映画評「按摩と女」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1938年日本映画 監督・清水宏
ネタバレあり
清水宏では唯一観たことがある「蜂の巣の子供たち」はなかなか素晴らしい作品ではあるものの、さすがにその才能を把握できずにいた。リメイク「山のあなた~徳市の恋~」の製作によりオリジナルの本作が注目された結果、こうしてWOWOWで代表作が5本連続して放映されるのは正に僥倖。喜び勇んで観た最初の一本である本作は名状しがたい傑作である。暫く殆ど忘れ去られた存在になっていた清水宏が天才であるという評判はしっかり確認できる。
二人の按摩・徳市(徳大寺伸)と福市(日守新一)が温泉地を目指して峠を歩いている。彼らを通り越して行った馬車には東京からの美人温泉客・美千穂(高峰三枝子)が乗り、徳市がお世話になる【鯨や】に泊るが、そこで盗難事件が起きる。女が叔父(佐分利信)と一緒に温泉にやって来た少年・研一(爆弾小僧)と親しくなり福市の泊る宿を訪れた時にもまた盗難が発生する。
美千穂に淡い慕情を覚える徳市は警察が動き出したと聞いて挙動不審だった彼女を連れ出すが、やがて彼女の“訳あり”が犯罪ではなくパトロンからの逃避であると知るに至る。いずれにしても彼女は同じ土地に長逗留できない事情を抱え、彼の“目の前”から去っていく。
というお話はあるにはあるが、物語や構成だけでは語りにくい類の作品と言うべし。“名状しがたい”と書いたのは単なる形容ではなく、実際これほど言葉でその素晴らしさを表現するのに苦しめられる映画はそうそうない。基本的に清水監督独自の呼吸やリズムが魅力の核を成す作品と言えるだろうとは思う。従って、映画の呼吸やリズムという概念が解らずストーリーでしか映画を見ることができない人には理解できない境地にある。
まず、序盤按摩の二人が横に並んで歩いている情景をトラックバックで延々と撮っているが、面白い台詞に刻々と変わる景色が何とも言えぬ詩情を醸成する。その間に徳市が並々ならぬ感覚を持ち、健常者以上に物事が見えていることが解る寸法で、例えば「向こうからやって来る子供の集団は赤ん坊を入れて8人半」などと言っているうちに子供たちが通り過ぎ、その後彼らを抜いていく馬車に東京の女が乗っていることもずばり当ててしまう。
こうした彼の素晴らしい“視力”は後半への布石となり、事件を彼女の犯行と思い込んでしまう失敗にも繋がっていくのだが、特に感心させられるのは幕切れで全盲の彼が彼女を“見送る”表現の見事さである。彼女の乗った馬車が温泉町の角を曲がって緩やかな坂道を降りていき、それをゆっくりしたスピードで追うカメラは角を超えたところで固定される。彼の心の目で見た“主観ショット”であると理解される所以で、一期一会に明け暮れ年齢以上に人生経験の豊富だったはずの主人公が“別れの辛さ”を初めて知ってしまう悲劇としての余韻が際立つ。
ここで大事なのはその余韻が劇として理詰めに構成された結果生まれたものではないことを理解する必要性である。
研一少年が美人の姉さんと過ごす時間を叔父さんや徳市に奪われてへそを曲げてしまったり、徳市が少年に水泳を見せようとパンツ一枚の裸になったところへ美千穂がやって来て慌てて着物を着たら裏返し、却って彼女に手伝ってもらうことになったり、といったユーモラスな描写の連続にさえ叙情性が満ち溢れ、かくして重ねられた詩的ムードが大きな映画的魅力と余韻を生む、そんな作品なのである。いずれにせよ、実際に観るに如くはない。
被写界深度を極端に浅くして背景をぼけぼけにするショットも大変フォトジェニックで、この手法で捉えられた高峰三枝子の粋な美しさには暫し陶然となってしまう。
1938年日本映画 監督・清水宏
ネタバレあり
