報告その2 (母の死 ドキュメント)
過日ご連絡申し上げた母のその後ですが、残念ながら4月10日午前10時35分永眠致しました。満82歳、後5日で83回目の誕生日を迎えるところでした。そのタイミング故に、各方面から色々なご案内を戴いており、そのことが悲しみを余計に増す結果となっております。
4月11日に通夜、4月12日に葬儀・告別式をとり行い、無事終了致しました。
皮肉なことに、4月11日は当初の退院予定日で、その入院もなければ4月12日には父の入所している介護老人保健施設催しの花見に参加する予定でした。全く人の運命は解らないもの、未だにその不在が信じられない気持ちです。
直接の死因は脳梗塞ですが、原因の原因は心房細動という心臓の病気です。これに関して僕は悔やんでも悔やみきれないミスを犯したのでした。自分は優しい息子と思っていましたが、自分の都合を優先したとんでもないバカ息子でした。下に母の病歴・病変を記して、その馬鹿さ加減を晒すことに致します。どうしても自分が許せないからです。
因みに、父は昨年4月以来入院・入所でおらず、他の家人は勤めの為日中は僕が母と一緒に過ごすのが日常でして、平日家事は殆ど母親がこなしておりました。
その前に、前の記事に励ましのコメントを残して戴いた方々にお礼を申し上げます。別途コメント返しを致す所存です。また、内容故にコメントを残せなかったものの心配して戴いた方もいらっしゃると思います。同様にお礼を申し上げます。
記
2010年12月9日 「腰が痛いのでシルバーカーを買って頂戴」と言うので、近所のホームセンターで購入。
実はこの買い物が僕のミスを誘発する。
2011年1月4日 新年の挨拶に訪れた姉が「祖母ちゃん(母のこと)が、ハアハア言っているよ」と報告する。
しかし、僕が日常的に感じるほどではないので、さほど問題とも思わず過小評価する。
2011年2月 ハアハアが感じられることが多くなる。しかし、愚かな僕はまだ動かない。
2011年3月上旬 ハアハアの頻度が増す。「シルバーカーを使うと大丈夫かい」と母に訊くと、
「うん」という返事だったので、腰のせいと思い込む。
この時点で僕が本格的な病院へ連れて行けば95%以上の確率で
母を死なせずに済んだのではないか。
2011年3月下旬 この頃から夜眠れなくなったらしい。
2011年3月31日 我慢強い母が「眠れないのでトイレばかり行く」と珍しく愚痴る。
普段から昼間行かず夜頻繁に起きてトイレに行くので僕は余り気にせず終い。
2011年4月1日 「(眠れないので)近所の精神科へ連れて行って欲しい」と言われたので、
眠れない理由は精神的なものではないと思うものの市内のKクリニックへ連れていく。
しかし、予約制らしく4月7日に来て下さいと言われる。
2011年4月2日 「胸が重苦しい」と言われ、母が嫁に来て以来ずっと通っている町医者のU医院に診て貰う。
「心房細動を起しているが、さほど心配は要らないだろう」と薬を3種類貰う。
この瞬間眠れない原因も判明する。
2011年4月3日 夕刻下肢に激痛が走り、日曜担当の公立U病院へ診て貰う。
約1時間半後医師から「心房細動のせいで血栓が足の動脈で詰まった。
心臓の回りに水も溜っている」と言われ、痛み止めの薬だけを貰う。
「専門の病院に入院した方が良い」ということなので、
昨年父が狭心症の手術を受けた隣の市のJ病院に紹介状を書いて貰う。
しかし、血栓を作る病気であり脳梗塞を起す可能性のあることを考えれば、
総合病院の公立T病院と言うべきだった。
帰宅後調べてみたら、足に血栓が詰まった場合は6時間以内の処置が重要とあった。
休日とは言え、血栓を溶かす薬も出さす、救急車を呼べとも言わない医師は無責任すぎる。
2011年4月4日 J病院で診て貰い、そのまま入院。
この時点では全く運の良いことに、血栓が分裂してそのまま流れ
一部別のところで止まったものの、ごく小さいものなので痛みも取れ、
1~2週間の入院でOKと言われる。
2011年4月5日 入院用の小物を持って行き、様子を伺うと、全く元気そのものに見える。
