映画評「SR サイタマノラッパー」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2009年日本映画 監督・入江悠
ネタバレあり
白人ラッパー、エミネムのサクセス・ストーリー「8 Mile」のタイトルをもじった"8000 Miles"が国際タイトルであるということから判るように、埼玉ならぬサイタマの、深谷ならぬフクヤから出でて国際的なラッパーになろうと奮闘する一人のニートIKKU(駒木根隆介)の物語である。
彼は、一家の農地を継いでブロッコリで収入を得る道があるMIGHTY(奥野瑛太)とおっぱいパブでバイトをするTOM(水澤伸吾)と共にライブを開こうと悪戦苦闘しているが、頼りにしていた先輩は持病が悪化して病死、先輩格の三人組に誘われるようにMIGHTYが上京してしまった為に解散状態になり、遂に食堂で働き始めるが、そこへ交通監視員になったTOMが現れ、ラップで心境を語り合う。
「8 Mile」には程遠い挫折の連続物語で、思慕を寄せているのに口喧嘩ばかりしている元AV女優の同級生(みひろ)にも町から去られたり、これほど冴えない主人公も珍しい。
しかし、長回しのセミドキュメンタリー手法で撮られた彼の行状は夢を見ながら底辺の生活を続けている若者の現実をリアルに伝え、終盤にはしゅんとさせられる。最後ラップで頑張ろうと誘いかけるIKKUに対しTOMがそんなものは見果てぬ夢だと応答するラップでの掛け合いにはじーんとしないではいられない。即興であれほど上手く歌詞を作れるなら、二人はいつでもメジャーになれそうな気がする。
さて、個人的に音楽としてのラップは余り好きではない。ラップは音楽である前に文学であると思っている。押韻(厳密には脚韻)が至上命題であるラップに日本語は今一つ馴染まないので、日本のラップは益々聴く気にならない。
何故日本語はラップに合わないのかと言えば、一つは母音が5つしかない音声学上の問題、もう一つは語尾が一定の用言(動詞、形容詞、形容動詞)が文章の最後に来るという文法上の特徴である。語尾が決まっている以上脚韻は簡単である代わりにまるで美しくない。日本語において押韻ではなく、五七調など音数による詩歌が発達したのにはそういう事情があると思う。恐らく日本語を含むアルタイ語系文化圏で脚韻が発達したところはないであろう。
対して、語尾に来る品詞が決まっていない諸言語では音数の代わりに脚韻でリズムを取る純粋な韻文が発達しやすい。欧州諸言語でも、同じ語尾が多いロシア語などより、英語の押韻はとりわけ美しいと思う。
かくして日本語で無理に押韻すると駄洒落に感じられることが多く、近頃は練磨されて来たとは言え日本語のラップは聴こうとは思わない。日本語のソングライターで、僕の感性に一番ピンと来る押韻を作るのは、桑田佳祐だ。
フカヤではなく何故にフクヤだったのかねえ。
2009年日本映画 監督・入江悠
ネタバレあり
白人ラッパー、エミネムのサクセス・ストーリー「8 Mile」のタイトルをもじった"8000 Miles"が国際タイトルであるということから判るように、埼玉ならぬサイタマの、深谷ならぬフクヤから出でて国際的なラッパーになろうと奮闘する一人のニートIKKU(駒木根隆介)の物語である。
彼は、一家の農地を継いでブロッコリで収入を得る道があるMIGHTY(奥野瑛太)とおっぱいパブでバイトをするTOM(水澤伸吾)と共にライブを開こうと悪戦苦闘しているが、頼りにしていた先輩は持病が悪化して病死、先輩格の三人組に誘われるようにMIGHTYが上京してしまった為に解散状態になり、遂に食堂で働き始めるが、そこへ交通監視員になったTOMが現れ、ラップで心境を語り合う。
「8 Mile」には程遠い挫折の連続物語で、思慕を寄せているのに口喧嘩ばかりしている元AV女優の同級生(みひろ)にも町から去られたり、これほど冴えない主人公も珍しい。
しかし、長回しのセミドキュメンタリー手法で撮られた彼の行状は夢を見ながら底辺の生活を続けている若者の現実をリアルに伝え、終盤にはしゅんとさせられる。最後ラップで頑張ろうと誘いかけるIKKUに対しTOMがそんなものは見果てぬ夢だと応答するラップでの掛け合いにはじーんとしないではいられない。即興であれほど上手く歌詞を作れるなら、二人はいつでもメジャーになれそうな気がする。
さて、個人的に音楽としてのラップは余り好きではない。ラップは音楽である前に文学であると思っている。押韻(厳密には脚韻)が至上命題であるラップに日本語は今一つ馴染まないので、日本のラップは益々聴く気にならない。
