映画評「若者のすべて」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1960年イタリア映画 監督ルキノ・ヴィスコンティ
ネタバレあり
ルキノ・ヴィスコンティとしては1948年に発表したネオ・レアリスモ作品「揺れる大地」の第二部のように位置づけて良い秀作である。公開された当時日本では「太陽がいっぱい」で人気が爆発したアラン・ドロン目当てに集まった女性客が多かったに違いない。
南部の農村地帯から北部ミラノに長男ヴィンチェンツォを頼ってパロンディ家の母親(カティーヌ・バクシヌー)と次男以下四人の息子たちがやって来る。一家の大黒柱が亡くなったのだ。
翌日から家と仕事を探すことになる一家だが、次男シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)は長男の通っていたボクシング・ジムのボクサーになり、三男ロッコ(ドロン)もクリーニング屋に勤めながらボクシングを習い始める。シモーネは長男が家に匿ったことから知り合った街娼ナディア(アニー・ジラルド)と懇ろになり、その為にクリーニング屋のマダムからブローチをかすめたりするが、彼女はそういうことを嫌がって出奔する。
およそ1年後徴兵されて赴いた寄宿地でロッコは刑務所を出所したばかりのナディアと再会、深い仲になってミラノに戻った為シモーネとの間にいざこざが起こる。ロッコは借金を抱えた兄の為にプロボクサーになるが、その甲斐なくシモーネは最終的に彼女を殺してしまう。それでも純朴なロッコはシモーネを責めることが出来ない。
ダンテの「神曲」にも出て来るイタリアでも一番古い名家に属するヴィスコンティは当初プロレタリアをテーマに作品を作ったが、50年代中旬から自らのアイデンティティである貴族を扱い始めネオ・レアリスモとは多少趣きを異にする作風を取り込み、徐々にそれが定着、本作はプロレタリアを扱う最後の作品となった。
当時「ネオ・レアリスモではない」と批判されたらしいが、そんな枠組みは映画を簡単に説明する上では必要でも、個々の作品においてはどうでも良いことである。
実際リアリズムに拘りすぎたロベルト・ロッセリーニは良い作品を作り続けることは出来ず、リアリズムに根差しながら早くからドラマ性を打ち出したフェデリコ・フェリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、そしてヴィスコンティの方が長い間映画的に価値の高い作品を生み続けた。そもそも嘘をどう上手くつくかが商業映画の勝負であり、その嘘を最初から排除してしまうネオ・レアリスモやその延長上にある作品は映画としては面白味が薄くなりがちであると僕は思う。
一般論はともかく、本作の基盤はプロレタリアの苦闘にありつつも、テーマは「揺れる大地」に続いて“敗北”である。ブログ「時代の情景」(ブログ友達トムさん)によれば、ヴィスコンティ自身は“半ば敗北の物語”と語っているらしい。
本作で断然興味深いのはロッコの人物造形である。リアリズム至上主義の向きには嘘っぽい人物像と思われるにちがいないが、命題提示の為に嘘っぽい人物を敢えて作ったのである。つまり、真の理解のない善意ではシモーネのような弱く流されやすい人間は救えないということであり、一種の聖人であるロッコは無力であるというのである。ロッコは善人故に却って罪悪感を背負わなければならない。
そこに社会の現実を写し撮ることにしか興味のない映像作家にはまず作れない奥深いドラマ性がある。ある時点からヴィスコンティは貧困層の過酷な現実より人間存在そのものを観るようになった。プロレタリアを描くのを止めたのは、結局、階級ではなく人間とその敗北に焦点を変えたからだろう。敗北にプロレタリアもブルジョワも貴族階級もありはしない。
因みに、日本で最初に公開された時は177分から118分に短縮されていた為お話が飛び飛びになっていたらしく、ふさわしい評価を得られなかった。但し、この完全版でも、僕がうっかり観ていたせいかもしれないが、ナディアが何故服役したか正確には解らない。このように、高度なレベルの瑕疵ではあるが、話術的に多少の不満あり。ジュゼッペ・ロトゥンノ撮影による画面は冷え冷えとした空気を感じさせ秀逸。
イタリア的水墨画。イタリア的人間喜劇。
1960年イタリア映画 監督ルキノ・ヴィスコンティ
ネタバレあり
