現実に触れたような気がし、祖父を原爆で失ってもきちんと人生を歩んできた祖母への尊敬の念が湧き上がる。彼らがこの山奥に来たのは、彼らの父であり母である老女の息子(井川比佐志)と娘(根岸季衣)が70年前にハワイに渡った後大成功し、現在病気で寝込んでいると判明した祖母の兄を見舞っているからである。
やがて、アメリカを離れた親達とすれ違いに子供たちが出した手紙から祖父の死の原因を知ってハーフ青年(リチャード・ギア)が村にやって来る。大富豪になった伯父の恩恵にあやかろうとした両親二組は「縁を切りに来るのだろう」とくさるが、実は謝りに来ただけと判明する。ハーフ青年は鉦とすっかり意気投合したものの、父親が死んだ為にすぐに帰国、老女は疑って兄を見舞わなかったことを恥じて正気を失う。
駄作というのが世評らしいが、それはかなりの不明ではないかと思う。allcinemaの本作のコメントに珍しくも実に的確な黒澤明論があるのでそちらを読んでもらったほうが手っとり早いのだが、晩年の黒澤御大には変わったところと全く変わっていないところがある。
どういう風に変わったのかと言えば、ムキにならなくなり細工を弄しなくなった。初期・中期の傑作と言われる作品群は強烈強力ではあるがムキになってバランスを欠く部分が相当にある。神格化された為に誰も言わないだけで、「生きる」「野良犬」「酔いどれ天使」「羅生門」等々いずれもその非を免れない。言わば欠点だらけの傑作なのである。
カラーになってからの御大はムキにならなくなった代わりに概ね観念的になり面白味が薄くなってきたようである。しかし、映画は物語のみにより成り立つわけではないから、面白味が薄いからと言って作品的に駄目ということは容易に言えない。
翻って、変わっていないのは映画の根底に流れるヒューマニズムであり、好きな表現である。本作では唱歌を用いたこと、花や雨の描写などがその顕著な例だろう。
そこで思い出される「生きものの記録」は核を恐れる余りブラジル移住を考えた末に狂気に陥る老人の物語だったが、こちらではハワイ移住した老人の息子の【里帰り】により核への恐れというテーマが往復書簡のように扱われているのが大変興味深い。反戦・反核というテーマを家族描写に立脚して描こうという狙いは全く同じで、子供世代が欲望につき動かされるのも似たようなものである。どちらも雷が原子爆弾をシンボライズしている。
しかし、「生きものの記録」は強烈な印象を残す一方で利己的な家族の描写を前面に押し出しすぎた為に主題がぼけてしまった感があるので、寧ろ全体の調和という意味では本作の方が優るかもしれない。
思うに、前作「夢」の製作総指揮をとったスティーヴン・スピルバーグが93年に発表した「シンドラーのリスト」は「天国と地獄」だけではなく本作の影響も受けてはいまいか。実際の被爆者が出てくる場面と同作でアウシュヴィッツからの実際の生還者が登場するラストがどうしても重なって見えてしまうのである。
1991年日本映画 監督・黒澤明
ネタバレあり
黒澤明第29作はテーマ的に第15作「生きものの記録」の作り直しと言って良い。
8月、長崎市から少し離れた山村に住む80歳くらいの老女・鉦(かね=村瀬幸子)に預けられた4人の孫たち(吉岡秀隆、大寶智子、伊崎允則、鈴木美恵)は長崎市の原爆資料館や被爆の痕跡の残る場所を訪れて言葉を失う。戦争の悲惨な現実に触れたような気がし、祖父を原爆で失ってもきちんと人生を歩んできた祖母への尊敬の念が湧き上がる。彼らがこの山奥に来たのは、彼らの父であり母である老女の息子(井川比佐志)と娘(根岸季衣)が70年前にハワイに渡った後大成功し、現在病気で寝込んでいると判明した祖母の兄を見舞っているからである。
やがて、アメリカを離れた親達とすれ違いに子供たちが出した手紙から祖父の死の原因を知ってハーフ青年(リチャード・ギア)が村にやって来る。大富豪になった伯父の恩恵にあやかろうとした両親二組は「縁を切りに来るのだろう」とくさるが、実は謝りに来ただけと判明する。ハーフ青年は鉦とすっかり意気投合したものの、父親が死んだ為にすぐに帰国、老女は疑って兄を見舞わなかったことを恥じて正気を失う。
駄作というのが世評らしいが、それはかなりの不明ではないかと思う。allcinemaの本作のコメントに珍しくも実に的確な黒澤明論があるのでそちらを読んでもらったほうが手っとり早いのだが、晩年の黒澤御大には変わったところと全く変わっていないところがある。
どういう風に変わったのかと言えば、ムキにならなくなり細工を弄しなくなった。初期・中期の傑作と言われる作品群は強烈強力ではあるがムキになってバランスを欠く部分が相当にある。神格化された為に誰も言わないだけで、「生きる」「野良犬」「酔いどれ天使」「羅生門」等々いずれもその非を免れない。言わば欠点だらけの傑作なのである。
カラーになってからの御大はムキにならなくなった代わりに概ね観念的になり面白味が薄くなってきたようである。しかし、映画は物語のみにより成り立つわけではないから、面白味が薄いからと言って作品的に駄目ということは容易に言えない。
翻って、変わっていないのは映画の根底に流れるヒューマニズムであり、好きな表現である。本作では唱歌を用いたこと、花や雨の描写などがその顕著な例だろう。
そこで思い出される「生きものの記録」は核を恐れる余りブラジル移住を考えた末に狂気に陥る老人の物語だったが、こちらではハワイ移住した老人の息子の【里帰り】により核への恐れというテーマが往復書簡のように扱われているのが大変興味深い。反戦・反核というテーマを家族描写に立脚して描こうという狙いは全く同じで、子供世代が欲望につき動かされるのも似たようなものである。どちらも雷が原子爆弾をシンボライズしている。
しかし、「生きものの記録」は強烈な印象を残す一方で利己的な家族の描写を前面に押し出しすぎた為に主題がぼけてしまった感があるので、寧ろ全体の調和という意味では本作の方が優るかもしれない。
思うに、前作「夢」の製作総指揮をとったスティーヴン・スピルバーグが93年に発表した「シンドラーのリスト」は「天国と地獄」だけではなく本作の影響も受けてはいまいか。実際の被爆者が出てくる場面と同作でアウシュヴィッツからの実際の生還者が登場するラストがどうしても重なって見えてしまうのである。
この記事へのコメント
>「生きものの記録」の作り直しと・・・
黒澤監督は、人間の「実生活」の面でのドラマやヒューマニズムの感動を生真面目に描き続けているように思います。テーマやメッセージが結果的に反戦・反核、逆に結果的に国策映画になってしまうことになるのも、そこに原因があるからではないかな?
