映画評「地獄でなぜ悪い」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2013年日本映画 監督・園子温
ネタバレあり
十日ほど前に観た「愛のむきだし」では娯楽性を打ち出しながらも純文学的な縛りを振り解(ほど)けずにいる感のあった園子温は、この作品で遂にその縛りから抜け出たようである。一種の映画論を別にすれば、本作には面倒臭い理屈が見当たらずすっきりしていて、喜劇仕立てということもあり、終盤に陰惨なシーンが連続しながらもなかなか楽しく観られる。
ここに長谷川博己を監督とする4人組の自主映画グループがある。一方で、堤真一率いるヤクザと十年来抗争中であるヤクザ組長・國村隼とがいる。
國村は十年前の出入りで殺人を犯して服役中の愛妻・友近の念願を叶えようと、娘・二階堂ふみの主演する映画製作に乗り出すが、肝心の娘が男と逃げ出した為に計画が空中分解してしまう。あと十日で出所する妻の為に映画を作らなければならない國村は恋人らしき男・星野源といる娘を探し当て男の始末をつけようとしたところ、娘は実は通りすがりに過ぎない星野を映画監督と口から出まかせに紹介する。ひとまず命は長らえたものの映画製作のことなど微塵も知らない若者は必死で逃げ出すが、偶然自主映画グループの願掛けを発見、そこにあった番号に電話をかける。
交錯しないまま延々と並行進行する二グループが、映画が三分の二ほど進行した80分辺りでやっと交錯するわけで、こう回りくどくした狙いはあるのだろうが、交わるのが解り切っている以上長いことじりじりさせられるのは精神衛生上余りヨロシクない。全体として興味深く観たのは確かだから、ここをもっと整理して130分ものところを110分くらいの尺にしたら☆一つ余分に進呈できただろうに勿体ない。
「愛のむきだし」と共通するところは多々あるが、本作が「仁義なき戦い」(1973年)を筆頭とする任侠・ヤクザ映画にオマージュを捧げていることは明白であり、やはり70年代の邦画への傾倒を強く感じさせる。長谷川君が声をかける成海璃子が棒読みの台詞を吐くのも70年代かどうかはどもかく昔の映画を意識したものらしい。
僕が思っていた以上に園監督が映画フリークであることは、ご本人を限りなく投影したことが伺える劇中の監督の様子が見事に、苦笑が洩れるほどに、証明している。
最終的に、本物の映画を撮りたい自主映画グループがヤクザの実際の出入りを収録する中でも演出を意識するところが出て来るという映画作りのお話に収斂していく。つまり、本作は紛うことなき“映画の為の映画”であり、ヤクザな俳優と俳優になるヤクザが交錯するキム・ギドク原案の「映画は映画だ」(2008年)と同様に、映画製作にかかわる登場人物が映画における本当らしさと作りものらしさの間を終始揺曳し、我々映画好きの観客を巻き込んで進行する面白味がある。
“映画の為の映画”は必然的に入れ子構造になるわけで、幕切れで疾走する長谷川君に本当の監督かスタッフの声がかかるのはその最も確かな証拠であるが、その前に映画館での成功が劇中の監督の脳裏を横切る場面を現実扱いにすれば三重若しくはそれ以上の入れ子構造になりもっと嬉しくなったはず。これに関しては僕の趣味であって、園監督の感性との間の格差であるから仕方がないだろう。
元来園監督にはギドクに共通する匂いを感じていたので、終幕のもの凄いというかしっちゃかめっちゃかなバイオレンス描写を見ると、あたかもクエンティン・タランティーノがギドクに憑依して映画を作らせたような印象を覚える僕である。
「地獄は地獄だ」に改題しましょう。
2013年日本映画 監督・園子温
ネタバレあり
十日ほど前に観た「愛のむきだし」では娯楽性を打ち出しながらも純文学的な縛りを振り解(ほど)けずにいる感のあった園子温は、この作品で遂にその縛りから抜け出たようである。一種の映画論を別にすれば、本作には面倒臭い理屈が見当たらずすっきりしていて、喜劇仕立てということもあり、終盤に陰惨なシーンが連続しながらもなかなか楽しく観られる。
ここに長谷川博己を監督とする4人組の自主映画グループがある。一方で、堤真一率いるヤクザと十年来抗争中であるヤクザ組長・國村隼とがいる。
國村は十年前の出入りで殺人を犯して服役中の愛妻・友近の念願を叶えようと、娘・二階堂ふみの主演する映画製作に乗り出すが、肝心の娘が男と逃げ出した為に計画が空中分解してしまう。あと十日で出所する妻の為に映画を作らなければならない國村は恋人らしき男・星野源といる娘を探し当て男の始末をつけようとしたところ、娘は実は通りすがりに過ぎない星野を映画監督と口から出まかせに紹介する。ひとまず命は長らえたものの映画製作のことなど微塵も知らない若者は必死で逃げ出すが、偶然自主映画グループの願掛けを発見、そこにあった番号に電話をかける。
交錯しないまま延々と並行進行する二グループが、映画が三分の二ほど進行した80分辺りでやっと交錯するわけで、こう回りくどくした狙いはあるのだろうが、交わるのが解り切っている以上長いことじりじりさせられるのは精神衛生上余りヨロシクない。全体として興味深く観たのは確かだから、ここをもっと整理して130分ものところを110分くらいの尺にしたら☆一つ余分に進呈できただろうに勿体ない。
「愛のむきだし」と共通するところは多々あるが、本作が「仁義なき戦い」(1973年)を筆頭とする任侠・ヤクザ映画にオマージュを捧げていることは明白であり、やはり70年代の邦画への傾倒を強く感じさせる。長谷川君が声をかける成海璃子が棒読みの台詞を吐くのも70年代かどうかはどもかく昔の映画を意識したものらしい。
僕が思っていた以上に園監督が映画フリークであることは、ご本人を限りなく投影したことが伺える劇中の監督の様子が見事に、苦笑が洩れるほどに、証明している。
最終的に、本物の映画を撮りたい自主映画グループがヤクザの実際の出入りを収録する中でも演出を意識するところが出て来るという映画作りのお話に収斂していく。つまり、本作は紛うことなき“映画の為の映画”であり、ヤクザな俳優と俳優になるヤクザが交錯するキム・ギドク原案の「映画は映画だ」(2008年)と同様に、映画製作にかかわる登場人物が映画における本当らしさと作りものらしさの間を終始揺曳し、我々映画好きの観客を巻き込んで進行する面白味がある。
“映画の為の映画”は必然的に入れ子構造になるわけで、幕切れで疾走する長谷川君に本当の監督かスタッフの声がかかるのはその最も確かな証拠であるが、その前に映画館での成功が劇中の監督の脳裏を横切る場面を現実扱いにすれば三重若しくはそれ以上の入れ子構造になりもっと嬉しくなったはず。これに関しては僕の趣味であって、園監督の感性との間の格差であるから仕方がないだろう。
元来園監督にはギドクに共通する匂いを感じていたので、終幕のもの凄いというかしっちゃかめっちゃかなバイオレンス描写を見ると、あたかもクエンティン・タランティーノがギドクに憑依して映画を作らせたような印象を覚える僕である。
「地獄は地獄だ」に改題しましょう。
この記事へのコメント
まあ、よくやるワイ!というしかないところであります。
喜劇仕立てだけど、後味がさほど良くないのは残念。
映画の為の映画なら昨年末に再鑑賞した「ラムの大通り」みたいなのが良い、と思います。
タランティーノの映画みたいな後味でしたね。