清水宏では唯一観たことがある「蜂の巣の子供たち」はなかなか素晴らしい作品ではあるものの、さすがにその才能を把握できずにいた。リメイク「山のあなた~徳市の恋~」の製作によりオリジナルの本作が注目された結果、こうしてWOWOWで代表作が5本連続して放映されるのは正に僥倖。喜び勇んで観た最初の一本である本作は名状しがたい傑作である。暫く殆ど忘れ去られた存在になっていた清水宏が天才であるという評判はしっかり確認できる。
二人の按摩・徳市(徳大寺伸)と福市(日守新一)が温泉地を目指して峠を歩いている。彼らを通り越して行った馬車には東京からの美人温泉客・美千穂(高峰三枝子)が乗り、徳市がお世話になる【鯨や】に泊るが、そこで盗難事件が起きる。女が叔父(佐分利信)と一緒に温泉にやって来た少年・研一(爆弾小僧)と親しくなり福市の泊る宿を訪れた時にもまた盗難が発生する。
美千穂に淡い慕情を覚える徳市は警察が動き出したと聞いて挙動不審だった彼女を連れ出すが、やがて彼女の“訳あり”が犯罪ではなくパトロンからの逃避であると知るに至る。いずれにしても彼女は同じ土地に長逗留できない事情を抱え、彼の“目の前”から去っていく。
というお話はあるにはあるが、物語や構成だけでは語りにくい類の作品と言うべし。“名状しがたい”と書いたのは単なる形容ではなく、実際これほど言葉でその素晴らしさを表現するのに苦しめられる映画はそうそうない。基本的に清水監督独自の呼吸やリズムが魅力の核を成す作品と言えるだろうとは思う。従って、映画の呼吸やリズムという概念が解らずストーリーでしか映画を見ることができない人には理解できない境地にある。
まず、序盤按摩の二人が横に並んで歩いている情景をトラックバックで延々と撮っているが、面白い台詞に刻々と変わる景色が何とも言えぬ詩情を醸成する。その間に徳市が並々ならぬ感覚を持ち、健常者以上に物事が見えていることが解る寸法で、例えば「向こうからやって来る子供の集団は赤ん坊を入れて8人半」などと言っているうちに子供たちが通り過ぎ、その後彼らを抜いていく馬車に東京の女が乗っていることもずばり当ててしまう。
こうした彼の素晴らしい“視力”は後半への布石となり、事件を彼女の犯行と思い込んでしまう失敗にも繋がっていくのだが、特に感心させられるのは幕切れで全盲の彼が彼女を“見送る”表現の見事さである。彼女の乗った馬車が温泉町の角を曲がって緩やかな坂道を降りていき、それをゆっくりしたスピードで追うカメラは角を超えたところで固定される。彼の心の目で見た“主観ショット”であると理解される所以で、一期一会に明け暮れ年齢以上に人生経験の豊富だったはずの主人公が“別れの辛さ”を初めて知ってしまう悲劇としての余韻が際立つ。
ここで大事なのはその余韻が劇として理詰めに構成された結果生まれたものではないことを理解する必要性である。
研一少年が美人の姉さんと過ごす時間を叔父さんや徳市に奪われてへそを曲げてしまったり、徳市が少年に水泳を見せようとパンツ一枚の裸になったところへ美千穂がやって来て慌てて着物を着たら裏返し、却って彼女に手伝ってもらうことになったり、といったユーモラスな描写の連続にさえ叙情性が満ち溢れ、かくして重ねられた詩的ムードが大きな映画的魅力と余韻を生む、そんな作品なのである。いずれにせよ、実際に観るに如くはない。
被写界深度を極端に浅くして背景をぼけぼけにするショットも大変フォトジェニックで、この手法で捉えられた高峰三枝子の粋な美しさには暫し陶然となってしまう。
この記事へのコメント
清水宏は通の間では極めて評価の高い作家ですが、戦後児童映画ばかり作っているうちに忘れ去られていったと思われます。
しかし、その評判を確認する為にも今回放映される作品くらいは全て観ておく必要があると思い、勿論全部観ました。
で、作風と特徴は大体把握できましたよ。
細かいお話は後日ですね。
素晴らしかったでしょう!