何故日本語はラップに合わないのかと言えば、一つは母音が5つしかない音声学上の問題、もう一つは語尾が一定の用言(動詞、形容詞、形容動詞)が文章の最後に来るという文法上の特徴である。語尾が決まっている以上脚韻は簡単である代わりにまるで美しくない。日本語において押韻ではなく、五七調など音数による詩歌が発達したのにはそういう事情があると思う。恐らく日本語を含むアルタイ語系文化圏で脚韻が発達したところはないであろう。
対して、語尾に来る品詞が決まっていない諸言語では音数の代わりに脚韻でリズムを取る純粋な韻文が発達しやすい。欧州諸言語でも、同じ語尾が多いロシア語などより、英語の押韻はとりわけ美しいと思う。
かくして日本語で無理に押韻すると駄洒落に感じられることが多く、近頃は練磨されて来たとは言え日本語のラップは聴こうとは思わない。日本語のソングライターで、僕の感性に一番ピンと来る押韻を作るのは、桑田佳祐だ。
フカヤではなく何故にフクヤだったのかねえ。
この記事へのコメント
日本語とラップの相性に関しては同じような見方だと思います。
詩をいろいろ研究していた時には、やはり音韻論ではなく音数論で考えていたと思います。
しかし、僕には珍しくこの作品には★9をつけました。
すごく現代が切り取られた青春映画だなと感心したんですよ。
>日本語とラップの相性
いつか書きたいと思っていたのですが、事実上の映画ブログなのでなかなかチャンスがありませんでした。本作を観て遂にチャンスがやってきました(笑)。
>すごく現代が切り取られた青春映画
そうですね。
僕は、セミドキュメンタリー手法がちょっと苦手なところがあるので、★は7つ分に留めましたが、凄く今の社会が感じられました。
たまたま立ち寄らせてもらった者です
気になった点がありましたので言わせてください
>ラップは音楽である前に文学であると思っている。
どれだけHip Hopをご存じか分かりませんが、
見当違いの見解を、Hip Hopを知らない人たちに披露されるのはちょっと・・
実際パーティが発祥であるラップのリリックは文学とよべるものは数少ないはず。
ブラックミュージックの歴史を紐解けば、ブルース、ドゥーワップ、レゲェ等
他人のスタイルを「盗んで」更新していく伝統上にHip Hopもあると僕は思います。
最近の日本語ラップもお聞きになっていないようですが
最近の若手は小さなころから空気のようにHip Hopを吸って育ったのか、
日本語の限界なんて初めからないかのようなラップをする人がたくさんいます。
新世代の桑田圭祐がごろごろいるジャンルこそ、現在の日本語ラップです。
>見解
自分の見解に見当違いもないでしょう。
見解とは自分の思うところですから。
これが絶対的事実であると僕が宣言したならともかく。
>ラップ
と言いつつ、貴殿の解説にもちょっと疑問がありますぞ。
黒人音楽が「盗んで」更新していくのは僕もそう思っていますが、そもそも押韻自体、西洋文学が土壌ですよ。アフリカ言語の文法は知らないのでその点については触れられません。
また、wikipediaの解説を読みますと、ラップのルーツはアフリカン・グリオ(日本で言えば元来語り手により伝えられたとされる「平家物語」みたいなものですな)にあり、黒人運動の中で発展したという説もあるようです。
wikipediaを信ずるならラップは音楽以前に文学でしょう。
ラップのリリックの何をもって文学でないと仰るか解りませんが、押韻している紛れもない事実を以ってすれば、「音楽以前に文学」という僕の見解もあながち見当はずれではないのでは?
少なくとも言葉遊びは立派な文学ですよ。
西洋にも大昔から即興詩人という職業があり、立派な文学者です。
そして、「音楽以前に文学である」は僕の最大の賛辞であります。
ラップが文学であって何の不都合があります?
他方、白人たちの作るロックも歌詞の大半は押韻していて、文学的な要素も相当大い。しかるに、彼らの音楽はメロディー優先ですから、詩がなくても成立します。プログレッシブ・ロックなどその典型でしょう。
メロディーでだけで音楽として十分成り立つラップがあったら教えてください。聴いてみます。
続く。
>限界
7,8年前女友達も似たようなことを言っていましたよ。
日本語がSVC若しくはSVOの文法にでもならない限り、最近の日本語ラッパーが知ろうが知るまいが限界は限界なので、カネを出してまで聴こうとは思いませんが、馬鹿にしているわけではありません。
ただ、アイドルのやるラップもどきが紅白などで堂々と披露されるのは虫唾が走りますね。
kotさんにとって彼らの曲若しくは歌詞はどうなのですか?