映画評「危険なプロット」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2012年フランス映画 監督フランソワ・オゾン
ネタバレあり
「主人公は僕だった」(2006年)で自分が創作に関するフィクション(映画に限らない)が好きなことに気付いた。それ以降も何作か創作に関する映画を観たが、フランソワ・オゾンが監督した本作は「主人公」ほどそれを眼目にしていない印象があるとは言え、匹敵する面白さである。
作家になるのを諦めて国語教師になったファブリス・ルキーニが限りなくダメな生徒ばかりの中にあって少年エルンスト・ウンハウアーに作文の才能を感じ、作文の指導をするうちに彼の書いてくる内容に引き込まれてしまう。
というお話で、その内容というのが、少年が数学の苦手な同級生バスティアン・ウゲット君の家に家庭教師として入り、そこで接した母親エマニュエル・セニエに対する性的関心を匂わせるもので、そこに学友や父親との関係も当然絡んでくる。
少年の作文が初めて映像として現れるまでのシークエンスは間違いなく客観的描写である。作文はどこまで真実であり、どこまで虚構であるか映画を観ている誰にも解らないように暫し進行する。終盤になってウゲット君が首吊りを図ったのが現実でないとルキーニ先生が確認することで虚構が多分に混じっていることが解るが、特に少年とエマニュエルとの関係は特に先生の想像をたくましくさせるものがある。先生自身が作文にあるまじき虚構を織り交ぜることを指導し、そのことにより作文は一種共同の創作活動へと変化していく。
ある程度現実をベースにしているから私小説的であるとは言え、危険な香りのするお話は観客をして虚実の狭間を歩ませる面白さに満ち、内容と相まって心理的に相当サスペンスフルである。
しかし、僕が面白いと感じた最大の理由はそこではなく、ウンハウアー君の書いたものをルキーニ先生が読むことにより、或いはアイデアを出すことにより、多くの場合先生の想像により場面が進行する為に、先生やウンハウアー君がいないはずの場面に登場する【第4の壁(映画や舞台で行われていることは真実であるという、作者と観客との間における暗黙の了解)】を破る異化効果が何か所も出て来ることである。
これはウッディ-・アレンの映画などでよく見られる異化効果とは目的が違い、文章への感想やアイデアを映像として表現する為に第4の壁を破る半ば必然的な理由が生まれていて、これが大変興味深いのである。
そしてこの作品は先生が首になる辺りから再び客観的描写に戻り、創作に関する本論が終了する。しかし、それだけで終わらずニヤリとさせる。アルフレッド・ヒッチコックの傑作「裏窓」(1954年)を思わせる覗きの描写により補完的に創作への秘訣が説明され、鮮やかに収束するのである。
映像的には平凡という意見を目にしたが、少し面白いショットの繋ぎがあるので紹介しておきたい。
ウンハウアー君が先生の奥さんクリスティン・スコット・トーマスを訪れる場面で(これ自体に創作方向を180度転換する面白さがあるのだが)、カメラはまず少年を横から捉える。凡庸な監督であれば、次のショットは少年の主観によるクリスティンのバストショットになるが、オゾンは彼女の側から(彼女の主観ではない)少年を見せるショットに繋いでいるので“おやっ”と思わされる、という次第。
ウンハウアー君は、40年前少女たちを夢中にさせた「早春」のジョン・モルダー=ブラウンを思い出させる。
オゾン氏、お主もサムライよのぉ。
2012年フランス映画 監督フランソワ・オゾン
ネタバレあり
「主人公は僕だった」(2006年)で自分が創作に関するフィクション(映画に限らない)が好きなことに気付いた。それ以降も何作か創作に関する映画を観たが、フランソワ・オゾンが監督した本作は「主人公」ほどそれを眼目にしていない印象があるとは言え、匹敵する面白さである。
作家になるのを諦めて国語教師になったファブリス・ルキーニが限りなくダメな生徒ばかりの中にあって少年エルンスト・ウンハウアーに作文の才能を感じ、作文の指導をするうちに彼の書いてくる内容に引き込まれてしまう。
というお話で、その内容というのが、少年が数学の苦手な同級生バスティアン・ウゲット君の家に家庭教師として入り、そこで接した母親エマニュエル・セニエに対する性的関心を匂わせるもので、そこに学友や父親との関係も当然絡んでくる。
少年の作文が初めて映像として現れるまでのシークエンスは間違いなく客観的描写である。作文はどこまで真実であり、どこまで虚構であるか映画を観ている誰にも解らないように暫し進行する。終盤になってウゲット君が首吊りを図ったのが現実でないとルキーニ先生が確認することで虚構が多分に混じっていることが解るが、特に少年とエマニュエルとの関係は特に先生の想像をたくましくさせるものがある。先生自身が作文にあるまじき虚構を織り交ぜることを指導し、そのことにより作文は一種共同の創作活動へと変化していく。
ある程度現実をベースにしているから私小説的であるとは言え、危険な香りのするお話は観客をして虚実の狭間を歩ませる面白さに満ち、内容と相まって心理的に相当サスペンスフルである。
しかし、僕が面白いと感じた最大の理由はそこではなく、ウンハウアー君の書いたものをルキーニ先生が読むことにより、或いはアイデアを出すことにより、多くの場合先生の想像により場面が進行する為に、先生やウンハウアー君がいないはずの場面に登場する【第4の壁(映画や舞台で行われていることは真実であるという、作者と観客との間における暗黙の了解)】を破る異化効果が何か所も出て来ることである。
これはウッディ-・アレンの映画などでよく見られる異化効果とは目的が違い、文章への感想やアイデアを映像として表現する為に第4の壁を破る半ば必然的な理由が生まれていて、これが大変興味深いのである。
そしてこの作品は先生が首になる辺りから再び客観的描写に戻り、創作に関する本論が終了する。しかし、それだけで終わらずニヤリとさせる。アルフレッド・ヒッチコックの傑作「裏窓」(1954年)を思わせる覗きの描写により補完的に創作への秘訣が説明され、鮮やかに収束するのである。
映像的には平凡という意見を目にしたが、少し面白いショットの繋ぎがあるので紹介しておきたい。
ウンハウアー君が先生の奥さんクリスティン・スコット・トーマスを訪れる場面で(これ自体に創作方向を180度転換する面白さがあるのだが)、カメラはまず少年を横から捉える。凡庸な監督であれば、次のショットは少年の主観によるクリスティンのバストショットになるが、オゾンは彼女の側から(彼女の主観ではない)少年を見せるショットに繋いでいるので“おやっ”と思わされる、という次第。
ウンハウアー君は、40年前少女たちを夢中にさせた「早春」のジョン・モルダー=ブラウンを思い出させる。
オゾン氏、お主もサムライよのぉ。
この記事へのコメント
いい映画でした。
『卒業』の監督マイク・ニコルズが亡くなりましたね。
高倉健さんといい、時代は過ぎ行くであります。
自分がジジィになっていくのを自覚することが増えてきましたです。
アメリカ映画でこういう面白い作品が出て来ないんですよ。
尤もフランス映画にも面倒臭い映画多くて困っているのも事実。
公開される数はぐっと少ないですが、最近のイタリア映画は良いです。
>マイク・ニコルズ
まあ50年も映画監督をやっている方ですから仕方がないですがねえ。
最近観ていなかったら「卒業」で追悼したいところでしたが、観たばかりでしたし。
>ジジィになっていく
そう言えば、僕より年下の兄嫁に「じいちゃんになったね」と露骨に言われてしまいました。髪が薄くなり、半纏を着て炬燵に入っていれば言われますわなあ。