映画評「マイ・バック・ページ」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2011年日本映画 監督・山下敦弘
ネタバレあり
僕が東京の大学に入ったのは学生運動が終焉して暫く経ってからだが、壁にはまだ赤いスプレーで書かれた文字が生々しく残っていた。数年早く大学に入っていても僕はきっとノンポリを決めていただろう。僕らは学生運動を卒業した先輩たちから“新人類”と名付けられた世代の年長組である。
さて、ボブ・ディランの名曲「マイ・バック・ページ」をディラン本人ではなくカバーしたバーズのバージョンを去年の今頃よく聴いていた。本作CMで奥田民夫+真心ブラザーズ版を聞いたからではなく、この曲の入ったLP「ヤンガー・ザン・イエスタデイ」のLP評を書く為に聴いていたのである。その後オリジナルが入ったディランの「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」も昨年後半よく聴いた。
原作を書いたのは映画の終盤同様未だに「キネマ旬報」に書いている(映画)評論家の川本三郎氏。但し、ディランの曲は原題はMy Back Pagesと複数なので、もしディランの曲から付けたのだとしたら日本語のタイトルに補足的に付けられる場合複数がふさわしい。
東大を出て希望の新聞社に入ったものの学生運動を支持していた東都ジャーナル(即ち朝日ジャーナル)ではなく週刊東都(即ち週刊朝日)に回された妻夫木聡(即ち川本三郎)が、1970年学生運動末期に自分のアイデンティティの為に過激な活動に走ろうとしていた松山ケンイチに接近して彼のグループの活動に半ば協力することになることを承知で取材料を払ってスクープを狙うが、彼らが武器を盗みに入った時に自衛官を殺した上に武器奪取に失敗した為自滅して逮捕された後、証拠を隠滅した罪で執行猶予付きの有罪判決を受けた為会社を懲戒解雇、好きな映画の評論で飯を食うことになる。
学生運動はともかく過激な活動で世を変えようと思うことは、本物であろうと、本作の松山君のようにある意味自分探しの為の粗忽者であろうと、ノンポリの僕はとても賛同できない。一般人は勿論自分たちのポリシーに反するから、或いは権力側に属する者だからと言って殺して良い理由などありはしない。彼のセクトごっこが甘っちょろいことなど、本作にとって実はどうでも良いことである。
本作の目的は、松山君同様に、妻夫木君即ち若き川本氏の本物への憧れが結局成就しない悲しい青春像を描くことと最後まで観ればおぼろげに判って来る。成就しないことが悲しいのではない、そんなインチキで自分の存在を確認しなければならない人間、なかんずく若者が悲しいのである。
涙はラスト・シーンだけに登場するが、映画の中で涙特に「真夜中のカーボーイ」のダスティン・ホフマンが流す涙は二度も話題になり、妻夫木君が一緒に映画を見に行った高校生アイドル忽那汐里(即ち保倉幸恵)も「きちんと泣ける男の人が好き」と言っている。その四年後僅か22歳で悲惨な自殺を遂げる彼女は人前で泣ける男の正直さ、一種の強さ、覚悟の程に気付いていたようである。
僕の勝手な想像だが、実際はともかく映画の中の川本氏はこれで一段階強くなったに違いないし、ラスト・シーンの涙は自分のいるべきところを確認した或る種の感慨であり、そこに本作が単なるセンチメンタルな回顧ではなく、人間が生きる上で避けられない普遍的な感情を描いていると思われる所以がある。
しかるに、これだけ事実関係が判っていて、かつ、特に具体的に社会的問題を指摘しているわけでもないのに、実名を隠していることは気に入らない。法律大国であるはずのアメリカの映画の大半が(製作会社の法務部門がしっかりしているせいもあって)実名で描いているのに比べると、どうも日本人の必要以上の遠慮深さは見ていて気分がモヤモヤしてくる。それと1970年頃の言葉使いとしては“半疑問もどき”などおかしな点が幾つかあったのも、あの時代に思春期を過ごしていたポスト学生運動世代として少々気になった。
山下敦弘はお得意のおとぼけは一切封印しているが、いつもより少々控え目ながら固定カメラの長回しを使った映像に映画らしい迫力がある。
「仮名手本忠臣蔵」が発表された江戸時代じゃないんだからさ、実名で作ってよ。
2011年日本映画 監督・山下敦弘
ネタバレあり
僕が東京の大学に入ったのは学生運動が終焉して暫く経ってからだが、壁にはまだ赤いスプレーで書かれた文字が生々しく残っていた。数年早く大学に入っていても僕はきっとノンポリを決めていただろう。僕らは学生運動を卒業した先輩たちから“新人類”と名付けられた世代の年長組である。
さて、ボブ・ディランの名曲「マイ・バック・ページ」をディラン本人ではなくカバーしたバーズのバージョンを去年の今頃よく聴いていた。本作CMで奥田民夫+真心ブラザーズ版を聞いたからではなく、この曲の入ったLP「ヤンガー・ザン・イエスタデイ」のLP評を書く為に聴いていたのである。その後オリジナルが入ったディランの「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」も昨年後半よく聴いた。
原作を書いたのは映画の終盤同様未だに「キネマ旬報」に書いている(映画)評論家の川本三郎氏。但し、ディランの曲は原題はMy Back Pagesと複数なので、もしディランの曲から付けたのだとしたら日本語のタイトルに補足的に付けられる場合複数がふさわしい。
