映画評「つぐない」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
2007年イギリス映画 監督ジョー・ライト
重要なネタバレあり。注意されたし。
英国の作家イアン・マキューアンの「贖罪」を「プライドと偏見」で日本にお目見えしたジョー・ライトが映画化したドラマ。
1935年の英国、作家志望で想像力豊かな13歳の少女ブライオニー(シアーシャ・ローナン)が、姉セシーリア(キーラ・ナイトリー)が濡れた下着姿で自宅の噴水前で使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)といるのを目撃。屋敷で晩餐会が開かれた日、今度は図書室で愛し合う二人を目撃する。夜が深まった頃従姉ローラが何者かに暴行される事件が起き、ブライオニーの証言でロビーが連行される。
4年後、刑期短縮の代わりにロビーは兵役に就き、セシーリアは彼の帰還を祈る。二人は半年前に一度きりの再会を果たし永遠の愛を誓っていた。同じ頃ブライオニーは彼女なりのつぐないの為に看護婦になり、やがて一時帰休したロビーと一緒にいるセシーリアに謝罪する。
映像により物語を的確に表現するという意味においてここ数年でこれほど優れた作品はなかったであろうと全く感心させられた。もっと具体的に言えば、客観ショットと主観ショットをこれほど巧みに組み合わせた作品はこの10年ではちょっと思いつかない。ライトは端倪すべからざる才能の持ち主である。
お話は大きく分けて三部構成(実際には四部構成)で、第一部はロビーへの仄かな憧れが嫉妬になってブライオニーが偽証するまで、第二部はダンケルクに降り立つロビーの想念、第三部は病院に勤めながら作品を書き、やがて二人に謝罪するまで。
この分割に従えば、第一部での客観及び主観ショットの使い方が圧巻。つまり、噴水前と図書館での“事件”をブライオニーの主観と客観ショットを併置(上の画像参照)しながら、ローラ暴行事件においては彼女の主観だけにするアイデアが的確。前者によりいかに彼女の主観が事実と異なることを示し、それを踏まえて後者により彼女の証言が真相から遠いことを観客に想像させ、第二部以降の後半へと進んでいくのである。
第二部ではロビーが母親の元に戻った幻想を交えるなどして主観映像を豊かに織り込んでいるが、中でもブライオニーが溺れかけた事件を思い出すフラッシュバックは少女のロビーへの片思いが鮮烈に解るという意味で大変重要。5分間に渡る長回しは相当に印象深く、戦場の悲惨さで我々を圧倒する。
第三部でブライオニーは二人に謝罪して何とかつぐないをしたように思われたところで、映画はTVでインタビューされる現在のブライオニー(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)を映し出し、このエピローグにおいて今までのお話が自伝的小説の映像的展開即ち主観映像であった、という大どんでん返しを敢行するのである。少なくとも第三部は全て主観的場面と思って間違いない。かくして主観と客観の使い分けと組合せにより超絶技巧に物語を紡ぎ出して誠に鮮やか、これに映画的興奮を味わわずにして何に興奮しよう。
内容について、実際にはロビーが戦場で、セシーリアが地下鉄で夫々死んだ為に罪を贖うことができなかったヒロインが小説の幕切れでそれを実行する、というだけでは「つぐない」などにはならないというご意見は正しいが、本作が最終的に描こうとしたものはそれほど単純で瑣末なものではないだろう。
セシーリアはロビーに対して最初はスノビスト的であり、寧ろ妹に逢瀬の現場を観られロビーが投獄されたことで、寧ろ恋を本格化させたのではあるまいか。彼女の家族にも真実を知っていながら隠したという上流階級のエゴイズムがあったのではないか。恐らく犯人を知っているのに黙っていたローラ本人はもっと罪深いであろう。そもそも厳密な意味での“犯行”があったかどうかも怪しい。