ルキノ・ヴィスコンティとしては1948年に発表したネオ・レアリスモ作品「揺れる大地」の第二部のように位置づけて良い秀作である。公開された当時日本では「太陽がいっぱい」で人気が爆発したアラン・ドロン目当てに集まった女性客が多かったに違いない。
南部の農村地帯から北部ミラノに長男ヴィンチェンツォを頼ってパロンディ家の母親(カティーヌ・バクシヌー)と次男以下四人の息子たちがやって来る。一家の大黒柱が亡くなったのだ。
翌日から家と仕事を探すことになる一家だが、次男シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)は長男の通っていたボクシング・ジムのボクサーになり、三男ロッコ(ドロン)もクリーニング屋に勤めながらボクシングを習い始める。シモーネは長男が家に匿ったことから知り合った街娼ナディア(アニー・ジラルド)と懇ろになり、その為にクリーニング屋のマダムからブローチをかすめたりするが、彼女はそういうことを嫌がって出奔する。
およそ1年後徴兵されて赴いた寄宿地でロッコは刑務所を出所したばかりのナディアと再会、深い仲になってミラノに戻った為シモーネとの間にいざこざが起こる。ロッコは借金を抱えた兄の為にプロボクサーになるが、その甲斐なくシモーネは最終的に彼女を殺してしまう。それでも純朴なロッコはシモーネを責めることが出来ない。
ダンテの「神曲」にも出て来るイタリアでも一番古い名家に属するヴィスコンティは当初プロレタリアをテーマに作品を作ったが、50年代中旬から自らのアイデンティティである貴族を扱い始めネオ・レアリスモとは多少趣きを異にする作風を取り込み、徐々にそれが定着、本作はプロレタリアを扱う最後の作品となった。
当時「ネオ・レアリスモではない」と批判されたらしいが、そんな枠組みは映画を簡単に説明する上では必要でも、個々の作品においてはどうでも良いことである。
実際リアリズムに拘りすぎたロベルト・ロッセリーニは良い作品を作り続けることは出来ず、リアリズムに根差しながら早くからドラマ性を打ち出したフェデリコ・フェリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、そしてヴィスコンティの方が長い間映画的に価値の高い作品を生み続けた。そもそも嘘をどう上手くつくかが商業映画の勝負であり、その嘘を最初から排除してしまうネオ・レアリスモやその延長上にある作品は映画としては面白味が薄くなりがちであると僕は思う。
一般論はともかく、本作の基盤はプロレタリアの苦闘にありつつも、テーマは「揺れる大地」に続いて“敗北”である。ブログ「時代の情景」(ブログ友達トムさん)によれば、ヴィスコンティ自身は“半ば敗北の物語”と語っているらしい。
本作で断然興味深いのはロッコの人物造形である。リアリズム至上主義の向きには嘘っぽい人物像と思われるにちがいないが、命題提示の為に嘘っぽい人物を敢えて作ったのである。つまり、真の理解のない善意ではシモーネのような弱く流されやすい人間は救えないということであり、一種の聖人であるロッコは無力であるというのである。ロッコは善人故に却って罪悪感を背負わなければならない。
そこに社会の現実を写し撮ることにしか興味のない映像作家にはまず作れない奥深いドラマ性がある。ある時点からヴィスコンティは貧困層の過酷な現実より人間存在そのものを観るようになった。プロレタリアを描くのを止めたのは、結局、階級ではなく人間とその敗北に焦点を変えたからだろう。敗北にプロレタリアもブルジョワも貴族階級もありはしない。
因みに、日本で最初に公開された時は177分から118分に短縮されていた為お話が飛び飛びになっていたらしく、ふさわしい評価を得られなかった。但し、この完全版でも、僕がうっかり観ていたせいかもしれないが、ナディアが何故服役したか正確には解らない。このように、高度なレベルの瑕疵ではあるが、話術的に多少の不満あり。ジュゼッペ・ロトゥンノ撮影による画面は冷え冷えとした空気を感じさせ秀逸。
イタリア的水墨画。イタリア的人間喜劇。
この記事へのコメント
学生の時にわざわざ、この完全版のリバイバル上映を母と一緒に銀座まで観に行きました。
(同時期に「ルードヴィヒ」も観たので、その時期はわたし的ヴィスコンティ月間でした 笑)
観終わった後に、まるで自分自身が一つの人生をやり終えたような気持ちになるくらい、深い人間ドラマに心をワシ掴みにされました!
