映画評「ムースの隠遁」
☆☆★(5点/10点満点中)
2009年フランス映画 監督フランソワ・オゾン
ネタバレあり
【三大映画祭週間2012】で紹介された作品で、WOWOWの紹介通り厳密には本邦劇場未公開映画扱いとなる。それでもフランスのサムライ監督フランソワ・オゾンの作品なので観ることにしたが、オゾンの二大傾向のうち「ぼくを葬る」などと同様に厄介なほうの作品である。
上流階級の息子メルヴィル・プポーが恋人イザベル・カレ(役名ムース)と一緒に質の悪いヘロインを吸引した結果死亡、彼女は病院で九死に一生を得ると同時に妊娠を告げられる。その後隠遁の為に越した昔の“パパ”の別荘に、葬儀の時に知り合ったプポーの弟ルイ=ロナン・ジョワジーがスペインへの旅の途上に訪れたのを歓迎。同性愛者である彼は彼女の地元の知人男性と早速懇ろになり、それでも彼女はそんな彼に好感を覚える。パリの病院で出産、約束通り彼が病院を訪れると、彼女は子育てに自信が持てず後を彼に託して病院を出て行ってしまう。
オゾンの一部の作品は僕のような左脳(理論)的人間には語り難い作品が多い。登場人物の行動が多分に感覚的だからである。
「ぼくを葬る」の映画評で、ホモで余命のない主人公が妊娠を望む既婚女性の相手をするモチヴェーションについて、“命を継ぐために”と断定的に書いたら「ゲイへの偏見に拠る解釈はやめてくれ」と文句を言われた。この部分は左脳的発想により書いたものだが、偏見は一切関係ない。彼らに偏見など持っていない。ストレートな僕には彼らの心情が解らないから誤解はあるかもしれないものの、それを偏見と言われたら映画や小説を読み違えたら全て偏見ということになってしまう。僕にとってのミスは断定的に書いたことで、レトリックと措辞をもう少し考えて書けばこんな嫌味なコメントは貰わずに済んだと思う。
いずれにしても映画を説明する上で左脳的モチヴェーションに抗し切れず、理由らしきものを書いたわけである。全然見当違いかもしれないが、案外そうであるかもしれない。実際のところ余命がない主人公をして何がそうさせたのかはオゾン以外に正確に解る人はいないのだ。しかし、それではつまらないから、頭をひねった。
思い付いたのは、自分の生きた証拠を残すこと。これが即ち【自分の命を繋ぐ】の正確な意味である。残念ながら僕の頭ではそれ以外に思い浮かばない。くどいようだが、そこに偏見はないし、これが偏見と言われる理由も皆目解らない。
本作はそのヒントになりそうでならないような作品である。ヒロインから「ゲイ(ホモ)も子供は欲しいの?」と聞かれたジョワジー演ずる人物は「どうかな」と答えを濁すが、彼の赤ん坊を愛おしそうに見つめ続ける様子からは、父性かはたまた母性か、とにかくそうしたものを見出さざるを得ない。
同性愛者と聞くオゾンが子供を設けること、育てることに関心を持っていることは確かで、これを証拠に「ぼくを葬る」の主人公が自分の死後に生れて来る子供に何かを見出したと解釈して何が悪い、と僕は反論したい。
オゾンに限らず、僕はこの手の作風は苦手で、お話自体も生活感情上の共鳴を得にくいが、場面の物理的明暗に彼女の心情を投影する意図が現れている点に表現上の工夫を認めたいものがある。
海岸でヒロインに絡んでくる変な女性にマリー・リヴィエールが扮しているのが面白い。遠目には「緑の光線」(1986年)の頃と余り変わっていない感じだ。
ぼくを葬ってオカピーの隠遁、はまだありません。
2009年フランス映画 監督フランソワ・オゾン
ネタバレあり
【三大映画祭週間2012】で紹介された作品で、WOWOWの紹介通り厳密には本邦劇場未公開映画扱いとなる。それでもフランスのサムライ監督フランソワ・オゾンの作品なので観ることにしたが、オゾンの二大傾向のうち「ぼくを葬る」などと同様に厄介なほうの作品である。
