映画評「ダウト~あるカトリック学校で~」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2008年アメリカ映画 監督ジョン・パトリック・シャンリー
ネタバレあり
ジョン・パトリック・シャンリーが自作の戯曲を映画用に脚色、自ら演出に当たった心理サスペンス。
1964年、ニューヨークのカトリック教会兼学校。旧弊なキリスト教原理主義者の校長メリル・ストリープが、生徒に人気のある神父フィリップ・シーモア・ホフマンの進歩的な考えを快く思わず、唯一の黒人生徒ジョゼフ・フォスターと不適切な関係即ち性的な関係があると憶測、前にいた教会の尼僧に連絡を取ったと嘘を付き、神父を追い出してしまう。
プロットは至って単純だが、誤解され易い作品ではないかと思う。
一つは校長が尼僧に連絡をしたと告げたことから神父が辞任することになる経緯から、校長同様に「彼が同性愛行為を認めた」と理解される可能性だが、辞任には他の理由も考えられるので断定することはできない。
寧ろ断定してはいけないのだ。本作のテーマは“いかに根拠のない疑い(噂)が不幸や悲劇を招くか”だから、断定してしまっては作品の主旨に合わなくなる。映画の客観描写も全くそれを疑わせる事実に触れていない。勿論描いていない部分であるから否定もできない。要はどちらでも良いのである。
まして、最後の校長の告白から彼女も同性愛だったと理解するのはもっと妙であろう。彼女が「疑いが・・・」と言っているのは彼に対する疑いを止める力がなかったという告白に他ならない。
この場面は、作者が徹底して築き上げて来た校長の鬼のような部分と対比される人間的な弱さを鮮やかに描き出す為に置かれている。彼女は自らの弱さを教会の戒律の中に押し込めてきた。その拠り所を失う強迫観念が彼女を追い込み、極めて抽象的な理由で革新の象徴たる神父を排斥せしめんとするのである。また、少年の母親の具体的な発言も校長の考えの曖昧さを見事に露呈させる。
さて、このお話のモチーフとなっているのはケネディー大統領亡き後1964年全米に強烈に吹き始めた変革の風で、革新が旧弊を追いやろうとしていた時代の様相がくっきりと浮かび上がる。強風やその結果を実際に取り込んで変化や噂を映像として表そうとしたのも印象深い。但し、噂の喩え話が映像になるのは些かやりすぎ。
カメラワークから疑惑ムードや緊張感を高める為に古風にも映りかねないダッチ・アングル(斜めの構図)を多用しているのも1964年の閉鎖的な教会を舞台にしていることを考えれば適切なアイデアと言うべきだろう。また、真上からの俯瞰撮影の多さはヒロインを観る神の視線を意識したものであり、彼女もまた神を観る(上の画像右)。
舞台的ではあるががっちりしたお話を支えているのは何と言っても出演者の絶妙な配役と好演。メリルは悪鬼ぶりと終盤における弱さとのコントラストが鮮やか、“歩く疑惑”ホフマンには配役自体に意味がある。その間に挟まれて動揺する新米教師エイミー・アダムズや少年の母親に扮するヴィオラ・デーヴィスも出色。
僕の採点にも疑いありです(ちょっと甘め)。
2008年アメリカ映画 監督ジョン・パトリック・シャンリー
ネタバレあり
ジョン・パトリック・シャンリーが自作の戯曲を映画用に脚色、自ら演出に当たった心理サスペンス。
1964年、ニューヨークのカトリック教会兼学校。旧弊なキリスト教原理主義者の校長メリル・ストリープが、生徒に人気のある神父フィリップ・シーモア・ホフマンの進歩的な考えを快く思わず、唯一の黒人生徒ジョゼフ・フォスターと不適切な関係即ち性的な関係があると憶測、前にいた教会の尼僧に連絡を取ったと嘘を付き、神父を追い出してしまう。
プロットは至って単純だが、誤解され易い作品ではないかと思う。
一つは校長が尼僧に連絡をしたと告げたことから神父が辞任することになる経緯から、校長同様に「彼が同性愛行為を認めた」と理解される可能性だが、辞任には他の理由も考えられるので断定することはできない。
寧ろ断定してはいけないのだ。本作のテーマは“いかに根拠のない疑い(噂)が不幸や悲劇を招くか”だから、断定してしまっては作品の主旨に合わなくなる。映画の客観描写も全くそれを疑わせる事実に触れていない。勿論描いていない部分であるから否定もできない。要はどちらでも良いのである。
まして、最後の校長の告白から彼女も同性愛だったと理解するのはもっと妙であろう。彼女が「疑いが・・・」と言っているのは彼に対する疑いを止める力がなかったという告白に他ならない。