2011年4月7日 退屈だろうと図書館から大きな字体の本2冊を借りて持って行く。
益々元気そうで、「今日と明日レントゲンを取って問題なければ11日に退院だそうだよ」
と話す。
が、これが元気な母親を見る最後となる。僕が母の元気な姿を見た最後の人間だった。
2011年4月8日 午後8時半頃病院から「手足の力が入らなくなった」と連絡があり、慌てて駆けつける。
先生から「脳梗塞」という説明を受けている最中に近くのRK附属病院へ搬送する為
救急車が到着。その時点で母はまだ意識があった。
9時半にRK附属病院に到着、「お名前は?」との看護師の問いかけに声を発する。
正しい発声ではなかったものの僕にはちゃんと自分の名前を言ったように聞こえた。
2011年4月9日 入院の為の小物を持ち、待ち合せて姉と兄とで駆けつける。
昨晩あれほどの苦しみ方を見た後だけに気持ち良く眠っている様子に一瞬安心する。
しかし、実際には昏睡状態に入っていて、実質的にこの時点で望みがなくなった。
僕が気になったのは、J病院が血栓を出来にくくする薬を3日分しか
出していないこと。この計算で行くと8日の夕方には飲んでいない。
そのせいで発症したのならこの病院にもミスがあるのではないか?
2011年4月10日 朝一に病院から「自発的な呼吸が不可能になりつつある」と連絡あり、
今度は大人の家族全て連立って出かける。
午前10時ごろ「人工呼吸器で延命措置をしますか」と言われるが、
そのまま逝かせることにし、10時35分永眠。
以上
4月11日に通夜、4月12日に葬儀・告別式をとり行い、無事終了致しました。
皮肉なことに、4月11日は当初の退院予定日で、その入院もなければ4月12日には父の入所している介護老人保健施設催しの花見に参加する予定でした。全く人の運命は解らないもの、未だにその不在が信じられない気持ちです。
直接の死因は脳梗塞ですが、原因の原因は心房細動という心臓の病気です。これに関して僕は悔やんでも悔やみきれないミスを犯したのでした。自分は優しい息子と思っていましたが、自分の都合を優先したとんでもないバカ息子でした。下に母の病歴・病変を記して、その馬鹿さ加減を晒すことに致します。どうしても自分が許せないからです。
因みに、父は昨年4月以来入院・入所でおらず、他の家人は勤めの為日中は僕が母と一緒に過ごすのが日常でして、平日家事は殆ど母親がこなしておりました。
その前に、前の記事に励ましのコメントを残して戴いた方々にお礼を申し上げます。別途コメント返しを致す所存です。また、内容故にコメントを残せなかったものの心配して戴いた方もいらっしゃると思います。同様にお礼を申し上げます。
記
2010年12月9日 「腰が痛いのでシルバーカーを買って頂戴」と言うので、近所のホームセンターで購入。
実はこの買い物が僕のミスを誘発する。
2011年1月4日 新年の挨拶に訪れた姉が「祖母ちゃん(母のこと)が、ハアハア言っているよ」と報告する。
しかし、僕が日常的に感じるほどではないので、さほど問題とも思わず過小評価する。
2011年2月 ハアハアが感じられることが多くなる。しかし、愚かな僕はまだ動かない。
2011年3月上旬 ハアハアの頻度が増す。「シルバーカーを使うと大丈夫かい」と母に訊くと、
「うん」という返事だったので、腰のせいと思い込む。
この時点で僕が本格的な病院へ連れて行けば95%以上の確率で
母を死なせずに済んだのではないか。
2011年3月下旬 この頃から夜眠れなくなったらしい。
2011年3月31日 我慢強い母が「眠れないのでトイレばかり行く」と珍しく愚痴る。
普段から昼間行かず夜頻繁に起きてトイレに行くので僕は余り気にせず終い。
2011年4月1日 「(眠れないので)近所の精神科へ連れて行って欲しい」と言われたので、
眠れない理由は精神的なものではないと思うものの市内のKクリニックへ連れていく。
しかし、予約制らしく4月7日に来て下さいと言われる。
