映画評「そして父になる」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2013年日本映画 監督・是枝裕和
ネタバレあり
先月7年前の旧作である「歩いても 歩いても」の映画評において、是枝裕和監督は小津安二郎のような名匠になるかもしれないと書いたが、満更見当外れでもないような印象を本作を見ると覚える。
時代が違うので、名匠と言っても小津がばんばん作っていた頃のような信者は出ないだろうし、そこまで作風に顕著な特徴はない。俳優の、特に子供の演技が頗る自然である、という特徴は特徴にならない。真似しようもない。しかし、小津が家と親子の問題に拘ったように是枝監督も親子の問題を扱っていくだろう。
建設会社のエリート社員・福山雅治と妻の尾野真知子は、彼女の実家のある前橋の病院から連絡があり、自分たちが6年間手塩にかけて育ててきた息子・慶太(二宮慶太)が、地元で電気店を営むリリー・フランキーと真木よう子の長男と入れ替えられていたことが判明する。
以降、二組のかなり対照的な夫婦の生活と子育て論を見せつつ、いかに二組の夫婦が直面した困惑を克服するかがアウトラインとしてのお話である。「歩いても 歩いても」が文字通り(過去の事件を別にすると)全く事件のないお話で、そうした謂わば真水の状態に過去の傷というインクを垂らしてじわじわと広げていくのとは対照的に、息子を選ぶ時に血を取るか過ごした時間を取るか、というこれほど過酷なものはない命題を最初から登場人物に突き付ける。観客はいやでもそこに思いを馳せざるを得ない。
勝ち組で二枚目の主人公はインテリらしいきちんとした(但し柔軟さには欠ける)子育てをしており、或いは引き取るかもしれない子供の相手夫婦のがさつな育て方は気に入らない。しかし、家の中でのキャンプなど、最終的には彼らの育て方に歩み寄っていったように見える。
だから映画が、一見、貧乏群馬夫婦のスキンシップ重視でかなり子供に甘い育て方が正しいと主張しているように感じられる(個人的には、群馬夫婦より東京夫婦の育て方の方が自分の考えに近い)が、違うような気がする。
彼ら特に主人公のインテリが迷っていた“血か時間(情)か”という選択そのものが不要なものなのだ、無理しないで行こう、という境地に主人公が達するまでを描くお話と僕は理解した。幾つか彼が劇的に変心するエピソードを用意しすぎている為に子育て論をめぐるお話のように見えても仕方がないが、実子・琉晴(黄升げん)と自分の家出のエピソードでは血による繋がりを、わざと子供を交換した看護婦の家における彼女の子供(再婚でできた義理の息子と思われる)との遭遇は時間による繋がりを示し、僕の理解もあながち間違っていないだろう。
「そして父になる」というタイトルは、「それまで父でなかった」と逆説的に主人公の教育論を否定しているようにも思える。しかし、もっと奥の深いものがあるのではないか。
リリー・フランキーの群馬父は関西弁を話し肩にささやかな刺青をしている。この辺の意図するところは何か? 父親以外の人が関西弁を話さない環境に居る子供は果たして関西弁を話すだろうか? その辺りは色々と想像すると面白いのだが、同時にひっかかるものがある。
演技陣は盤石。これまでの是枝監督作品同様、子供たちが奇跡的な演技を披露している。群馬夫婦の次男などは「誰も知らない」の小さな子供たち同様演技をしていず、どういう風に撮ったのか非常に興味深い。NHK教育「スイッチ・インタビュー」という興味深い番組に是枝監督が出演した回があったのだが、見落とした。もしかしたら参考になる話が聞けたかもしれない。
人生・社会は一元論・二元論で語れるほど単純ではない。最近の世相はそういう風になり、自分のものとは違う考えに極端な拒否反応を示す趨勢が出来つつあるけれど。
2013年日本映画 監督・是枝裕和
ネタバレあり
先月7年前の旧作である「歩いても 歩いても」の映画評において、是枝裕和監督は小津安二郎のような名匠になるかもしれないと書いたが、満更見当外れでもないような印象を本作を見ると覚える。
