映画評「エンド・オブ・ウォッチ」
☆☆★(5点/10点満点中)
2012年アメリカ映画 監督デーヴィッド・エアー
ネタバレあり
モキュメンタリー恐怖映画の手法を応用した警察映画である。
映画は戦前からリアリティを目指してきたが、それを阻んできたのは観客の大衆的娯楽性への希求であったと思う。最近は逆で、観客がやたらにリアリティを求めるので、作者側がPOV(主観ショット)映画やモキュメンタリーという手法でこれに応えてきたが、ここにインチキがある。
カメラが揺れれば即ち現実的であるという観客の錯覚を利用した姑息な手法に過ぎない。さもなくば「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以降の、揺れる小汚い画面を垂れ流しているだけで怖くも何ともない作品が「怖い」と思われて評判を取る現象の説明がつかない。
本作の眼目はアメリカの中でも暴力的な犯罪が多発している地区(ロサンゼルスのサウスセントラル)をパトロールしている警官たちの日常をリアリティたっぷりに見せるということである。その狙いは見事に成功、ドキュメンタリーを観ている錯覚に陥る。
しかし、映画文法的に見ていくと、気になる点がある。
脚本と監督を担当したデーヴィッド・エアは、その狙いを実現するために、“揺れる画面”=”現実的”という公式を利用する。そこで主人公の一人であるジェイク・ギレンホールが試験の為に常にカメラを回しているという基本設定を考える。ところが、後半彼と相棒マイケル・ペーニャの二人が銃撃戦に関与する場面では誰もいないはずなのにいかにも主観ショットのように撮られている。犯罪者側も同じ。そこに若干の無理が出る。
全編揺れるカメラを貫徹するためにギレンホールの人物設定を考えたのだろうから、バランスの問題を別にすれば、トーンの一貫性という意味で間違っていない以上、こういう作りが成り立たないわけではない。ならば、場面と場面との間にごく一般的なエスタブリッシング・ショット(環境説明ショット=最近は場面の繋ぎに使うケースが多く、事実上の捨てショット)を置くのはどう説明したら良いのだろうか。トーンを一貫させようとしていると思われる部分と思われない部分とが同居して、僕のように映画文法的に見ることの多い人間には首をかしげざるを得ないのである。
しかし、世間の評判は頗るヨロシイ。この迫真性に多くの人が脱帽したということだ。これに対し僕は少し疑問を呈したい。
リアリティは重要であるが、こういう見にくい画面と引き換えにするのはどうか。リアリティを追うにしても、カメラの扱い方以外の部分による内容や演技の迫真性でこそ見せるべきであろう。昔、一部の映画人がリアリティを求めたのは映画の中で余りにひどい嘘がまかり通って来たからである。しかし、ここまでメジャー映画が来た今、逆に“上手く嘘を付くのも映画”という考えがもっと重視されて良い。
こちらは台風は無事過ぎたようです。皆様のところは如何ですか?
2012年アメリカ映画 監督デーヴィッド・エアー
ネタバレあり
モキュメンタリー恐怖映画の手法を応用した警察映画である。
映画は戦前からリアリティを目指してきたが、それを阻んできたのは観客の大衆的娯楽性への希求であったと思う。最近は逆で、観客がやたらにリアリティを求めるので、作者側がPOV(主観ショット)映画やモキュメンタリーという手法でこれに応えてきたが、ここにインチキがある。
カメラが揺れれば即ち現実的であるという観客の錯覚を利用した姑息な手法に過ぎない。さもなくば「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以降の、揺れる小汚い画面を垂れ流しているだけで怖くも何ともない作品が「怖い」と思われて評判を取る現象の説明がつかない。
本作の眼目はアメリカの中でも暴力的な犯罪が多発している地区(ロサンゼルスのサウスセントラル)をパトロールしている警官たちの日常をリアリティたっぷりに見せるということである。その狙いは見事に成功、ドキュメンタリーを観ている錯覚に陥る。
しかし、映画文法的に見ていくと、気になる点がある。
脚本と監督を担当したデーヴィッド・エアは、その狙いを実現するために、“揺れる画面”=”現実的”という公式を利用する。そこで主人公の一人であるジェイク・ギレンホールが試験の為に常にカメラを回しているという基本設定を考える。ところが、後半彼と相棒マイケル・ペーニャの二人が銃撃戦に関与する場面では誰もいないはずなのにいかにも主観ショットのように撮られている。犯罪者側も同じ。そこに若干の無理が出る。
全編揺れるカメラを貫徹するためにギレンホールの人物設定を考えたのだろうから、バランスの問題を別にすれば、トーンの一貫性という意味で間違っていない以上、こういう作りが成り立たないわけではない。ならば、場面と場面との間にごく一般的なエスタブリッシング・ショット(環境説明ショット=最近は場面の繋ぎに使うケースが多く、事実上の捨てショット)を置くのはどう説明したら良いのだろうか。トーンを一貫させようとしていると思われる部分と思われない部分とが同居して、僕のように映画文法的に見ることの多い人間には首をかしげざるを得ないのである。
しかし、世間の評判は頗るヨロシイ。この迫真性に多くの人が脱帽したということだ。これに対し僕は少し疑問を呈したい。
リアリティは重要であるが、こういう見にくい画面と引き換えにするのはどうか。リアリティを追うにしても、カメラの扱い方以外の部分による内容や演技の迫真性でこそ見せるべきであろう。昔、一部の映画人がリアリティを求めたのは映画の中で余りにひどい嘘がまかり通って来たからである。しかし、ここまでメジャー映画が来た今、逆に“上手く嘘を付くのも映画”という考えがもっと重視されて良い。
こちらは台風は無事過ぎたようです。皆様のところは如何ですか?
この記事へのコメント
うまくウソをつくで思い出しましたが、『フラッシュダンス』のあのダンスシーンは、ジェニファーが踊っているのではなく、男のダンサーが踊っているそうであります。
こういうのをうまい嘘というのでありましょうね。
台風8号は巻頭には影響はなかったようでありますね。
他の地方では酷かったところもあるようで・・・
お悔やみ申し上げます。
>男のダンサー
スタントは一種のSFXと思っていますが、SFXは映画的な嘘ですよね。
お話の方も、冷静に考えればありえんよと思うものも終わってからそう思うのは良い映画、観ている間にそう思わせたらダメな映画、と思います。
>台風8号
人間はとりあえず、自分と身内が安心ならホッとしてしまうんですよね。
他人のことを心配できる余裕のない人も多いのでしょう。