つまり、階級対立的な要素を交えながら人間とはいかに複雑な罪深い生き物であるかを、作者たるヒロインがいかに贖罪を果たそうとするかという過程により婉曲的に描こうとしたのではないかと思えてくる。その理解が正しければ、作者は観客の想像力を信用したのである。
いずれにしても、これほど長い間精神的苦痛に苛まれたのはブライオニー以外に存在しないことは確かで、半世紀以上に渡るブライオニーの苦悩を思いやると胸がしめつけられ、涙を押し留めることはできない。
13歳のブライオニーを演じたシアーシャ・ローナンの透明感が強烈な印象を残す。
2007年イギリス映画 監督ジョー・ライト
重要なネタバレあり。注意されたし。
英国の作家イアン・マキューアンの「贖罪」を「プライドと偏見」で日本にお目見えしたジョー・ライトが映画化したドラマ。
1935年の英国、作家志望で想像力豊かな13歳の少女ブライオニー(シアーシャ・ローナン)が、姉セシーリア(キーラ・ナイトリー)が濡れた下着姿で自宅の噴水前で使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)といるのを目撃。屋敷で晩餐会が開かれた日、今度は図書室で愛し合う二人を目撃する。夜が深まった頃従姉ローラが何者かに暴行される事件が起き、ブライオニーの証言でロビーが連行される。
4年後、刑期短縮の代わりにロビーは兵役に就き、セシーリアは彼の帰還を祈る。二人は半年前に一度きりの再会を果たし永遠の愛を誓っていた。同じ頃ブライオニーは彼女なりのつぐないの為に看護婦になり、やがて一時帰休したロビーと一緒にいるセシーリアに謝罪する。
映像により物語を的確に表現するという意味においてここ数年でこれほど優れた作品はなかったであろうと全く感心させられた。もっと具体的に言えば、客観ショットと主観ショットをこれほど巧みに組み合わせた作品はこの10年ではちょっと思いつかない。ライトは端倪すべからざる才能の持ち主である。
お話は大きく分けて三部構成(実際には四部構成)で、第一部はロビーへの仄かな憧れが嫉妬になってブライオニーが偽証するまで、第二部はダンケルクに降り立つロビーの想念、第三部は病院に勤めながら作品を書き、やがて二人に謝罪するまで。
この分割に従えば、第一部での客観及び主観ショットの使い方が圧巻。つまり、噴水前と図書館での“事件”をブライオニーの主観と客観ショットを併置(上の画像参照)しながら、ローラ暴行事件においては彼女の主観だけにするアイデアが的確。前者によりいかに彼女の主観が事実と異なることを示し、それを踏まえて後者により彼女の証言が真相から遠いことを観客に想像させ、第二部以降の後半へと進んでいくのである。
第二部ではロビーが母親の元に戻った幻想を交えるなどして主観映像を豊かに織り込んでいるが、中でもブライオニーが溺れかけた事件を思い出すフラッシュバックは少女のロビーへの片思いが鮮烈に解るという意味で大変重要。5分間に渡る長回しは相当に印象深く、戦場の悲惨さで我々を圧倒する。
第三部でブライオニーは二人に謝罪して何とかつぐないをしたように思われたところで、映画はTVでインタビューされる現在のブライオニー(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)を映し出し、このエピローグにおいて今までのお話が自伝的小説の映像的展開即ち主観映像であった、という大どんでん返しを敢行するのである。少なくとも第三部は全て主観的場面と思って間違いない。かくして主観と客観の使い分けと組合せにより超絶技巧に物語を紡ぎ出して誠に鮮やか、これに映画的興奮を味わわずにして何に興奮しよう。
内容について、実際にはロビーが戦場で、セシーリアが地下鉄で夫々死んだ為に罪を贖うことができなかったヒロインが小説の幕切れでそれを実行する、というだけでは「つぐない」などにはならないというご意見は正しいが、本作が最終的に描こうとしたものはそれほど単純で瑣末なものではないだろう。