上流階級の息子メルヴィル・プポーが恋人イザベル・カレ(役名ムース)と一緒に質の悪いヘロインを吸引した結果死亡、彼女は病院で九死に一生を得ると同時に妊娠を告げられる。その後隠遁の為に越した昔の“パパ”の別荘に、葬儀の時に知り合ったプポーの弟ルイ=ロナン・ジョワジーがスペインへの旅の途上に訪れたのを歓迎。同性愛者である彼は彼女の地元の知人男性と早速懇ろになり、それでも彼女はそんな彼に好感を覚える。パリの病院で出産、約束通り彼が病院を訪れると、彼女は子育てに自信が持てず後を彼に託して病院を出て行ってしまう。
オゾンの一部の作品は僕のような左脳(理論)的人間には語り難い作品が多い。登場人物の行動が多分に感覚的だからである。
「ぼくを葬る」の映画評で、ホモで余命のない主人公が妊娠を望む既婚女性の相手をするモチヴェーションについて、“命を継ぐために”と断定的に書いたら「ゲイへの偏見に拠る解釈はやめてくれ」と文句を言われた。この部分は左脳的発想により書いたものだが、偏見は一切関係ない。彼らに偏見など持っていない。ストレートな僕には彼らの心情が解らないから誤解はあるかもしれないものの、それを偏見と言われたら映画や小説を読み違えたら全て偏見ということになってしまう。僕にとってのミスは断定的に書いたことで、レトリックと措辞をもう少し考えて書けばこんな嫌味なコメントは貰わずに済んだと思う。
いずれにしても映画を説明する上で左脳的モチヴェーションに抗し切れず、理由らしきものを書いたわけである。全然見当違いかもしれないが、案外そうであるかもしれない。実際のところ余命がない主人公をして何がそうさせたのかはオゾン以外に正確に解る人はいないのだ。しかし、それではつまらないから、頭をひねった。
思い付いたのは、自分の生きた証拠を残すこと。これが即ち【自分の命を繋ぐ】の正確な意味である。残念ながら僕の頭ではそれ以外に思い浮かばない。くどいようだが、そこに偏見はないし、これが偏見と言われる理由も皆目解らない。
本作はそのヒントになりそうでならないような作品である。ヒロインから「ゲイ(ホモ)も子供は欲しいの?」と聞かれたジョワジー演ずる人物は「どうかな」と答えを濁すが、彼の赤ん坊を愛おしそうに見つめ続ける様子からは、父性かはたまた母性か、とにかくそうしたものを見出さざるを得ない。
同性愛者と聞くオゾンが子供を設けること、育てることに関心を持っていることは確かで、これを証拠に「ぼくを葬る」の主人公が自分の死後に生れて来る子供に何かを見出したと解釈して何が悪い、と僕は反論したい。
オゾンに限らず、僕はこの手の作風は苦手で、お話自体も生活感情上の共鳴を得にくいが、場面の物理的明暗に彼女の心情を投影する意図が現れている点に表現上の工夫を認めたいものがある。
海岸でヒロインに絡んでくる変な女性にマリー・リヴィエールが扮しているのが面白い。遠目には「緑の光線」(1986年)の頃と余り変わっていない感じだ。
ぼくを葬ってオカピーの隠遁、はまだありません。
この記事へのコメント
地上波、頑張っております。
わかりやすくてよろしい。(笑)
興味はあるけど、なぜ同性にほれるのか?しょせんストレートにはわからん世界で、ねこのひげは、美人でかわいい女の子が好きですな。
>高倉健
今週は「網走番外地」特集みたいですね。
ゲイの問題については、過半数は性同一性障害が原因でしょうが、その他はもっと後天的なものと思われます。原因を探ると面白そうながら素人の僕には解りかねます。
僕も、単純な思考しかできないので、同性が好きになる要素はないですなあ。