映画評「私は二歳」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1962年日本映画 監督・市川崑
ネタバレあり

才人・市川崑監督の異色作。キネマ旬報1位の作品にしては現在の評価は余り高くないし、僕も30年ほど前映画館で観た時は才気を認めつつもやや辛口の評価をした記憶があるが、現在の心境に照らしてみると「さすがだな」と思う部分が多い。

まずは赤ん坊の主観で語られるという発想で、後年の「ベイビー・トーク」というアメリカ映画よりずっと先んじた面白さがあるが、これは勿論大人である原作者(松田道雄)なり脚本を書いた和田夏十の視点が入ったわけで実際赤ん坊がどう考えているか正確に知る由もない。原作者はその道の専門家であり、赤ん坊の心理というのは少なくとも大人とは違うことは確かであろうから、映画として面白ければとやかく言う必要もあるまい。

前半の舞台は団地で、僕がまだ幼少時代だった昭和半ば団地住まいがブームになったらしく、その辺りがよく反映されているが、後半、20か月の息子(鈴木博雄)を抱えた船越英二の夫、山本富士子の妻が、夫の母・浦辺粂子のいる実家へ移ることで、今観るとこの映画の社会派的な部分がそこはかとなく出てくる。つまり、狭い団地にいては収入面を含めて子供は一人がせいぜいだが、広くて面倒を見てくれる祖母がいることでもう一人や二人の子供が出来るという現実が浮き彫りになるのだ。
 超高齢者社会になった現在を考える時、【家】の問題を描き続けた小津安二郎の作品群を色々と観てきた20年くらい前から僕は、昭和30年代から政治家と役人は何かをしておくべきだったと思っている。30年前に観た時は“社会性”という言葉を使いつつもさすがに今のようにこの点について強く感じることはなかった。

もう一つ、本作は人生とは何かということをこれまた自然と打ち出しているような気もする。
 新人の母親と父親が四苦八苦しながら子供を育てる。赤ん坊の育て方を巡って家で面倒を見ている彼女と稼いで帰ってくる彼がバッティングし、子供を甘やかしたくない彼女と出来るだけ可愛がりたい義母もバッティングしながら時には女性同士として彼に対して共同戦線を張るという、ごく当たり前の生活模様に現在の僕は人生の意義を感じずにはいられないのだ。

自分以外の誰かの為に物を為すと同時に誰かに為して貰うことから人は幸福を得る、という人生哲学を人間は知らず綿々と続けて来たのだとスタインベックの「怒りの葡萄」を読んでから思うようになって、この作品も言外にそれを表しているような気がする。かくして、急死した祖母が月に見える終盤のワン・ショットにはユーモアの中に言葉に尽くせない感銘を覚えずにはいられないのだ。

この記事へのコメント

ねこのひげ
2011年10月18日 07:46
役人の無駄遣いは、浅香の公務員宿舎でも問題になってますが、年金問題でも、30年後なんてわからないから使っちゃえ!みたいなことを書いた書類が見つかって問題になったことがありますね。
東大というのは税金どろぼうを生み出すところかと思いましたですよ。

連中は自分たちの幸福しか考えていないのかと悲しくなりますね。

小津の世界から学んでほしい連中がゾロゾロいますよね。
金の儲け方の本ばかり読んで、『怒りの葡萄』は読んでいないでしょう。
オカピー
2011年10月18日 21:22
ねこのひげさん、こんにちは。

無駄遣いにも腹が立ちますが、小津安二郎が核家族は進んでいくと文学的な立場で警鐘を鳴らしていましたので、経済成長のことばかりでなく、核家族を防ぐ方法などもっと真剣に考えるべきだったですね。

>『怒りの葡萄』
アメリカ文学は苦手ながら、この作品は涙なしに読めなかったですよ。僕の心情と重なるところもあったせいもありますが。

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