セシーリアはロビーに対して最初はスノビスト的であり、寧ろ妹に逢瀬の現場を観られロビーが投獄されたことで、寧ろ恋を本格化させたのではあるまいか。彼女の家族にも真実を知っていながら隠したという上流階級のエゴイズムがあったのではないか。恐らく犯人を知っているのに黙っていたローラ本人はもっと罪深いであろう。そもそも厳密な意味での“犯行”があったかどうかも怪しい。
つまり、階級対立的な要素を交えながら人間とはいかに複雑な罪深い生き物であるかを、作者たるヒロインがいかに贖罪を果たそうとするかという過程により婉曲的に描こうとしたのではないかと思えてくる。その理解が正しければ、作者は観客の想像力を信用したのである。
いずれにしても、これほど長い間精神的苦痛に苛まれたのはブライオニー以外に存在しないことは確かで、半世紀以上に渡るブライオニーの苦悩を思いやると胸がしめつけられ、涙を押し留めることはできない。
13歳のブライオニーを演じたシアーシャ・ローナンの透明感が強烈な印象を残す。
この記事へのコメント
>客観ショットと主観ショットをこれほど巧みに組み合わせた作品。
いやぁ、端的に見事に表現されているなぁ。全作「プライドと偏見」が私にはいま一つだったので、本作は、またしてもキーラ・ナイトレイ起用で、どんなかな?って気持ちもあったのですが、予告編で13歳のブライオニに惹かれて観にいって、作品に気品すら感じました。ブライオニ、セシーリアそしてローニーそれぞれの贖罪の思いが、愛するものに壁をつくり、すれ違わせる。さらに戦争がそれぞれを引き裂く。人間の存在の哀しさまで感じさせる、そんな涙が溢れた作品でした。悲しい映画、それ以上の悲劇性に胸が詰まりました。
どうかするとブライオニーの贖罪にのみ語られている映画評などもブロガーさん達も多かったように思いますが、そんな一面的な物語ではないんですよね。
>階級対立的な要素を交えながら人間とはいかに複雑な罪深い生き物であるか
階級というテーマも忘れてはならないテーマでもありますよね。人間存在に階級というテーマが絡まり、悲劇が重層的に描かれている。
>13歳のブライオニーを演じたシアーシャ・ローナンの透明感が強烈な印象を残す。
彼女を見つけたのが本作の鍵だったでしょうね。それと苦手なキーラ・ナイトレイも本作では、あえてペチャパイを堂々とみせることで、彼女の孤高の姿がきわだったような。このあたりも見事だなって思った。
>ライトは端倪すべからず才能の持ち主である。
前作のがっくりはプラスマイナスでおつりがきました。
久々に正統なる英国映画を見たという嬉しさもありました。
僕はこの作品については、本当にいろんなアプローチからおしゃべりしたくなるので、第一部のところの姉妹の宿命のようなものだけに焦点をあてて、想像してみました。
このスタッフ陣もすごいですが、原作者の物語構成も、圧倒されるばかりです。
一ヶ月ほど前に観る予定だったのをうっかり見落としまして、大分待ったわけです。素晴らしい映画で、待った甲斐がありましたよ。
>ブライオニーの贖罪
はモチーフだと思うんですよね。
これを主題と考えると純文学としては些か底の浅い内容と言わざるを得ません。
人間は皆あがなうべき罪を持っている、ということが最終的に浮かび上がっているような気がします。人間の存在そのものが悲しいのはこれ故ですね。
或いは一番罪があるとは言えないかもしれない彼女が、一番長く苦しまなければならなかったのも、想像力豊かで作家となる運命故の悲劇だったのかもしれないと思うと、階級対立を交えて、仰るように重層的な悲劇と言えるだろうと思います。
>キーラ・ナイトリー
僕は割合好きです。オードリー好みで、ナタリー・ポートマンも割合好きですからねえ。明らかに傾向がありますねえ。^^
「プライドと偏見」も英国映画らしい気品を買っていたので、先見の明がありましたか?
