喪中映画評「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」
☆☆(4点/10点満点中)
2010年日本映画 監督・三池崇史
ネタバレあり
現在喪中であります。喪失感以上に罪悪感に苦しめられております。為に理解もままならない状態で鑑賞したり、頭が整理できないまま書いたものは“喪中映画評”というタイトルとし、他の映画評とは区別することに致しました。そんな状態で映画評などと称するのも甚だ失礼とは存じますが、悪しからず。なるべく早く自分である程度納得できるものが書けるように努めます。
「ゼブラーマン」の7年ぶりの続編で、前作から引き続き監督は三池崇史と脚本は宮藤官九郎。
前作から15年後の2025年、恐らくは「バットマン」のゴッサム・シティを意識したゼブラシティ。そこは朝夕の5分間だけ公権力者によるあらゆる違法行為が許される無法地帯となるが、その結果犯罪件数が減ったとされている。その犠牲となったうちの一人が“ゼブラーマン”即ち哀川翔で、銃弾を100発も撃ち込まれた状態で抵抗組織“白馬の家”に運び込まれ“ゼブラーマン”ファンだった教え子と再会するが、記憶を失っていることが判明。
彼が記憶を失い髪も白くなった原因は今は都知事となった元防衛庁職員ガダルカナル・タカが前作の事件の後遠心分離機を使って彼の中の善悪を分けたことによるもので、その悪の部分が肌も露わな黒い衣装を身に付けた妙齢美人・仲里依紗(ゼブラクィーン)。彼女は“父親”を亡き者にして世界をコントロールする権力を得ようと、エイリアンが寄生している少女(永野芽郁)を探し出そうとする。
「ダークナイト」でもテーマになっていた人間の二面性をテーマにしたお話で、白が善、黒が悪という二面性の象徴がシマウマだったと判明するのが少し興味深い。
が、前作はコミカルさとシリアスさがなかなか上手く調和されていた印象があるのに対し、本作ではシリアスさの途中に茶々を入れられる感じが強くて感心できず。ゼブラクィーンがいとも簡単に人情に目覚めてしまうのも分離した意味がなくつまらない。
2010年日本映画 監督・三池崇史
ネタバレあり
現在喪中であります。喪失感以上に罪悪感に苦しめられております。為に理解もままならない状態で鑑賞したり、頭が整理できないまま書いたものは“喪中映画評”というタイトルとし、他の映画評とは区別することに致しました。そんな状態で映画評などと称するのも甚だ失礼とは存じますが、悪しからず。なるべく早く自分である程度納得できるものが書けるように努めます。
「ゼブラーマン」の7年ぶりの続編で、前作から引き続き監督は三池崇史と脚本は宮藤官九郎。
前作から15年後の2025年、恐らくは「バットマン」のゴッサム・シティを意識したゼブラシティ。そこは朝夕の5分間だけ公権力者によるあらゆる違法行為が許される無法地帯となるが、その結果犯罪件数が減ったとされている。その犠牲となったうちの一人が“ゼブラーマン”即ち哀川翔で、銃弾を100発も撃ち込まれた状態で抵抗組織“白馬の家”に運び込まれ“ゼブラーマン”ファンだった教え子と再会するが、記憶を失っていることが判明。
彼が記憶を失い髪も白くなった原因は今は都知事となった元防衛庁職員ガダルカナル・タカが前作の事件の後遠心分離機を使って彼の中の善悪を分けたことによるもので、その悪の部分が肌も露わな黒い衣装を身に付けた妙齢美人・仲里依紗(ゼブラクィーン)。彼女は“父親”を亡き者にして世界をコントロールする権力を得ようと、エイリアンが寄生している少女(永野芽郁)を探し出そうとする。
「ダークナイト」でもテーマになっていた人間の二面性をテーマにしたお話で、白が善、黒が悪という二面性の象徴がシマウマだったと判明するのが少し興味深い。
が、前作はコミカルさとシリアスさがなかなか上手く調和されていた印象があるのに対し、本作ではシリアスさの途中に茶々を入れられる感じが強くて感心できず。ゼブラクィーンがいとも簡単に人情に目覚めてしまうのも分離した意味がなくつまらない。
この記事へのコメント
仲里依紗はおもしろいですね。
惜しむらくは布の量が多すぎです。ゴチャゴチャつけすぎ!
『ヤッターマン』のドロンジョもそうですが、最小限にして欲しかったですね。(^_-)-☆
>仲里依紗
作品によってころころタイプが変わりますね。
>惜しむらくは布の量が多すぎ
お子様も見るというのが前提なのでしょう^^