映画評「そして、私たちは愛に帰る」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2008年ドイツ=トルコ映画 監督ファティ・アキン
ネタバレあり
ドイツに住むトルコ人監督ファティ・アキンがカンヌ映画祭最優秀脚本賞を受賞したドラマ。その受賞も頷ける秀作である。
ドイツのブレーメンで、トルコ人の老人アリ(ツンジェル・クルティズ)が同じトルコ人の中年娼婦イェテル(ヌルセル・キョセ)を見染めて同居を始める。大学教授をしている息子ネジャット(バーキ・ダヴラク)は快く思わないが、彼女がトルコの大学で勉強している娘アイテン(ヌルギュル・イェシルチャイ)に仕送りをしているのを知って同情を寄せる。が、老人はイェテルを殴って死なせてしまい、そんな父親にうんざりした息子はトルコに行って音信の途絶えた娘を探す一方、大学を辞めドイツ語専門書店を買取って店主になる。
ここまでが第一部。
その娘が音信不通になっているのには事情があって、反政府運動の為に当局に追われ遂に母親のいるドイツに流れてくる。母親が見つからず、女子大生のロッテ(パトリシア・ジオクロースカ)の家に住まわしてもらううちに当局に発見され「トルコはEU加盟を検討している民主的な国だから安全」と強制送還、結果刑務所に送り込まれ、彼女を手助けしようとしたロッテは依頼され運んでいる拳銃を子供に奪われて射殺されてしまう。
ここまでが第二部で、二つの死体がトルコにまたトルコから飛行機で送られる映像がシンメトリー(棺の動く方向が逆)に描き出されて強い印象を残す(下の画像参照)が、この二つのすれ違いを受けて始まる第三部はいよいよ佳境で大いなる感銘を観客にもたらす。
結論から言えば、ロッテの母親スザンネ(ハンナ・シグラ)が娘を死に至らしめたアイテンを許してその遺志を引き継ぎ、息子は娘探しを諦めて強制送還された老父を許しに会いに行く。
邦題は<愛に帰る>としているが、もっと具体的に言えば<許しの境地に辿りつく>のである。スザンネがアイテンを許すのは死の直前喧嘩別れした娘を許すのが前提であり、そこに親の愛情があるのは言うまでもない。また、アイテンが抵抗運動をリタイヤするのはロッテが彼女の為に犠牲になり、その母親が優しく手を差し伸べたことにより、暴力の不毛と愛の力に気付くからである。
殺人を犯した老人の息子である【探す男性】と殺された中年女性の娘である【探される女性】が共に一人の老女スザンネと知り合いになりながらすれ違いを重ねる一連の場面は作り物めいているが、構成が巧みな為に運命のいたずらに呆然とさせられ、結果二つの許しと絡み合って大きな感銘の要因になっているのだから、映画で重要なのはやはりテクニックであると思い知らされる。
ドイツにおけるトルコ移民問題、トルコのEU加盟問題や民族問題を絡めているが、詳細を知らずともドラマを理解する上で何の支障もないと思われる。それらがドラマの要素として融け込み、社会的メッセージとして突出する不自然さがないのも良い。
「そして僕は途方に暮れる」ならぬ「そして、僕はトルコに暮らす」でした。
2008年ドイツ=トルコ映画 監督ファティ・アキン
ネタバレあり
ドイツに住むトルコ人監督ファティ・アキンがカンヌ映画祭最優秀脚本賞を受賞したドラマ。その受賞も頷ける秀作である。
ドイツのブレーメンで、トルコ人の老人アリ(ツンジェル・クルティズ)が同じトルコ人の中年娼婦イェテル(ヌルセル・キョセ)を見染めて同居を始める。大学教授をしている息子ネジャット(バーキ・ダヴラク)は快く思わないが、彼女がトルコの大学で勉強している娘アイテン(ヌルギュル・イェシルチャイ)に仕送りをしているのを知って同情を寄せる。が、老人はイェテルを殴って死なせてしまい、そんな父親にうんざりした息子はトルコに行って音信の途絶えた娘を探す一方、大学を辞めドイツ語専門書店を買取って店主になる。