東大を出て希望の新聞社に入ったものの学生運動を支持していた東都ジャーナル(即ち朝日ジャーナル)ではなく週刊東都(即ち週刊朝日)に回された妻夫木聡(即ち川本三郎)が、1970年学生運動末期に自分のアイデンティティの為に過激な活動に走ろうとしていた松山ケンイチに接近して彼のグループの活動に半ば協力することになることを承知で取材料を払ってスクープを狙うが、彼らが武器を盗みに入った時に自衛官を殺した上に武器奪取に失敗した為自滅して逮捕された後、証拠を隠滅した罪で執行猶予付きの有罪判決を受けた為会社を懲戒解雇、好きな映画の評論で飯を食うことになる。
学生運動はともかく過激な活動で世を変えようと思うことは、本物であろうと、本作の松山君のようにある意味自分探しの為の粗忽者であろうと、ノンポリの僕はとても賛同できない。一般人は勿論自分たちのポリシーに反するから、或いは権力側に属する者だからと言って殺して良い理由などありはしない。彼のセクトごっこが甘っちょろいことなど、本作にとって実はどうでも良いことである。
本作の目的は、松山君同様に、妻夫木君即ち若き川本氏の本物への憧れが結局成就しない悲しい青春像を描くことと最後まで観ればおぼろげに判って来る。成就しないことが悲しいのではない、そんなインチキで自分の存在を確認しなければならない人間、なかんずく若者が悲しいのである。
涙はラスト・シーンだけに登場するが、映画の中で涙特に「真夜中のカーボーイ」のダスティン・ホフマンが流す涙は二度も話題になり、妻夫木君が一緒に映画を見に行った高校生アイドル忽那汐里(即ち保倉幸恵)も「きちんと泣ける男の人が好き」と言っている。その四年後僅か22歳で悲惨な自殺を遂げる彼女は人前で泣ける男の正直さ、一種の強さ、覚悟の程に気付いていたようである。
僕の勝手な想像だが、実際はともかく映画の中の川本氏はこれで一段階強くなったに違いないし、ラスト・シーンの涙は自分のいるべきところを確認した或る種の感慨であり、そこに本作が単なるセンチメンタルな回顧ではなく、人間が生きる上で避けられない普遍的な感情を描いていると思われる所以がある。
しかるに、これだけ事実関係が判っていて、かつ、特に具体的に社会的問題を指摘しているわけでもないのに、実名を隠していることは気に入らない。法律大国であるはずのアメリカの映画の大半が(製作会社の法務部門がしっかりしているせいもあって)実名で描いているのに比べると、どうも日本人の必要以上の遠慮深さは見ていて気分がモヤモヤしてくる。それと1970年頃の言葉使いとしては“半疑問もどき”などおかしな点が幾つかあったのも、あの時代に思春期を過ごしていたポスト学生運動世代として少々気になった。
山下敦弘はお得意のおとぼけは一切封印しているが、いつもより少々控え目ながら固定カメラの長回しを使った映像に映画らしい迫力がある。
「仮名手本忠臣蔵」が発表された江戸時代じゃないんだからさ、実名で作ってよ。
この記事へのコメント
あの時代に参加していた人によれば、部活動気分だったそうですけど、実名だされると不都合な人間も多いのでしょうな~
主人公は勿論、彼の勤めていた企業名など実名でも特に問題があるとも思えないお話でしたがねえ。日本の製作会社がハリウッドのように法務部門がしっかりしていないんでしょう。
>妻夫木クン
やはり食文化の変化であの手の草食系の顔が増えてきたのでしょうかねえ。
>長塚圭史
彼は、ふてぶてしいというか、何かをやっていそうな顔をしていますね。怖い顔と言ったら怒られそうですが。
私も妻夫木君のあの雰囲気は、あの時代の朝日ジャーナルの記者にしては軽くて可愛いすぎると思ったクチです。
でも映画を観た友人にそんな感想を話したら、彼女のお友達(その人も映画を観てます)のお姉さまが作家さんで、当時川本三郎が原稿を取りに家によく来ていたとかで、その人の言うには「あんな感じだったよ。ボンボンみたいで」との事でした。
でも顔の造作は違いますよね、
川本三郎は村上春樹にそっくりだし(笑)
朝日ジャーナルにも色んなタイプの記者がいたという事ですね。
朝日ジャーナルと平凡パンチは当時の都会派団塊男子の御用雑誌(笑) もうちょっとベタなのが明星でしたか・・・
私もノンポリでしたが(笑)どうもノンポリティカルという意味の定義が当時のセクト間抗争の中にいた人達は一般とは違うらしいです。
言葉の本来の意味は「政治運動に無関心」ぐらいの感じで間違いないんでしょうが、当時、運動の渦中にいた人によると、政治に関心はあるが属するセクトがない人の事だという認識もあったようです。一般的な共通認識だったかどうかは分かりませんが。
深く関わった人は傷が深くて沈黙しがちだし、上っ面舐めた程度の人は逆に訳の分からん自慢話をするし、困ったことです。
「代々木」といえば国立競技場ではなくて、未だに当時の某セクトが真っ先に浮かんでくる人が結構いるようです。
ジョン・レノンが全共闘のゲバヘルを被ってる写真を見たときはびっくりして呆れました~
>でも顔の造作は違いますよね、
>川本三郎は村上春樹にそっくりだし(笑)
妻夫木君のような新しいタイプの顔じゃあないですね。
>どうもノンポリティカルという意味の定義
>運動の渦中にいた人によると、政治に関心はあるが属するセクトがない
>人の事だという認識もあったようです。
そういう感じは理解できますね。
>「代々木」といえば国立競技場ではなくて、未だに当時の某セクトが
>真っ先に浮かんでくる人が結構いるようです。
病気ですな(笑)。
>ジョン・レノンが全共闘のゲバヘルを被ってる写真を見たときは
>びっくりして呆れました~
「パワー・トゥ・ザ・ピープル」でしたか。
あれは、小野洋子の趣味でしょうね。しかし、印象が良くない。