映画評「ちゃんと伝える」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2009年日本映画 監督・園子温
ネタバレあり
園子温の作品としては極めて静的である。
高校の体育教師でサッカー部監督の奥田暎二が倒れる。高校時代部員として鍛えられた息子AKIRAは父親に対してわだかまりを抱いていたが、癌で先が長くないと知って毎日面会に行って話すうちに親しく会話できる関係になり、退院したアカツキには父親が偶然興味を持ち始めた釣りにでも一緒に行こうかという約束をする。
ところが、AKIRA本人にも胃癌のあることが判明し、若いだけに彼の方が先に死ぬかもしれないと宣告される。息子は父の為にそんなことがあってはならぬと父の早い死を望むようになる。そしてその祈りは通じて父親が先に死に、斎場に向かう途中約束を果たすべく湖に寄り道をしてしまう。
日常に戻ると、彼は高校時代から結婚を前提に付き合っている伊藤歩に自分の癌を知らせる。彼女はそれでも「結婚する」と答える。
本作の癌は記号である。だから、癌にしては患者の様子が変だの、病状が変だのなんてことは大した問題ではない。大事なのは登場人物の行動である。一般ドラマにおいて、その行動が心理学的に理に適っていない点は、きちんとおかしいと指摘しなければならない。
尤も、病気の進行具合が心理に影響を与えることも多いので医学的に不正確でも良いと断言はできず、その点において少々変だろうという思いがないでもない。かと言って常識外れとまでは行かず、主人公の「父親に早く死んで欲しい」という思いが父親への一番の親孝行であるというジレンマにかなり興味深いものを覚えさせれば一応の成功である。この辺り一見感動作のような構成になっているが、実はかなり実験性に富んでいるように感じる。
手法的にも、同じ場所を同じアングルから何度も映すのが興味深い。映されているものは同じなのに死病の父を抱え、自らも同じ病気になった主人公には異変が起きているということを観客に意識させ、一種の感慨を催させようという意図を感じるのである。それは、面会に行くためにいつも乗る奥田夫人の高橋惠子が乗って来ないというバス運転手の主観ショットによる“いつもと違う情景”により対比される。
しかし、残念ながらこれが園監督が狙ったであろうほど効果を上げていない。逆に、もっと大きくもたらされても良い感動が軽くなってしまったという印象を受ける。
主人公や父親は関係者に対し伝えなければならないことを持っている。それがしっかりできたのは主人公の恋人への告知のみである、というのが内容的に少々弱い。父親が真に伝えたかったことは結局僕等には解らない。
ただ、父子が病気を通じて多少なりとも心が通じ合い“約束”ができたのは双方の何らかの思いが伝わったと考えることもできるので、少し舌足らずの感があると雖も、その点について大きな不満を持つのは誤りのような気もするのである。
しかし、実際、この映画は僕にとっては無視できない、映画的にどうのこうの言う前に考えされられる内容が含まれていた。
一昨年敗血症で死んだ父親に「生意気だった」と謝ろうと思いつつ結局言葉として放つ前に他界されてしまったのだ。もう少し元気になったら言うつもりはあったのだが。「生意気で御免」と書いて棺に入れた紙は父の肉体と共に一緒に煙と灰になった。
それから、前に述べたように、2009年に急性膵炎で危うく死にかけた時死ななかったことだけがふつつかな僕の両親への最大の親孝行になったと思う。本作主人公の「先に死んでくれ」は父親の病気を進行させない配慮だろうが、底で通ずるものはあるだろう。
両親の死は僕の想像以上に重いものだった。
2009年日本映画 監督・園子温
ネタバレあり
園子温の作品としては極めて静的である。
高校の体育教師でサッカー部監督の奥田暎二が倒れる。高校時代部員として鍛えられた息子AKIRAは父親に対してわだかまりを抱いていたが、癌で先が長くないと知って毎日面会に行って話すうちに親しく会話できる関係になり、退院したアカツキには父親が偶然興味を持ち始めた釣りにでも一緒に行こうかという約束をする。
ところが、AKIRA本人にも胃癌のあることが判明し、若いだけに彼の方が先に死ぬかもしれないと宣告される。息子は父の為にそんなことがあってはならぬと父の早い死を望むようになる。そしてその祈りは通じて父親が先に死に、斎場に向かう途中約束を果たすべく湖に寄り道をしてしまう。
日常に戻ると、彼は高校時代から結婚を前提に付き合っている伊藤歩に自分の癌を知らせる。彼女はそれでも「結婚する」と答える。
本作の癌は記号である。だから、癌にしては患者の様子が変だの、病状が変だのなんてことは大した問題ではない。大事なのは登場人物の行動である。一般ドラマにおいて、その行動が心理学的に理に適っていない点は、きちんとおかしいと指摘しなければならない。
尤も、病気の進行具合が心理に影響を与えることも多いので医学的に不正確でも良いと断言はできず、その点において少々変だろうという思いがないでもない。かと言って常識外れとまでは行かず、主人公の「父親に早く死んで欲しい」という思いが父親への一番の親孝行であるというジレンマにかなり興味深いものを覚えさせれば一応の成功である。この辺り一見感動作のような構成になっているが、実はかなり実験性に富んでいるように感じる。
手法的にも、同じ場所を同じアングルから何度も映すのが興味深い。映されているものは同じなのに死病の父を抱え、自らも同じ病気になった主人公には異変が起きているということを観客に意識させ、一種の感慨を催させようという意図を感じるのである。それは、面会に行くためにいつも乗る奥田夫人の高橋惠子が乗って来ないというバス運転手の主観ショットによる“いつもと違う情景”により対比される。
しかし、残念ながらこれが園監督が狙ったであろうほど効果を上げていない。逆に、もっと大きくもたらされても良い感動が軽くなってしまったという印象を受ける。
主人公や父親は関係者に対し伝えなければならないことを持っている。それがしっかりできたのは主人公の恋人への告知のみである、というのが内容的に少々弱い。父親が真に伝えたかったことは結局僕等には解らない。
ただ、父子が病気を通じて多少なりとも心が通じ合い“約束”ができたのは双方の何らかの思いが伝わったと考えることもできるので、少し舌足らずの感があると雖も、その点について大きな不満を持つのは誤りのような気もするのである。
しかし、実際、この映画は僕にとっては無視できない、映画的にどうのこうの言う前に考えされられる内容が含まれていた。
一昨年敗血症で死んだ父親に「生意気だった」と謝ろうと思いつつ結局言葉として放つ前に他界されてしまったのだ。もう少し元気になったら言うつもりはあったのだが。「生意気で御免」と書いて棺に入れた紙は父の肉体と共に一緒に煙と灰になった。
それから、前に述べたように、2009年に急性膵炎で危うく死にかけた時死ななかったことだけがふつつかな僕の両親への最大の親孝行になったと思う。本作主人公の「先に死んでくれ」は父親の病気を進行させない配慮だろうが、底で通ずるものはあるだろう。
両親の死は僕の想像以上に重いものだった。
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