ここまでが第一部。
その娘が音信不通になっているのには事情があって、反政府運動の為に当局に追われ遂に母親のいるドイツに流れてくる。母親が見つからず、女子大生のロッテ(パトリシア・ジオクロースカ)の家に住まわしてもらううちに当局に発見され「トルコはEU加盟を検討している民主的な国だから安全」と強制送還、結果刑務所に送り込まれ、彼女を手助けしようとしたロッテは依頼され運んでいる拳銃を子供に奪われて射殺されてしまう。
ここまでが第二部で、二つの死体がトルコにまたトルコから飛行機で送られる映像がシンメトリー(棺の動く方向が逆)に描き出されて強い印象を残す(下の画像参照)が、この二つのすれ違いを受けて始まる第三部はいよいよ佳境で大いなる感銘を観客にもたらす。
結論から言えば、ロッテの母親スザンネ(ハンナ・シグラ)が娘を死に至らしめたアイテンを許してその遺志を引き継ぎ、息子は娘探しを諦めて強制送還された老父を許しに会いに行く。
邦題は<愛に帰る>としているが、もっと具体的に言えば<許しの境地に辿りつく>のである。スザンネがアイテンを許すのは死の直前喧嘩別れした娘を許すのが前提であり、そこに親の愛情があるのは言うまでもない。また、アイテンが抵抗運動をリタイヤするのはロッテが彼女の為に犠牲になり、その母親が優しく手を差し伸べたことにより、暴力の不毛と愛の力に気付くからである。
殺人を犯した老人の息子である【探す男性】と殺された中年女性の娘である【探される女性】が共に一人の老女スザンネと知り合いになりながらすれ違いを重ねる一連の場面は作り物めいているが、構成が巧みな為に運命のいたずらに呆然とさせられ、結果二つの許しと絡み合って大きな感銘の要因になっているのだから、映画で重要なのはやはりテクニックであると思い知らされる。
ドイツにおけるトルコ移民問題、トルコのEU加盟問題や民族問題を絡めているが、詳細を知らずともドラマを理解する上で何の支障もないと思われる。それらがドラマの要素として融け込み、社会的メッセージとして突出する不自然さがないのも良い。
「そして僕は途方に暮れる」ならぬ「そして、僕はトルコに暮らす」でした。
この記事へのコメント
前作「愛より強く」にはガツンとやられてしまった。この時にファティ・アキンというドイツ系トルコ人監督の存在を知り、こんな形で移民文化が融合されヨーロッパ映画は新しい展開をしていくんだなって思った。同時上映された「太陽に恋しても」良かった。彼はイスタンブールまで音楽を求めてドキュメンタリーも撮っている。「太陽に恋して」→「愛より強く」そして本作「そして、わたしたちは愛に帰る」。ドイツとトルコ人である自身の内面の軌跡を辿っているような。トニー・ガトリフとはまた違う、でも二つの文化圏にある自身の中で異なる二つのものの狭間でアイデンティティを問わずにはおれない彼らの思いが痛い。胸にず~んと余韻の残るラストシーンが彼の思いでもあるんでしょうね。
ハンナ・シグラがいい味出してたわ。
>ファティ・アキン監督
衛星映画生活にどっぷり浸かっていますと、ミニシアター系の作品にはどうも疎くなり、僕はこの監督は初めて知りました。
「愛より強く」というタイトルはどこかで聞いたことがありますが、或いは「藍より青く」の勘違いかもしれません。(笑)
>トニー・ガトリフ
より僕みたいな感性に乏しい大衆ファンにはピンと来ると思います。
作り方が彼より論理的で技術的に分析しやすい感じがあるので。
>アイデンティティ
という問題を絡めながら、結局それを凌駕する愛(映画が明確に打ち出したのは愛の一つの様態である許しだと思いますが)という大きな概念が我々を圧倒するわけですね。
>ハンナ・シグラ
ふーむ、確かにそうなんですが・・・僕はシモーヌ・シニョレの晩年の姿を思い出して、西洋人の体型は、げに変わりやすいと嘆息致しました。^^;