国民的な感動ドキュメント・リアリズムに徹してしまう結果なのかもしれません。
そういう意味では黒澤監督は一貫しているんですよね。
この作品で、わたしが素晴らしいなあ、と思ったのは、あの親戚一同の雰囲気が日本の親戚の集まりそのものだと感じるからです。わたしも正月に母親や父親の実家に顔を出しますが、あの作品のような雰囲気の中で過ごします。
何だか生きる勇気を与えられることが不思議なのですが、やはり、自らの半生を必死に生きたおばあちゃんと、彼女を慕う孫たち・・・我々の生きる課題や指標が先代から与えられていることが描かれているように思います。
また、従兄妹同士の危ういシークエンスもリアルに描かれていましたよね。ご高齢の黒澤作品にあの1ショットがあることに深い凄みを感じます。
オカピーさん、今年も頑張りましょうね。
では、また。
トムさんも来られていたようですね。
けっこうこの作品は黒澤作品中でも叩かれることの多い作品でありますが、個人的には駄作だとは思えません。
壮年期の切れ味は望むべくもありませんが、それでも映画的な瞬間はそこかしこに見ることができます。派手さのない作品をつかまえて、「つまんない。」といってしまうような感受性のない人間にはなりたくないなあ、としみじみ思わせる一本でした。
ではまた!
黒澤明がヒューマニズムの作家であるのは論を待つまでもないのですが、同じヒューマニズムの作家と言ってもフランク・キャプラの理想主義とは真逆、人間とは卑小な存在であるというのが基本的立場で、悪党は人間の弱さの発露と扱われていますね。
それが年を重ねるに連れ(「赤ひげ」以降)人間の善なる部分に焦点を当てるようになってきたような気がします。それがムキにならない作劇に繋がっているのでしょう。
>日本の親戚の集まりそのもの
少なくとも僕らの世代以上ならこの映画の感覚は皮膚で解るのではないかという気がします。平成世代になると祖父母が戦後生まれという人も多くなるでしょうから、だんだんこの感覚が解りにくくなるかもしれませんね。
続きます。
だから、リチャード・ギアが謝りに来るのは、事実を知らなかったことを親戚の一人として謝っているのであって、「アメリカが日本に謝る」の図とみなすことはできないけれど、とは言え、互いにそうした素直さがあればこうした悲劇は起きないはずだと願っていたのでしょうね。
トムさんは僕が悲観論者と仰います(笑)が、要は映画が今より良くなって欲しいという純粋な思いからなので、それを楽しんでいるという面もあるのです。僕らがここでいくら叫んでも映画を娯楽の一つとして観ている客層には届かないわけで、映画を良くするのは相当難しいでしょうね、とまた悲観論(笑)。
>黒澤作品中でも叩かれることの多い
黒澤監督に限らず、一世を風靡した監督は多かれ少なかれ、作風が僅かに変わったりしただけで批判の嵐に晒されることになりますが、芸術家の才能なんてのは実はそう簡単に枯れるものではありません。
海外勢ではスピルバーグがその例に当てはまると思いますが、彼の最大の特徴は山田洋次にも似てショットとシーンの繋ぎの天才的な上手さであって、他の追随を許すものではないです。僕は楽しみましたが世評が最低だった「宇宙戦争」も、編集の見事さに唸りました。
批判は良いですけど、映画サイトのコメントを読むと、映画への愛が足りないのが気になります。批判ではなくて非建設的な雑言にすぎない。
僕の尊敬する双葉十三郎氏が40歳前後で連載されていた「日本映画月評」はそうしたコメント並みに激しく痛烈なものですが、映画への愛情に溢れて、なおかつ正確。
だから、僕も氏に倣って「つまらない(だめな)映画だからこそ面白い」を実践しているのです。