映画評「ゴジラ」(1954年版)
☆☆☆(6点/10点満点中)
1954年日本映画 監督・本多猪四郎
ネタバレあり
先日「パシフィック・リム」を余り褒めず、自分の中では怪獣映画としてより映画として批評したつもりであったが、「本音はこのジャンルが好きなのに、思うように作られていないのが不満なのではないか」と批判されてしまった。
僕が生涯に観た怪獣映画は十本に届くかどうか。その一番人気たる「ゴジラ」シリーズについてはこの第一作と続編「ゴジラの逆襲」しか観ていない。「怪獣映画はプロレスの乗りであるのが楽しいという通の仰る面白味が解らない」と、ジャンルとしての怪獣映画に対する僕の無関心を表白しているのに、どうしてそういうコメントを戴いたか全く理解できないのだが、いずれにしても僕の映画評スタイルを知らないことによる誤解と、僕自身の文才の問題に帰すると思われる。
さて、60周年ということですっかり綺麗にデジタル・リマスターされた画面が非常に清々しい。この映画については定評ができていて僕が改めて批評するまでもないと思うので、映画論的な角度からちょっと述べてみたい。
本作はそもそも怪獣映画の嚆矢と言えても、1954年の時点ではSF映画、それもレイ・ブラッドベリを原作に1953年にアメリカで作られた「原子怪獣現わる」のヴァリエーション(元ネタではない)に過ぎず、独自性について疑問は残る。しかし、アメリカにおいても先んじた「原子怪獣現わる」より知名度は高いであろうし、日本のサブカルチャーに与えた影響については否定のしようがない。
本作が日本人の核(兵器)への恐怖(特に第五福竜丸の被曝は東宝映画人に大きな影響を与えたと理解できる)から生まれたことは間違いなく、東宝特撮映画はこの後核風刺を何度も繰り返すことになる。また、戦後9年に作られた為にゴジラに襲われて逃げる人々に空襲を重ねて作った可能性も高い。ゴジラが驕る人間に対し怒れる自然の権化・象徴であるという見方もできるかもしれない。
一方で、核への風刺や、戦争への恐怖を怪獣という寓意の形で表現するのも結構だが、「だから良い映画なのだ」という考えは大間違いと言いたい。そこには純文学と大衆文学との差別と同じ意識が感じられる。大衆娯楽としてスタートしたはずの映画がそれで良いのかい、ということである。
本来この種のジャンル映画はドラマ部分に頼らず、極論すれば恐怖やサスペンスだけで押し通すくらいの作者側の度量、映画としての純度が欲しい。
しかし、本作の風刺にはジャンル映画としての部分の弱さを誤魔化すおためごかしは感じられない。本当に戦争や核兵器を怖がって作っている。だから、志村喬(古代生物学者)、その娘の河内桃子、その恋人たる宝田明(サルベージ屋)の場面などまるで黒澤明の映画を観ているようなくどさがあって気に入らなくても、なかなか面白く観られるので、これくらいの☆★は最低でも進呈したい気持ちにさせられるのである。
首相好みの経営陣営を揃えられて国営放送みたいになりつつあるNHKとしては、原発を推進する政府の政策と矛盾する作品ではないのかい、てな皮肉も言いたくなる放映でした。
1954年日本映画 監督・本多猪四郎
ネタバレあり
先日「パシフィック・リム」を余り褒めず、自分の中では怪獣映画としてより映画として批評したつもりであったが、「本音はこのジャンルが好きなのに、思うように作られていないのが不満なのではないか」と批判されてしまった。
僕が生涯に観た怪獣映画は十本に届くかどうか。その一番人気たる「ゴジラ」シリーズについてはこの第一作と続編「ゴジラの逆襲」しか観ていない。「怪獣映画はプロレスの乗りであるのが楽しいという通の仰る面白味が解らない」と、ジャンルとしての怪獣映画に対する僕の無関心を表白しているのに、どうしてそういうコメントを戴いたか全く理解できないのだが、いずれにしても僕の映画評スタイルを知らないことによる誤解と、僕自身の文才の問題に帰すると思われる。
さて、60周年ということですっかり綺麗にデジタル・リマスターされた画面が非常に清々しい。この映画については定評ができていて僕が改めて批評するまでもないと思うので、映画論的な角度からちょっと述べてみたい。