この場面は、作者が徹底して築き上げて来た校長の鬼のような部分と対比される人間的な弱さを鮮やかに描き出す為に置かれている。彼女は自らの弱さを教会の戒律の中に押し込めてきた。その拠り所を失う強迫観念が彼女を追い込み、極めて抽象的な理由で革新の象徴たる神父を排斥せしめんとするのである。また、少年の母親の具体的な発言も校長の考えの曖昧さを見事に露呈させる。
さて、このお話のモチーフとなっているのはケネディー大統領亡き後1964年全米に強烈に吹き始めた変革の風で、革新が旧弊を追いやろうとしていた時代の様相がくっきりと浮かび上がる。強風やその結果を実際に取り込んで変化や噂を映像として表そうとしたのも印象深い。但し、噂の喩え話が映像になるのは些かやりすぎ。
カメラワークから疑惑ムードや緊張感を高める為に古風にも映りかねないダッチ・アングル(斜めの構図)を多用しているのも1964年の閉鎖的な教会を舞台にしていることを考えれば適切なアイデアと言うべきだろう。また、真上からの俯瞰撮影の多さはヒロインを観る神の視線を意識したものであり、彼女もまた神を観る(上の画像右)。
舞台的ではあるががっちりしたお話を支えているのは何と言っても出演者の絶妙な配役と好演。メリルは悪鬼ぶりと終盤における弱さとのコントラストが鮮やか、“歩く疑惑”ホフマンには配役自体に意味がある。その間に挟まれて動揺する新米教師エイミー・アダムズや少年の母親に扮するヴィオラ・デーヴィスも出色。
僕の採点にも疑いありです(ちょっと甘め)。
この記事へのコメント
おっしゃるようにこの作品は同性愛に焦点を当てたものではありませんが、この間もカトリック教会における小児愛の問題が浮かび上がっていますね。
白洲正子さんの「両性具有」論にもありますが、昔の武家社会や寺院社会では稚児の存在が当たり前であったようですね。しかし中国のような「宦官」文化にならなかったことに日本文化の特殊性もありそうです。
やっぱりこういう感じ、疑心暗鬼猛ダッシュ!
の映画の類いは好きですね~(^ ^)
細部は忘れましたが
とにかく観応えがありましたね。
>出演者の絶妙な配役と好演
シンプルな内容ももちろんでしたが
巧い素材選びの勝利もあるでしょう。
聖職者と言えども人間ですから、そういう問題と無縁でいることはなかなか難しいでしょうね。
>昔の武家社会や寺院社会
そのようです。
時代小説にたまに出てきますね。
>「宦官」文化
技術がなかったという説もあるようですが、精神的背景もあるかもしれませんね。
台詞の応酬とか、演技の充実とか、起承転結とか、演劇的要素では満足しやすい作品でしたね。
御記事を拝読致しますと、姐さんは舞台と映画の違いに関して不満を覚えたようですが、僕にはまあ努力が十分伺える印象でした。
配役がとにかく良かったですね。
ラストでメリルの周りで風が起こり、落ち葉が風に翻弄され舞い上がる様こそがまさに人間の心に沸き起こるDOUBT。変り行く時代。映像ならではの表現など入れてるんだけど、案外とストレートかな?と。いささか眠さを感じた作品でもありましたけど…。P様は辛口評価だったけ、この後に同じく舞台劇の映画化の「フロスト×ニクソン」が公開され、私にはこっちの方が面白かったナァ。
TBします。返しはいいですよ。ご自愛くださいね。
僕はこの単刀直入ぶりが気に入りました。
ただ、作者が舞台裏でイラク戦争絡みのネタばらしをしたのは気に入りません。(笑)
そんなことは勘の良い人なら言わないでも解りますよ。
>「フロスト×ニクソン」
☆★は結構進呈しましたけどね。
いつの時代から見た話なのか見えて来なかったのが気に入らなかったです。
>TB
コメントはできませんが、TBは致しますよ。いや、させてください。(笑)
ストリープ演じた先生は、老いた尼僧に食卓でさりげなく手助けしたり、やさしいところもある人に描かれていて、うまいなあと思いました。
>ちょっと男の子にしては?
nesskoさんも僕と同じころにご覧になったようですが、印象的だったのでしょうね、よく記憶されていらっしゃいます。
>ピンクパンジーというのはオカマ
そうでしたか。知りませんでしたよ。
バレンチノの話も面白い。
>どう裁けばよかったのか、単純には決められない
本作は「疑い」がテーマですから、そういう作り方をしたのでしょうね。さもないと身も蓋もない作品になりかねなかった。
>ストリープ演じた先生
きついところもありましたが、彼女は優しい女性だったように思います。あのきつさは弱さを見せない防御姿勢だったのでしょう。