映画評「めがね」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2007年日本映画 監督・荻上直子
ネタバレあり
定石的で少し物足りない印象があった荻上直子は前作「かもめ食堂」で一皮むけた印象があり、この新作(と言っても公開は2年以上も前)も好調である。
手法的には前作同様アキ・カウリスマキに似た固定ショットの積み重ねを利用した省略法を駆使、そうした一見素っ気ない描写の行間から情感を滲ませていく。緩やかな移動ショットを随時挿入して印象を柔らかくする工夫もある。
春、とある南の島の空港に眼鏡をかけた女性・小林聡美が降り立ち、光石研の経営する宿屋「ハマダ」に旅行鞄を引きずってやって来る。が、周囲に観光スポットはなく、宿の主人たちの言う「たそがれる」以外にやることはなく、近くの浜辺では毎朝変な体操をしているし、あずま屋でかき氷を食べさせている先客の初老女性もたいまさこが朝になると蒲団の横に座っている。何となく居心地が悪いので、島にもう一つあるという宿泊施設ホテル・パレスに行ってみるが、こちらはもっと変てこな為に結局舞い戻ってくる。途中で歩き疲れて往生しているところへもたい女史が自転車で駆け付ける。小林女史は旅行鞄を置いて自転車に乗る。
前作同様登場人物の背景は殆ど解らない。小林女史は二十代の若者・加瀬亮から「先生」と呼びかけられるので大学の教授か講師ではないかと思われるが、季節外れの春先にこんな南の島に一人旅をするくらいだから構えた生活やしがらみを嫌っているはずなのに、この島の住民たちの「構えのなさ」に比べたらまだまだ生活に関する固定観念があるのだ。それを捨てる象徴が旅行鞄を排除する行為であり、これを契機に構えを捨て、嫌いと言っていたかき氷も食べ、皆と一緒に体操をし、「たそがれる」グループの仲間入りする、というのが言わば映画の結論。
一般的な映画を測る方法で論じてはいけない映画であろうが、それでもその典型的な判断基準である“起承転結”があると思う所以である。
本作の舞台は日本の南の島であることは解るが、空港の名前はカメラのフレームの外にあって読めず、車のナンバーも地名を特定できないようにアレンジされていて、正確にはどこか解らない。一種の桃源郷とでも言うべき設定で、明確にヘルシンキと場所を定めた「かもめ食堂」とは印象が違う。尤も、ヘルシンキを舞台にしたのはどうも影響を受けていると見受けられるカウリスマキに対する表敬くさいが。
また、外国であることと日本であることで人間関係における意味合いが全然違うので、お話の構図が似ているだけで【柳の下のどじょう】と言うのは早計。そもそも似た構図のお話を撮りたがるのは作家性を持っている証左で、荻上女史は益々小津安二郎化が進んでいるのではないかと思わされる。
主要登場人物が眼鏡を掛けていることにも要注目。従って、眼鏡を掛けていないホテル・パレスの女主人・薬師丸ひろ子は主要人物即ち「たそがれる」グループの一員でないことがすぐに解る。作者は眼鏡に、何事にも拘らずに人生を見るギミックとしての意味を持たせているのかもしれない。
しかし、眼鏡グループが【拘りを持たないこと】に拘って見えてしまう矛盾が垣間見えるのは問題で、上出来ながらも、全体として「かもめ食堂」ほど気分良く観られない。
【わたしはカモメ】ならぬ【わたしはメガネ】でした。
2007年日本映画 監督・荻上直子
ネタバレあり
定石的で少し物足りない印象があった荻上直子は前作「かもめ食堂」で一皮むけた印象があり、この新作(と言っても公開は2年以上も前)も好調である。
手法的には前作同様アキ・カウリスマキに似た固定ショットの積み重ねを利用した省略法を駆使、そうした一見素っ気ない描写の行間から情感を滲ませていく。緩やかな移動ショットを随時挿入して印象を柔らかくする工夫もある。
春、とある南の島の空港に眼鏡をかけた女性・小林聡美が降り立ち、光石研の経営する宿屋「ハマダ」に旅行鞄を引きずってやって来る。が、周囲に観光スポットはなく、宿の主人たちの言う「たそがれる」以外にやることはなく、近くの浜辺では毎朝変な体操をしているし、あずま屋でかき氷を食べさせている先客の初老女性もたいまさこが朝になると蒲団の横に座っている。何となく居心地が悪いので、島にもう一つあるという宿泊施設ホテル・パレスに行ってみるが、こちらはもっと変てこな為に結局舞い戻ってくる。途中で歩き疲れて往生しているところへもたい女史が自転車で駆け付ける。小林女史は旅行鞄を置いて自転車に乗る。
前作同様登場人物の背景は殆ど解らない。小林女史は二十代の若者・加瀬亮から「先生」と呼びかけられるので大学の教授か講師ではないかと思われるが、季節外れの春先にこんな南の島に一人旅をするくらいだから構えた生活やしがらみを嫌っているはずなのに、この島の住民たちの「構えのなさ」に比べたらまだまだ生活に関する固定観念があるのだ。それを捨てる象徴が旅行鞄を排除する行為であり、これを契機に構えを捨て、嫌いと言っていたかき氷も食べ、皆と一緒に体操をし、「たそがれる」グループの仲間入りする、というのが言わば映画の結論。
一般的な映画を測る方法で論じてはいけない映画であろうが、それでもその典型的な判断基準である“起承転結”があると思う所以である。
本作の舞台は日本の南の島であることは解るが、空港の名前はカメラのフレームの外にあって読めず、車のナンバーも地名を特定できないようにアレンジされていて、正確にはどこか解らない。一種の桃源郷とでも言うべき設定で、明確にヘルシンキと場所を定めた「かもめ食堂」とは印象が違う。尤も、ヘルシンキを舞台にしたのはどうも影響を受けていると見受けられるカウリスマキに対する表敬くさいが。
また、外国であることと日本であることで人間関係における意味合いが全然違うので、お話の構図が似ているだけで【柳の下のどじょう】と言うのは早計。そもそも似た構図のお話を撮りたがるのは作家性を持っている証左で、荻上女史は益々小津安二郎化が進んでいるのではないかと思わされる。
主要登場人物が眼鏡を掛けていることにも要注目。従って、眼鏡を掛けていないホテル・パレスの女主人・薬師丸ひろ子は主要人物即ち「たそがれる」グループの一員でないことがすぐに解る。作者は眼鏡に、何事にも拘らずに人生を見るギミックとしての意味を持たせているのかもしれない。
しかし、眼鏡グループが【拘りを持たないこと】に拘って見えてしまう矛盾が垣間見えるのは問題で、上出来ながらも、全体として「かもめ食堂」ほど気分良く観られない。
【わたしはカモメ】ならぬ【わたしはメガネ】でした。
この記事へのコメント
この監督は、技術的ということではなく、空気の作り方でますます職人的になりつつありますね。
ドラマではなく、この現在の「空虚」そのものを、肯定も否定もせず、描き出そうとしているように思います。
ただ、マーケティング的には、女性の無意識にマッチするように作られているのが、うまいですね。
>空気の作り方
そうですね。
技術的にも、固定したフレームにヒロインがフレーム・インしてくるショットが何度があって、こういう部分も空気の醸成に貢献しているかなあ、などとも思います。
>肯定も否定もせず
スケッチ的に、観照的に、ですね。
>女性の無意識にマッチ
そうなんでしょうね。
こういうスローライフ的な映画は女性がいかにも好みそうです。
しかし、ちょっと押し付け気味のところがありましょうか?