映画評「青い鳥」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2008年日本映画 監督・中西健二
ネタバレあり
僕は緊張すると出る軽い吃音傾向がある。左脳人間で先生には向いているらしい。しかし、あがり症即ち緊張しやすいので、英語と世界史の1級資格を持っているものの、教職は取らなかった。本作の展開上の主人公は、そんな自分についてちょっと考えさせる、吃音症の教師・阿部寛である。
彼は、いじめにより自殺未遂事件があり当該生徒が転校した後の中学二年の代用教員として赴任してくる。強い吃音症だが、生徒の名前を数分で全て記憶する得意技を持っている。厳密には記憶の問題ではなく、生徒に寄りそおうという高い意識の表れである。そして、学期途中で転校した被害少年の机と椅子を持って来させ、毎朝「おはよう」と呼びかける。
一部の生徒は「罰か?」と反発し、校長・教頭は“臭い物には蓋”主義を露骨に示す。彼が校長から渡された生徒の反省文は校長が満足するまで書き直させられたものと同僚教師・伊藤歩から告げられる。つまり、形式主義のインチキである。
彼は援助を求めたのにいじめに加わった罪の意識に苦しむ生徒・本郷奏太に「机は罰ではなく、責任(を忘れさせない為)である」と真意を告げる。事件の後遺症を癒した担任教師が復帰した為彼は希望者に限り作文の書き直しをさせ、伊藤教師に「先生は教えることなどできない。そばにいてやるだけです」と言って学校から去っていく。
題名の“青い鳥”は学校が設けた悩み相談の目安箱で、良かれと思ってやっているにしろ、やはり形式である。その辺は「青い鳥って何ですか?」と疑問の形で投書する生徒の方が正鵠を得ている。指導者は教える相手に寄り添える者がなるべきである。これは為政者も同じで、困っている者に立場が近い者ほど正しくリードすることができる可能性が高い。
本作の主題はいじめとどう向き合うかである。
僕は自他共にいじめらしいいじめを経験していないので、実際のところはよく解らないのだが、本作でも示されているように、いじめている側といじめられている側との温度差が事件を大きくすると思われる。
いじめていた太賀君が「(相手は)笑っていたじゃないか」と本郷君に言う。笑っているから相手が大して感じていないという発想は著しく想像力を欠いていると言わなければならない。阿部教師曰く、「ふざけてしか本音を語れない者がいる」と。これこそ想像力のある者の発言である。吃音者であるから彼が何らかの意地悪をされてきたことは想像に難くない。そうした人間は、概して、他人の心情に思いを馳せることが出来る。原作者が彼を吃音者にしたのはいじめについて真剣に向き合う教師の言動に説得力を持たせる為である。
時代劇「花のあと」の中西健二の監督デビュー作で、落ち着いた風情は現代劇にも現れていて、大変好感が持てる。内容としては僕が中学生の時に始まった「中学生日記」の高級版みたいなところが無きにしも非ずだが、撮影は間違いなく映画レベルにある。
僕はあ行とさ行が苦手。自分の名前や挨拶は殆どあ行から始まるので、電話は苦手です。
2008年日本映画 監督・中西健二
ネタバレあり
僕は緊張すると出る軽い吃音傾向がある。左脳人間で先生には向いているらしい。しかし、あがり症即ち緊張しやすいので、英語と世界史の1級資格を持っているものの、教職は取らなかった。本作の展開上の主人公は、そんな自分についてちょっと考えさせる、吃音症の教師・阿部寛である。
彼は、いじめにより自殺未遂事件があり当該生徒が転校した後の中学二年の代用教員として赴任してくる。強い吃音症だが、生徒の名前を数分で全て記憶する得意技を持っている。厳密には記憶の問題ではなく、生徒に寄りそおうという高い意識の表れである。そして、学期途中で転校した被害少年の机と椅子を持って来させ、毎朝「おはよう」と呼びかける。
一部の生徒は「罰か?」と反発し、校長・教頭は“臭い物には蓋”主義を露骨に示す。彼が校長から渡された生徒の反省文は校長が満足するまで書き直させられたものと同僚教師・伊藤歩から告げられる。つまり、形式主義のインチキである。
彼は援助を求めたのにいじめに加わった罪の意識に苦しむ生徒・本郷奏太に「机は罰ではなく、責任(を忘れさせない為)である」と真意を告げる。事件の後遺症を癒した担任教師が復帰した為彼は希望者に限り作文の書き直しをさせ、伊藤教師に「先生は教えることなどできない。そばにいてやるだけです」と言って学校から去っていく。
題名の“青い鳥”は学校が設けた悩み相談の目安箱で、良かれと思ってやっているにしろ、やはり形式である。その辺は「青い鳥って何ですか?」と疑問の形で投書する生徒の方が正鵠を得ている。指導者は教える相手に寄り添える者がなるべきである。これは為政者も同じで、困っている者に立場が近い者ほど正しくリードすることができる可能性が高い。
本作の主題はいじめとどう向き合うかである。
僕は自他共にいじめらしいいじめを経験していないので、実際のところはよく解らないのだが、本作でも示されているように、いじめている側といじめられている側との温度差が事件を大きくすると思われる。
いじめていた太賀君が「(相手は)笑っていたじゃないか」と本郷君に言う。笑っているから相手が大して感じていないという発想は著しく想像力を欠いていると言わなければならない。阿部教師曰く、「ふざけてしか本音を語れない者がいる」と。これこそ想像力のある者の発言である。吃音者であるから彼が何らかの意地悪をされてきたことは想像に難くない。そうした人間は、概して、他人の心情に思いを馳せることが出来る。原作者が彼を吃音者にしたのはいじめについて真剣に向き合う教師の言動に説得力を持たせる為である。
時代劇「花のあと」の中西健二の監督デビュー作で、落ち着いた風情は現代劇にも現れていて、大変好感が持てる。内容としては僕が中学生の時に始まった「中学生日記」の高級版みたいなところが無きにしも非ずだが、撮影は間違いなく映画レベルにある。
僕はあ行とさ行が苦手。自分の名前や挨拶は殆どあ行から始まるので、電話は苦手です。
この記事へのコメント
これは左利きだったのをオフクロがみっともないからと右利きに直させたためのようです。
いじめられた側の恨みは深いですな。
戦争でも負けたほうはいつまでも恨みを忘れませんからね。
きのうから今朝にかけてペルセウス流星群のピークだったんですが、関東地方はゲリラ豪雨で見られませんでした。
今日も同じようです。
残念!
>軽い吃音
結構いらっしゃるようですね。
僕がいた営業部の同僚に二人いましたし、数年前に亡くなった元社長もそうでした。吃音でも社長になれるんだなあと励みになりましたよ。
>戦争
そうですね。
日本人が原爆を落としたアメリカに大した怨みを持っていないように思われるのは、きっとあっという間にやられてしまったからでしょう・・・?
>ペルセウス流星群
最近は早寝なのでどちらにしても見られませんでしたが、こちらも朝方雨が降っておりました。
二十分くらいまえ凄い雨でしたよ。また、庭の土が道路に流れてしまったでしょう。