映画評「ミッドナイト・イン・パリ」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2011年スペイン=アメリカ合作映画 監督ウッディー・アレン
ネタバレあり
相変わらず多作ウッディー・アレンの最新作はご贔屓「カイロの紫のバラ」(1985年)に近いファンタジー作品で、ジャズ・エイジ即ちフランスで言うレ・ザネ・フォル、及びその前のベル・エポックに関して通暁していればいるほど楽しめる。
小説を執筆中の売れっ子脚本家オーウェン・ウィルスンが金持ちの婚約者レイチェル・マクアダムズと(その両親)共にパリを訪れ、ある夜半一人で佇んでいるとクラシックな車が止まる。その車で連れて行かれた社交クラブで、彼はレ・ザネ・フォルの気分を満喫している著名人もどきに出くわす。
「偉大なギャツビー」を書き、その時代をジャズ・エイジと名付けた正に当人であるフィッツジェラルドその人、後に精神病院に送られる妻ゼルダも出て来る。映画の後半で彼女は自殺未遂をしているのも精神がおかしくなる事実を踏まえている。或いは、ウィルスンがヘミングウェイと称する人物に「全作品が好き」と述べると、彼はまだ一作しか書いていないことを暗に示す。フィッツジェラルドがパリにいた1926年に彼が処女作を発表したばかりだった史実通りである。ヘミングウェイがキリマンジャロへ行くエピソードは短編「キリマンジャロの雪」と結び付く。
そのうち主人公は彼らが彼が愛してやまないジャズ・エイジを生きた本人たちであることに気付いて仰天、翌日それをレイチェルに告げても相手にして貰えず、証拠を見せようとしても彼女はタイムスリップする車が訪れる時間まで待ち切れずに帰ってしまう。
ここで知り合うのがモディリアニの元恋人で今はピカソの愛人というアドリアナ(マリオン・コティヤール)。彼は婚約者より話の合う彼女が好きになってしまうが、その彼女と歩いていると馬車に乗せられて、今度は19世紀末から第一次大戦までを指すベル・エポックと時代は変わってしまう。
そう、フレンチ・カンカンで有名な“ムーラン・ルージュ”とロートレックで知られるあの時代で、勿論そのロートレックや“ムーラン・ルージュ”も出て来る。
主人公が1920年代に憧れるように、アドリアナが1890年代を文化黄金時代と信じ、そちらの時代の住人となってしまうと、次の日彼は婚約者と別れてパリに留まるのを決心しながら過去に戻ることを止める。そして、昼間何度か会話をした美術店員レア・セドゥと遭遇、新しい人生に踏み出す。
レ・ザネ・フォルの時代で出て来る人物で映画史的に興味深いのは、ダリ(エイドリアン・ブロディ)を介して一緒に前衛映画「アンダルシアの犬」を作った若きルイス・ブニュエルや写真家で前衛映画も幾つか撮ったマン・レイが登場することで、主人公がブニュエルに後年メキシコで作る「皆殺しの天使」のアイデアを授ける箇所まであって解る人には大いに楽しめるという次第。映画マニア、アレンらしいアイデアである。当時芸術家のミューズとして崇められたダンサー(後に歌手・女優になる)、ジョゼフィン・ベイカーもほんの僅か登場する。
そう言えば、主人公が雨のパリが好きなのは、フィッツジェラルドの「バビロン再訪」即ち「雨の朝巴里に死す」(映画で有名になって以来こちらが邦題としてよく知られる)と関連があるのは言うまでもない。タイムスリップした時フィッツジェラルドが最初に登場するのはむべなるかな。
恐らくアレン自身がその時代の有名な曲(当時のパリ故にコール・ポーターも登場する)を集めたBGMもゴキゲン。
ディテイルばかり書いてきたが、お話は主人公が苦痛や不安とは無縁の昔に憧れてばかりでは進歩がないことに気付き、今を直視するまでの紆余曲折を描いたもので、「カイロの紫のバラ」ほどリリカルではないが、自虐的なアレン自身が、自身の分身たる主人公を通してあの時代が大好きであることがよく解り、誠に微笑ましい。
アレン節健在!