2011年4月2日 「胸が重苦しい」と言われ、母が嫁に来て以来ずっと通っている町医者のU医院に診て貰う。
「心房細動を起しているが、さほど心配は要らないだろう」と薬を3種類貰う。
この瞬間眠れない原因も判明する。
2011年4月3日 夕刻下肢に激痛が走り、日曜担当の公立U病院へ診て貰う。
約1時間半後医師から「心房細動のせいで血栓が足の動脈で詰まった。
心臓の回りに水も溜っている」と言われ、痛み止めの薬だけを貰う。
「専門の病院に入院した方が良い」ということなので、
昨年父が狭心症の手術を受けた隣の市のJ病院に紹介状を書いて貰う。
しかし、血栓を作る病気であり脳梗塞を起す可能性のあることを考えれば、
総合病院の公立T病院と言うべきだった。
帰宅後調べてみたら、足に血栓が詰まった場合は6時間以内の処置が重要とあった。
休日とは言え、血栓を溶かす薬も出さす、救急車を呼べとも言わない医師は無責任すぎる。
2011年4月4日 J病院で診て貰い、そのまま入院。
この時点では全く運の良いことに、血栓が分裂してそのまま流れ
一部別のところで止まったものの、ごく小さいものなので痛みも取れ、
1~2週間の入院でOKと言われる。
2011年4月5日 入院用の小物を持って行き、様子を伺うと、全く元気そのものに見える。
2011年4月7日 退屈だろうと図書館から大きな字体の本2冊を借りて持って行く。
益々元気そうで、「今日と明日レントゲンを取って問題なければ11日に退院だそうだよ」
と話す。
が、これが元気な母親を見る最後となる。僕が母の元気な姿を見た最後の人間だった。
2011年4月8日 午後8時半頃病院から「手足の力が入らなくなった」と連絡があり、慌てて駆けつける。
先生から「脳梗塞」という説明を受けている最中に近くのRK附属病院へ搬送する為
救急車が到着。その時点で母はまだ意識があった。
9時半にRK附属病院に到着、「お名前は?」との看護師の問いかけに声を発する。
正しい発声ではなかったものの僕にはちゃんと自分の名前を言ったように聞こえた。
2011年4月9日 入院の為の小物を持ち、待ち合せて姉と兄とで駆けつける。
昨晩あれほどの苦しみ方を見た後だけに気持ち良く眠っている様子に一瞬安心する。
しかし、実際には昏睡状態に入っていて、実質的にこの時点で望みがなくなった。
僕が気になったのは、J病院が血栓を出来にくくする薬を3日分しか
出していないこと。この計算で行くと8日の夕方には飲んでいない。
そのせいで発症したのならこの病院にもミスがあるのではないか?
2011年4月10日 朝一に病院から「自発的な呼吸が不可能になりつつある」と連絡あり、
今度は大人の家族全て連立って出かける。
午前10時ごろ「人工呼吸器で延命措置をしますか」と言われるが、
そのまま逝かせることにし、10時35分永眠。
以上
この記事へのコメント
前の日に調子が悪そうなので、病院につれていくか?でも4日後に定期健診に行くから・・・と思ったのが失敗だったかと後悔してます。
どうやっても後悔は残るんです。
あのときこうしてれば・・・ああしてればと・・・と。
いまだに、オフクロが好きだった食べ物を見つけたりすると買って帰ろうとしたり、オフクロが好きな番組をやっている教えてやろうと思って・・・そこで、もういないんだと気がついたりします。
時が癒すといいますが、なかなか時間がかかりますようです。
ご自愛ください。
心よりお祈り申し上げます。
大事な方を亡くすという大きなドラマには
どんなに悔やんでも致し方ない事柄が必ず
どなたでも伴うことが多々ございますのは常。
突然の喪失、心労の上に積み重なる後悔の念は
このたびの記事から充分こちらにも伝わりました。
それに加え今後のプロフェッサーの体調も心配。
どうかくれぐれもご無理なさらずにね。
前回も含め当方へのレスなど
気にかけることなど全く無用ですからね。
私も姉と兄のいる三人兄姉の末っ子なものですから、母親には小さい頃に甘えた記憶がいつまでも消えません。
上の方(↑)も書かれていますが、後悔の念は自然と湧いてくるのでしょう。