本作はそもそも怪獣映画の嚆矢と言えても、1954年の時点ではSF映画、それもレイ・ブラッドベリを原作に1953年にアメリカで作られた「原子怪獣現わる」のヴァリエーション(元ネタではない)に過ぎず、独自性について疑問は残る。しかし、アメリカにおいても先んじた「原子怪獣現わる」より知名度は高いであろうし、日本のサブカルチャーに与えた影響については否定のしようがない。
本作が日本人の核(兵器)への恐怖(特に第五福竜丸の被曝は東宝映画人に大きな影響を与えたと理解できる)から生まれたことは間違いなく、東宝特撮映画はこの後核風刺を何度も繰り返すことになる。また、戦後9年に作られた為にゴジラに襲われて逃げる人々に空襲を重ねて作った可能性も高い。ゴジラが驕る人間に対し怒れる自然の権化・象徴であるという見方もできるかもしれない。
一方で、核への風刺や、戦争への恐怖を怪獣という寓意の形で表現するのも結構だが、「だから良い映画なのだ」という考えは大間違いと言いたい。そこには純文学と大衆文学との差別と同じ意識が感じられる。大衆娯楽としてスタートしたはずの映画がそれで良いのかい、ということである。
本来この種のジャンル映画はドラマ部分に頼らず、極論すれば恐怖やサスペンスだけで押し通すくらいの作者側の度量、映画としての純度が欲しい。
しかし、本作の風刺にはジャンル映画としての部分の弱さを誤魔化すおためごかしは感じられない。本当に戦争や核兵器を怖がって作っている。だから、志村喬(古代生物学者)、その娘の河内桃子、その恋人たる宝田明(サルベージ屋)の場面などまるで黒澤明の映画を観ているようなくどさがあって気に入らなくても、なかなか面白く観られるので、これくらいの☆★は最低でも進呈したい気持ちにさせられるのである。
首相好みの経営陣営を揃えられて国営放送みたいになりつつあるNHKとしては、原発を推進する政府の政策と矛盾する作品ではないのかい、てな皮肉も言いたくなる放映でした。
この記事へのコメント
この作品は、オカピーさんもおっしゃっているように、ほんとうにゴジラを恐怖の象徴として見せることができていて、怪獣ファンでない人にも評価されています。
白黒だったというのがよかったのかもしれません。
後年の怪獣映画は、「ゴジラ」と違って子供向けなのが明らかなのに、高級ぶって無理に説教をつめこもうとするのが、寧ろ僕のような【何でも観る】派にはまだるっこくてつまらない理由になっているんですよね。
怪獣映画だから怪獣が戦うのを面白おかしく見せれば却って楽しい映画になるのに勿体なかったなあと思います。1960年代、どうせ篤志家を別にすれば映画評論家など怪獣映画を観はしなかったのですから。最近は少し事情が変わっています。
「ゴジラ」は良かったですよ。☆☆☆という評価は「ゴジラ」ファンには不満でしょうけどね(笑)。
はいっ、白黒のイメージは絶大です^^
先日映画館ロビーで会った映画知人に盛んに
ボヤく私に、知人(もち男性)がニコニコ顔で、
「ボクは嬉しくて仕方ないです、ゴジラもの」。
昨夜観た英国刑事ドラマでの台詞(女性)、
「男は競争させるか戦わせるかしておけばいいのよ」。
(^ ^);
ゴジラが身も軽やかにダンスしたりやたら巧い
歌なんか披露してくれる映画なんかだったら
もしかして(こそっと)観てもいいかな~なんて
思っているゴジラはじめ怪獣もの全くダメの私で
ございました。(笑)
「ゴジラ」第一作が作られて60年、そしてアメリカ版「ゴジラ」の公開(それ自体が60周年記念なのかな?)に合わせての特集なのでしょうけど、同じく怪獣映画が苦手な僕も歓迎はしておりません(笑)
一応保存はしました^^
>ダンス
後年のゴジラは大分軽くなったという評判ですが、ダンスはしていないようです(笑)
三日目にして続編が決定したそうであります。
ゴジラというのは荒ぶる神で自然の象徴というべきでありましょうが、今回のゴジラは初めてそれを理解して作られているようであります。
しかも、広島に落とした原爆は間違いであったと初めて認めた映画でもあるそうです。(町山さん曰く)
少なくとも第一作・第二作のゴジラはそういう扱いだったでしょうね。
次第に正義の味方になっていくようですが。
前回のアメリカ版「ゴジラ」は映画としても大味千万で「ゴジラ」以前の問題でしたが、今回は大分良くなっているようですね。
僕が観るのは大分先ですが。
町山智浩氏なら解るかもですね。