映画評「007 スカイフォール」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2012年イギリス=アメリカ映画 監督サム・メンデス
ネタバレあり
シリーズ50周年記念作として作られた第23作。些か楽屋落ちすぎて若い人が楽しめるか不安であるが、シリーズをずっと観て来たオールド・ファンには受ける要素が多く、その一人として☆★を大量に進呈いたす次第。
トルコでの捕物に失敗してスパイ・リストを悪漢の手に渡してしまった007(ダニエル・クレイグ)は味方(ナオミ・ハリス)に撃たれ鉄橋から落ちて生死不明。そのまま暫くレイドバック(?)するが、上司M(ジュディ・デンチ)が危機に陥ると再び現れ、アルコール漬けでヨレヨレながら現場復帰、ハッキングを駆使してMI6を翻弄する元エージェントのシルヴァ(ハビエル・バルデム)と対峙する。
脚本は、様々な対照を全編に配してお遊び満点、純然たるスパイ・サスペンスとして面白いかどうかという点において多少疑問が残らなくもないが、以下に述べるような理由で大いに楽しんだ。
クレイグ・ボンド・シリーズはそもそもそれまでのマンガ的な007像を抜け出てリアリズムに立脚したタッチを特徴としていて、それはサム・メンデスが監督として採用された本作でも踏襲されている。
にも拘(かかわ)らず、本作は新旧を対照させ続けた挙句に過去へと戻ろうとする。確かに終盤過去に戻るが、昔の007スタイルには戻らずに、リアリズム・タッチはそのままにサイレント時代のようなスペクタクルを見せる。昔の映画の精神に戻る、と宣言しているような感さえある。
メンデスの撮り方もクラシックで、マーク・フォースターが流行の細切れカットを採用して失敗した前作「慰めの報酬」の轍を踏んでいない。
以上は映画の外側の話であるが、映画の内側では前半のITを駆使した対決、後半のアナログ的対決とコントラストをつけている。クラシックに帰ろうとする一方で、本作はコネリー・ボンドから色々と引用しつつ徹底的にそれに抵抗する。ショーン・コネリー時代の愛車アストン・マーティンが出て来てMに「椅子ごと飛ばして」と言わせたり、若すぎるQにコネリー時代に出てきた突拍子もない新兵器を揶揄させている。他の作品では前線に立つことのなかったMとQが前線で活動するのも珍しい。
アストン・マーティンが爆破され、女性Mが死んで男性Mが復活する。そして現場からデスク・ワーク職になったナオミ・ハリスが実はミス・マネーペニーと判明するに至り、本作はここでコネリー・シリーズと同じスタート・ラインに立ったことを本気で宣言するのである。
アストン・マーティンを筆頭に楽屋落ちすぎる所以であるが、登場人物たる女性大臣に「スパイは過去の遺物」とまで言わせ、作者は作劇の中でその反論を試み、進むべき方向性(古典に回帰するが、マンガには戻らない)を示しているとは言えないだろうか? 但し、シリーズがこの後実際にそう進むかは僕の関知するところではない。
気に入らないのは、「ダークナイト・ライジング」と同様、悪党の狙いが単なる個人の個人に対する復讐であり、その具体的戦略の大袈裟さとの乖離が目立って肩すかしであること。世界征服ではないのかい、ってなもんである。
スカイフォールはボンド氏の故郷の名前だったのね。
2012年イギリス=アメリカ映画 監督サム・メンデス
ネタバレあり
シリーズ50周年記念作として作られた第23作。些か楽屋落ちすぎて若い人が楽しめるか不安であるが、シリーズをずっと観て来たオールド・ファンには受ける要素が多く、その一人として☆★を大量に進呈いたす次第。
トルコでの捕物に失敗してスパイ・リストを悪漢の手に渡してしまった007(ダニエル・クレイグ)は味方(ナオミ・ハリス)に撃たれ鉄橋から落ちて生死不明。そのまま暫くレイドバック(?)するが、上司M(ジュディ・デンチ)が危機に陥ると再び現れ、アルコール漬けでヨレヨレながら現場復帰、ハッキングを駆使してMI6を翻弄する元エージェントのシルヴァ(ハビエル・バルデム)と対峙する。
脚本は、様々な対照を全編に配してお遊び満点、純然たるスパイ・サスペンスとして面白いかどうかという点において多少疑問が残らなくもないが、以下に述べるような理由で大いに楽しんだ。
クレイグ・ボンド・シリーズはそもそもそれまでのマンガ的な007像を抜け出てリアリズムに立脚したタッチを特徴としていて、それはサム・メンデスが監督として採用された本作でも踏襲されている。
にも拘(かかわ)らず、本作は新旧を対照させ続けた挙句に過去へと戻ろうとする。確かに終盤過去に戻るが、昔の007スタイルには戻らずに、リアリズム・タッチはそのままにサイレント時代のようなスペクタクルを見せる。昔の映画の精神に戻る、と宣言しているような感さえある。
メンデスの撮り方もクラシックで、マーク・フォースターが流行の細切れカットを採用して失敗した前作「慰めの報酬」の轍を踏んでいない。
以上は映画の外側の話であるが、映画の内側では前半のITを駆使した対決、後半のアナログ的対決とコントラストをつけている。クラシックに帰ろうとする一方で、本作はコネリー・ボンドから色々と引用しつつ徹底的にそれに抵抗する。ショーン・コネリー時代の愛車アストン・マーティンが出て来てMに「椅子ごと飛ばして」と言わせたり、若すぎるQにコネリー時代に出てきた突拍子もない新兵器を揶揄させている。他の作品では前線に立つことのなかったMとQが前線で活動するのも珍しい。
アストン・マーティンが爆破され、女性Mが死んで男性Mが復活する。そして現場からデスク・ワーク職になったナオミ・ハリスが実はミス・マネーペニーと判明するに至り、本作はここでコネリー・シリーズと同じスタート・ラインに立ったことを本気で宣言するのである。
アストン・マーティンを筆頭に楽屋落ちすぎる所以であるが、登場人物たる女性大臣に「スパイは過去の遺物」とまで言わせ、作者は作劇の中でその反論を試み、進むべき方向性(古典に回帰するが、マンガには戻らない)を示しているとは言えないだろうか? 但し、シリーズがこの後実際にそう進むかは僕の関知するところではない。
気に入らないのは、「ダークナイト・ライジング」と同様、悪党の狙いが単なる個人の個人に対する復讐であり、その具体的戦略の大袈裟さとの乖離が目立って肩すかしであること。世界征服ではないのかい、ってなもんである。
スカイフォールはボンド氏の故郷の名前だったのね。
この記事へのコメント
007は不滅!というところでしょうか。
過去の遺物というわりには、CIAの元職員が暴露したようなことも現実にありますからね。
映画でのヒロインの人気投票でエイリアンのリプリーが一番だそうです。
本数では「男はつらいよ」に譲るものの、映画史上一番長いシリーズですからね。
これも広い意味で“映画の為の映画”だったと思います。その点で今までにない面白さがありました。
>リプリー
さもありなん。
今、スーパーヒロイン映画が流行る源流を作ったのは「エイリアン」、そしてリプリーでしょうね。