本作はアラン・ドロンの「瞳だけで何かを伝える」魅力無しには成立しない作品だと思います。
ピカソの「青の時代」の絵画に出てくる人物のような、哀しい瞳がとても印象的でした。
この作品は絶対、リメイク不可能ですね。
というか、アラン・ドロンの出演作は原則としてリメイクは却下ですが!!
>「ルードヴィヒ」
ヴィスコンティ・ブームがあって初めて「若者のすべて」完全版公開があったのでしょうねえ。
「ルードヴィヒ」も多分そうでしょうねえ。
晦渋な「家族の肖像」が何故あんなにブームになったのか僕は理解できませんけど(笑)。
>観終わった後に、まるで自分自身が一つの人生をやり終えたような気持ち
僕も当時観たので、何となく解ります。
四男が一番考えに客観性がありバランスが取れていましたね。言わば、彼が作者の立場なんでしょう。
今回は、時間の空いた昼間に観たので、あっさり観てしまった感あり^^;
こういう作品は暗い映画館でじっくり観ないとね。
>アラン・ドロンの「瞳だけで何かを伝える」魅力
RAYさんのこの表現が僕は好きです。
思うに、眼力とはまた少し違うタイプの俳優でしょうね。
>リメイク
やはりヴィスコンティの場合は配役や美術を含めた総合力なので、リメイクは無理でしょう。お話だけ追っても面白くも何ともないものになってしまう。
単なる美男俳優だけじゃなくてと~ても
お仕事熱心だった、というのがトムさんからの
受け売りもございますが(笑)本作も含め
往年の彼の出演作を観ていての私の最近の感想。
正直な話し、トムさんのドロンへの
あの「熱さ」が脳裏にインプットされて
いなければこの「若者のすべて」も
いつも以上に終始一貫してスクリーンを
凝視してはいなかったと私は思うのです。
プロフェッサーを通してトムさんを
紹介していただいたことにあらためて
感謝申し上げたいと存じます。
プロフェッサーおっしゃるところの
同じ敗北という観点からしても
ヴィスコンティ表現の華麗なる転身の
一歩前の記念碑的作品なのでしょうね~
いやどちらにしてもその壮大な人間ドラマに
関しての映画的総合表現力の厚さには感服です。
>トムさんのドロンへのあの「熱さ」
僕にとってもドロンはご贔屓ですが、トムさんの熱意の前には問題となりません。
そして、トムさんには、監督でも俳優でもジャンルでも一つに拘って映画を観ると、僕のように大雑把に捉えて採点を付けるという作業とはぐっと違う映画鑑賞の世界が広がることを教えてもらいましたねえ。
いずれにしても今更真似もできないので、僕は大雑把鑑賞法を貫こうとは思います^^
>華麗なる転身の一歩前の記念碑的作品
確かに、質素なネオ・レアリスモの素朴な作風から、絢爛豪華な美術を駆使した完全主義者ぶりに180度変わったように思われる一方、テーマ的には“敗北”を貫いたと言えると思います。この点については僕自身も昨年「揺れる大地」を書いている時に初めて気付きました。
同様に華麗に転身したように見えるフェリーニの「甘い生活」と同じような位置にある作品でしょうか。そう言えば、あの傑作も1960年ですよ。
心が震えるほど感動的です。
やはり、ドロンにおいては「太陽がいっぱい」、ヴィスコンティにおいては「揺れる大地」「イノセント」までは至ってないのですね。う~む、深い。