2011年スペイン=アメリカ合作映画 監督ウッディー・アレン
ネタバレあり
相変わらず多作ウッディー・アレンの最新作はご贔屓「カイロの紫のバラ」(1985年)に近いファンタジー作品で、ジャズ・エイジ即ちフランスで言うレ・ザネ・フォル、及びその前のベル・エポックに関して通暁していればいるほど楽しめる。
小説を執筆中の売れっ子脚本家オーウェン・ウィルスンが金持ちの婚約者レイチェル・マクアダムズと(その両親)共にパリを訪れ、ある夜半一人で佇んでいるとクラシックな車が止まる。その車で連れて行かれた社交クラブで、彼はレ・ザネ・フォルの気分を満喫している著名人もどきに出くわす。
「偉大なギャツビー」を書き、その時代をジャズ・エイジと名付けた正に当人であるフィッツジェラルドその人、後に精神病院に送られる妻ゼルダも出て来る。映画の後半で彼女は自殺未遂をしているのも精神がおかしくなる事実を踏まえている。或いは、ウィルスンがヘミングウェイと称する人物に「全作品が好き」と述べると、彼はまだ一作しか書いていないことを暗に示す。フィッツジェラルドがパリにいた1926年に彼が処女作を発表したばかりだった史実通りである。ヘミングウェイがキリマンジャロへ行くエピソードは短編「キリマンジャロの雪」と結び付く。
そのうち主人公は彼らが彼が愛してやまないジャズ・エイジを生きた本人たちであることに気付いて仰天、翌日それをレイチェルに告げても相手にして貰えず、証拠を見せようとしても彼女はタイムスリップする車が訪れる時間まで待ち切れずに帰ってしまう。
ここで知り合うのがモディリアニの元恋人で今はピカソの愛人というアドリアナ(マリオン・コティヤール)。彼は婚約者より話の合う彼女が好きになってしまうが、その彼女と歩いていると馬車に乗せられて、今度は19世紀末から第一次大戦までを指すベル・エポックと時代は変わってしまう。
そう、フレンチ・カンカンで有名な“ムーラン・ルージュ”とロートレックで知られるあの時代で、勿論そのロートレックや“ムーラン・ルージュ”も出て来る。
主人公が1920年代に憧れるように、アドリアナが1890年代を文化黄金時代と信じ、そちらの時代の住人となってしまうと、次の日彼は婚約者と別れてパリに留まるのを決心しながら過去に戻ることを止める。そして、昼間何度か会話をした美術店員レア・セドゥと遭遇、新しい人生に踏み出す。
レ・ザネ・フォルの時代で出て来る人物で映画史的に興味深いのは、ダリ(エイドリアン・ブロディ)を介して一緒に前衛映画「アンダルシアの犬」を作った若きルイス・ブニュエルや写真家で前衛映画も幾つか撮ったマン・レイが登場することで、主人公がブニュエルに後年メキシコで作る「皆殺しの天使」のアイデアを授ける箇所まであって解る人には大いに楽しめるという次第。映画マニア、アレンらしいアイデアである。当時芸術家のミューズとして崇められたダンサー(後に歌手・女優になる)、ジョゼフィン・ベイカーもほんの僅か登場する。
そう言えば、主人公が雨のパリが好きなのは、フィッツジェラルドの「バビロン再訪」即ち「雨の朝巴里に死す」(映画で有名になって以来こちらが邦題としてよく知られる)と関連があるのは言うまでもない。タイムスリップした時フィッツジェラルドが最初に登場するのはむべなるかな。
恐らくアレン自身がその時代の有名な曲(当時のパリ故にコール・ポーターも登場する)を集めたBGMもゴキゲン。
ディテイルばかり書いてきたが、お話は主人公が苦痛や不安とは無縁の昔に憧れてばかりでは進歩がないことに気付き、今を直視するまでの紆余曲折を描いたもので、「カイロの紫のバラ」ほどリリカルではないが、自虐的なアレン自身が、自身の分身たる主人公を通してあの時代が大好きであることがよく解り、誠に微笑ましい。
アレン節健在!
この記事へのコメント
スペインの映画は見たことがないので見てみたいです。
ウッディー・アレンは元々アメリカの監督で、独自の作風の人ですから、スペイン映画らしさは一向に出ていないのですが、これはこれで面白いですし、他のスペイン映画も色々と良い作品があるので探してみると良いと思いますよ。
街角に立っているだけで、過去のパリに紛れ込めるなんていいですね。
若かりしヘミングウェイやフィツジェラルド・・・ダリ・・・
さすがはウディー!
ディカプリオの『華麗なるギャツビー』6月に公開されますが、レッドフォードに続いて2回目かと思ったら、過去にも3回、レッドフォードの後にもトビー・スティーヴンス主演で作られていて、5回目だそうで・・・
あの時代は、アメリカのバブル時代ですが、アメリカ人の憧れの時代なんですかね?
確かに、アレン本人が主役を演ずると、文字通り自虐性が強くあくが強くなりすぎる嫌いがありますが、他の役者に投影させると程良くマイルドになって良いです。
アレン自身が主役を演じたのでは、「ハンナとその姉妹」「マンハッタン」が好きですね。
>『華麗なるギャツビー』
正にその通りで、1958年に作られたTV映画を含めると6度目になります。
戦前に一回作られ、1949年にアラン・ラッド主演で作られた「暗黒街の巨頭」が二度目の映画化で、邦題のせいで解りませんが、日本で最初に公開された「ギャツビー」です。
こういう情報は、僕の本館“リメイク映画リスト”で解りますので、お暇な時にどうぞ^^