時代が違うので、名匠と言っても小津がばんばん作っていた頃のような信者は出ないだろうし、そこまで作風に顕著な特徴はない。俳優の、特に子供の演技が頗る自然である、という特徴は特徴にならない。真似しようもない。しかし、小津が家と親子の問題に拘ったように是枝監督も親子の問題を扱っていくだろう。
建設会社のエリート社員・福山雅治と妻の尾野真知子は、彼女の実家のある前橋の病院から連絡があり、自分たちが6年間手塩にかけて育ててきた息子・慶太(二宮慶太)が、地元で電気店を営むリリー・フランキーと真木よう子の長男と入れ替えられていたことが判明する。
以降、二組のかなり対照的な夫婦の生活と子育て論を見せつつ、いかに二組の夫婦が直面した困惑を克服するかがアウトラインとしてのお話である。「歩いても 歩いても」が文字通り(過去の事件を別にすると)全く事件のないお話で、そうした謂わば真水の状態に過去の傷というインクを垂らしてじわじわと広げていくのとは対照的に、息子を選ぶ時に血を取るか過ごした時間を取るか、というこれほど過酷なものはない命題を最初から登場人物に突き付ける。観客はいやでもそこに思いを馳せざるを得ない。
勝ち組で二枚目の主人公はインテリらしいきちんとした(但し柔軟さには欠ける)子育てをしており、或いは引き取るかもしれない子供の相手夫婦のがさつな育て方は気に入らない。しかし、家の中でのキャンプなど、最終的には彼らの育て方に歩み寄っていったように見える。
だから映画が、一見、貧乏群馬夫婦のスキンシップ重視でかなり子供に甘い育て方が正しいと主張しているように感じられる(個人的には、群馬夫婦より東京夫婦の育て方の方が自分の考えに近い)が、違うような気がする。
彼ら特に主人公のインテリが迷っていた“血か時間(情)か”という選択そのものが不要なものなのだ、無理しないで行こう、という境地に主人公が達するまでを描くお話と僕は理解した。幾つか彼が劇的に変心するエピソードを用意しすぎている為に子育て論をめぐるお話のように見えても仕方がないが、実子・琉晴(黄升げん)と自分の家出のエピソードでは血による繋がりを、わざと子供を交換した看護婦の家における彼女の子供(再婚でできた義理の息子と思われる)との遭遇は時間による繋がりを示し、僕の理解もあながち間違っていないだろう。
「そして父になる」というタイトルは、「それまで父でなかった」と逆説的に主人公の教育論を否定しているようにも思える。しかし、もっと奥の深いものがあるのではないか。
リリー・フランキーの群馬父は関西弁を話し肩にささやかな刺青をしている。この辺の意図するところは何か? 父親以外の人が関西弁を話さない環境に居る子供は果たして関西弁を話すだろうか? その辺りは色々と想像すると面白いのだが、同時にひっかかるものがある。
演技陣は盤石。これまでの是枝監督作品同様、子供たちが奇跡的な演技を披露している。群馬夫婦の次男などは「誰も知らない」の小さな子供たち同様演技をしていず、どういう風に撮ったのか非常に興味深い。NHK教育「スイッチ・インタビュー」という興味深い番組に是枝監督が出演した回があったのだが、見落とした。もしかしたら参考になる話が聞けたかもしれない。
人生・社会は一元論・二元論で語れるほど単純ではない。最近の世相はそういう風になり、自分のものとは違う考えに極端な拒否反応を示す趨勢が出来つつあるけれど。
この記事へのコメント
他者を認めるという寛容さというか曖昧さが日本人の良さだったのですが、最近はちょっとでも意見が違うと殺し合いにまで発展していくのがなんとも・・・・
なんの影響なんですかね~(≧◇≦)
現在の権利の流れから言えば当然の結果と思いますが、保守的な考えの人には問題でしょうなあ。
問題と言えば、最近の自民党の議員は、三権分立である意味頂点に立つ司法を馬鹿にしているところがありませんか? ゆゆしきことですよ、これ。
多分90年代にバブルがはじけ、韓国や中国に経済的に追いつかれ、それらの国から大昔のことをやいのやいの言われるうちに、大人たちが堪忍袋の緒を切るようになったのでしょう。上手く言えませんけど。
今は自国(日本)を誉めることが多くなっていますが、これも自信のなさの裏返しでしょうし、「空気読めない」なんて言葉や風潮も不寛容の現れですよね。