11月頃、ヴィスコンティ関連の記事をアップしてましたので、それも含めてTBしました。最近はオカピーさんのように要点を得た鋭い記事を目指して、「自分としては」思い切って省くところは省こう、と意識はしてるんですよ。
オカピーさんは、
>真に優れた写実は創造的であること
であると主張されていたと思います。わたしは、それで、はっとしました。何と鮮明で本質的なのだろう、と・・・。
そういう意味では黒澤作品が、その典型ですよね。
それにしても姐さんのコメントも、たいへんうれしいですね。一人でもアラン・ドロンがフィルム・ノワールのスター「だけ」ではないと理解してくれる人が増えてほしいです。しかしながら、ドロンの全盛期を実体験されていることは、わたしには羨望です。
>敗北にプロレタリアもブルジョワも貴族階級もありはしない。
わたしも、この間久しぶりに観た「ル・ジタン」で同じような感想を持ちました。ヴィスコンティは敗北を美学にまで高めましたが、もしかしたら、彼は勝利を描く資質を持っていなかったのではないだろうかとも思います。本人がそのことに気づいたときに、愛するプロレタリアの敗北を描くことをやめて、貴族やブルジョアの敗北を描くようになっていったのかもしれません。
考えすぎですかね・・・(笑)。
では、また。
確かに、ナディアの部分は引っ掛かりましたし、その他にも流れがスムーズでないと感じないでもない個所がありましたが、この作品の優れた全体構想の中では意味のない問題かもしれませんし、採点もその時の気分で変わりますから。
「イノセント」は寧ろ大衆映画即ちメロドラマ的な良さがぐっと前面に出されて、単純な僕の波長に合っただけではないかと自分では思っているんですけどね^^
>真に優れた写実は創造的であること
何だか大評論家みたいですね(笑)。
折に触れて色々な表現で同じようなことを申しておりますが、現実そのもので現実を表現するなんて芸がなくつまらないではないですか?
>ドロンの全盛期
僕がペーペーの映画ファンだった頃もまだ(第二期?)全盛期で、次々と封切られ、旧作が繰り返し放映されていましたね。
その中でも印象的だったのが「太陽がいっぱい」と「サムライ」で、これらが僕を映画マニアにしてしまったのでした。
>勝利を描く資質を持っていなかったのではないだろうか
僕の説明では、実は、プロレタリアを取り上げるのをやめた積極的な理由にはならないので、面白い説だと思いますよ。
ただ、映画作りのモチーフとして、階級ではなく“人間そのもの”に焦点を絞っていったのは間違いないでしょうね。
お返事、TBお気遣いなく…です。
やっぱりヴィスコンティ、素晴らしいですネェ。
本作はアラン・ドロンがらみでトムさんから突かれるみたいにして(トムさんゴメン…笑)記事アップしたものです。長いばかりですが…。
ここ数年前からヴィスコンティ作品を見直すたびに、いいなぁって思います。
「白夜」などもいいなぁって、半ばうっとりしながら観ております。
本作などもテーマは重く深いのだけれど、映像は観るものを魅了し酔わせるほどの美しさがある。ヴィスコンティ作品って人間の醜悪な部分を生々しく描いても、その映像はやはり美しい。
>返事
少なくとも自分のところでは軽く返事をしないと。^^
>その映像はやはり美しい。
単に技術的な美しさではないんでしょうね。対象への追究が映像に深みを与えるのでしょう。
残る記事へのレスはぼちぼちさせて戴きますね。<(_ _)>