ここは、その気持ちを“生涯の感謝”に切り替えて御母堂様を見送られては如何でしょう。故人もそれをお望みと思いますよ、きっと。
ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
お気遣い有難うございます。
ねこのひげさんも辛い経験をされているようですね。
僕の場合は実質的に2ヶ月半の猶予があったのに、病院へ連れて行くことができなかった自分に腹が立ちどうしようもありません。しかも、昨日つらつらと「どうして病院へ連れていかなかったのか?」考えているうちに、非常にバカバカしくてとても他人には打ち明けられない理由らしきものに思い当たり、激しい自己嫌悪に陥っています。バカなだけでなくダメ人間でした。
>時が癒すといいますが、なかなか時間がかかりますようです。
そう思います。特にねこのひげさんやぼくのように「チャンスがあったのに」と思える立場の人は余計ですね。
前回を含めて色々ご心配をお掛けいたしてすみません。
また、お気遣い有難うございます。
昨日考えているうちに、母を病院へ連れて行かなかった理由らしきものに行き当たり、それが非常に利己的なものなので、自分という人間が本当に情けなくなってきました。
しかし、「お前が倒れたら俺たちが困る」と兄たちも言ってくれているので、なるべく気を紛らわせることを色々やろうと思っています。なかなか難しいのですが。母も僕が苦しんでいるのを観て喜ばないと思いますしね。
母が優しすぎたのが残念です。
お気遣い有難うございます。
>末っ子
そうでしたか。
子供の時もそうですが、こちらに戻ってからも随分自分の好きなようにさせて貰いました。甘え過ぎて、今回のような失敗を起こしたのだと思います。
>生涯の感謝
そうでしょうね。そうしましょう。
お悔やみの言葉、有難うございます。
利口ぶって色々書いていますが、人間はやはり行動で価値が出ますね。
躊躇することが多い僕はどうもダメです。
でも、これから少しずつ元気を出していこうと思います。
ただあまりご自分を責めないでください。
くれぐれもご自愛ください。
ではまた!
周囲も、僕がしっかり生きて行くことこそ供養になると、言ってくれていますが、軽率で自分勝手な考えからかけがえのない母を失ったことは言葉に表現しがたいものがあります。
僕自身が病気になってはそれこそ母が悲しみ、また周囲に迷惑をかけますから、それだけは避けようと思います。
お悔やみ、コメント、有難うございました。
震災に大きなショックを受けブログに入ることすらできていませんでした。
久しぶりに今、私的にPCを開き、まずは用心棒さんの当ブログへのコメントから、震災に関わっては、オカピーさん方の被害はそれほどでもなかったとのことでしたので安心して、こちらにお伺いしたのですが、お母様に関わるこちらの記事が眼に入り、ショックを受けています。
遅ればせながら、本当にご愁傷のことと察します。
オカピーさんのような方をお育てになったお母様、ご人格者であったのでしょうね。
わたくしの友人に大切な息子を亡くした者がおります。また、今回の震災でも・・・、それらの悲しみの大きさは察するにはあまりあるものです。
オカピーさんがお元気でいられ、お母様を見送ることができたこと、最大の親孝行ではなかったかと思います。
では、また。
幸いにも地震は大したことがなかったのですが、その後我が家に大震災が起きてしまいました。
80を過ぎても素晴らしい記憶の持ち主でした。僕の勘違いと消極性から全く残念なことをしました。悔やんでも悔やみきれないというのはこのことでしょうね。
>人格者
自分の母親だから言うのではないですが、あれほど自分のことを考えず家族の為に働いた人はまずいないのではないかと思います。我慢強いという面もありましたが、病気に関してはもっと軽いうちに言って欲しかった。
そんな母故に僕に甘えが出来てしまったのかもしれません。不肖の息子です。
トムさんの仰ることを前向きに考え、さらに元気でいられるように努めるように致します。
どうも有難うございました。