按摩が主人公というのは趣味としてやや問題ありますが、それを超えて全編詩のような作品だったでしょう。こんな種類の映画はなかなかないですよね。
その他の作品に関しての評価もシュエットさんと大体同じ。
構図の人という意味では、全ての作品が縦の構図から始まっていることに僕は注目しましたよ。
昨日「世紀の楽団」へのコメントに古い映画はあまり好きじゃないと書きましたが
日本の映画に関しては例外です。古い方が大体が面白いのが多いように思います。
半年程前にUNXTで観ましたがこれは良かったです。
よく出来た短編?中編?小説を読んだような詩情を感じました。
実際「按摩」がタイトルに入っている短編小説があったような気がするんですが…
日本の小説をほとんど読まないので定かではないのですが、井伏鱒二とか田山花袋、志賀直哉あたりになかったですかね?
この感じ、海外だとチェーホフとか? モーパッサンはもうちょっとヒリヒリした感じが残りますかね。
人間性善説にも性悪説にも寄りかからず、ましてやベタベタ人情にも流されず、結構なお手前でございました。
吃驚ネタはと言いますとですね、高峰三枝子と高峰秀子が頭の中で混線してしまいまして、高峰秀子がでていると思い込んで観てしまったのです。思い込みとは恐ろしい物です。
「二十四の瞳」より前なのにこんなに妖艶だなんておかしいなぁ、昔の恵比寿麦酒のポスターみたいやん…高峰秀子ってこんな面長やったかな〜とか終始?マークが脳内をぐるぐる回っていました。おかしいですね〜どう見ても高峰三枝子なのに。
吃驚を通り越して認知症外来に回されそうな呆れたネタでした…はぁ…「こんなん相手に漫才やってますねん」と笑って下さい。
余談ですが私の通っていた小学校の通学路に盲学校がありまして、登下校時に未舗装の凸凹道を杖を持った子が2、3人で歩いていた光景を思い出しました。
この映画、と言うか、この記事には思い出があります。
というのもこの記事を書いた翌日朝に膵炎で緊急入院することになり、入院前最後の記事になったからです。
シュエットさんの6月30日のコメントへのレスが7月20日になっているのはそういうことです。
>日本の映画に関しては例外です。古い方が大体が面白いのが多いように思います。
現在の日本映画はリズム(テンポではないです)の悪い映画が多いのに対し、昔の日本映画はリズムが良くて、本当にすっきり見られます。そういうこともあって結果的に面白く観られるのだと思いますね。
>実際「按摩」がタイトルに入っている短編小説があったような
タイトルになっているのは知らないなあ。
志賀直哉の「赤西蠣太」に按摩が出て来たような気がしますが、それではなさそうですね。
>この感じ、海外だとチェーホフとか?
チェーホフに通じるものがありますね。
ちょっとほろ苦いけど、後味が悪くない当たり、正にチェーホフだなあ。
>高峰三枝子と高峰秀子が頭の中で混線してしまいまして、高峰秀子がでていると思い込んで観てしまったのです。
はあ(笑)
子供の頃、名前で混乱することは僕もあったです^^
>登下校時に未舗装の凸凹道を杖を持った子が2、3人で歩いていた光景を思い出しました。
若いうちから見えないというのは大変そうですね。
それに比べれば、僕は視力0.06の近眼ですが、眼鏡をすれば車も運転できる。しかし、段々ぎりぎりになってきて、今年の更新もヒヤヒヤでした。群馬の田舎では、車に乗れないと大変ですから。