>いろんなアプローチからおしゃべり
その通りですね。
内容面から言っても色々か角度から話ができる作品で、この何倍もの量で文章も書けそうですが、僕の場合はまがりなりにも“映画評”なので、技術的な面白さを中心に語りました。
>原作者
珍しく原作を読んでみたくなりましたよ。
紹介記事+追加記事とありますので、ご笑覧を。
シアーシャ・ローナンは実際には明るい少女との監督の説明でした。将来が楽しみな女優ですね。
ロモーラ・ガライも難しい役柄をしっかり演じていたと思います。
>画像
そういうのも大変面白い趣向ですね。^^
客観と主観ということに主眼にして画像を作ったつもりです。
>シアーシャ
Saoirseでは、ちょっとシアーシャとは読めませんねえ。
IMDbには、解っている限り、人命の発音を紹介して貰いたいもの。
透明感が高いので、純文学、心理ドラマに向いていそうですね。
タイプを打つ音へのコメントはありませんでした。やれやれ・・
キーラ・ナイトリー、この映画ではあまり気になりませんが「プライドと偏見」がよろしくなかったので、イメージダウンですね。
「高慢と偏見」はBBCバージョンが大好きなので、(コリン・ファースのダーシー)そっちを見ないで映画版が良かったというならともかく、両方観て映画版が良いという人とは・・・どうしましょう? 絶縁? 2メートル以上離れる? (笑)
>タイプを打つ音へのコメントはありませんでした。やれやれ・・
安堵の“やれやれ”でしょうか、幻滅の“やれやれ”でしょうか(笑)。
僕は映画言語、映画文法という面に注目しがちなので、気づかなかったが、気づいても敢えて無視したのか、今となっては判然としません。
しかし、堂々と“どんでん返し”という言葉を使っているところを見ると、気づかなかったのかなあ。
>「高慢と偏見」はBBCバージョンが大好きなので
10年くらい前によくいらしていたシュエットさんが全く同意見でしたね。僕は見ていないので比較できませんが、この監督の映画版も映像言語的にはよく出来ていたと思うのですよ。
>両方観て映画版が良いという人とは・・・どうしましょう?
>絶縁? 2メートル以上離れる? (笑)
人の趣味はそれぞれですからねえ。2メートルくらいにしたらどうですか(笑)。
やれやれ・・は勿論、安堵です。
21世紀も5分の1過ぎた今頃言うのもなんですが、是非BBCの「高慢と偏見」は観てくださいね。 近所ならDVDを持って押しかけて行きかねませんよ。
(幸か不幸か2mどころか1500km?くらいは離れてますからご安心ください)
>やれやれ・・は勿論、安堵です。
こちらも安堵しました。やれやれ(笑)
>是非BBCの「高慢と偏見」は観てくださいね。
そのつもりでおります。長生きしなくては(こればっかりになってきました)。
>幸か不幸か2mどころか1500km?くらいは離れてますから
真面目な話をしますと、群馬と京都は想像以上に近いです。直線距離なら400kmくらいでしょう。道のりはその1.5倍くらいあるでしょうけどね。
>群馬と京都は想像以上に近いです。直線距離なら400kmくらいでしょう。道のりはその1.5倍くらいあるでしょうけどね。
昔日本列島は南北に4000kmと習ったような記憶があって、そこから割り出して1500km・・・アホですね。
ま、とにかく近いことは判りました。
三条から東海道を通って、どこかで中山道に入ったらいいんですね。了解です。 グーグルマップで行ってみます!(笑)
>昔日本列島は南北に4000kmと習ったような記憶があって
それ自体は正しく、北海道の端から与那国島辺りや小笠原諸島の一番南を計ると、そのくらいありますね。
>条から東海道を通って、どこかで中山道に入ったらいいんですね。
草津宿で入りましょう。群馬県には同じ漢字の草津(くさづ)温泉があります。何かの縁でしょう(笑)・・・但し、中山道とは関係ありません。