映画評「プリズナーズ」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2013年アメリカ映画 監督ドニ・ヴィルヌーヴ
重要なネタバレあり。鑑賞予定の方は採点のみご参考のほどを。
「灼熱の魂」が神の存在を意識させる悲劇として僕を唸らせたドニ・ヴィルヌーヴの新作で、こちらはやはり神の存在を意識させながらもぐっと大衆的な観点から楽しめる犯罪映画。誘拐をテーマにしたアメリカ映画がタケノコのように作られている中断然優秀である。
ヒュー・ジャックマンとマリア・ベロが友人夫婦(テレンス・ハワード、ヴィオラ・デーヴィス)の家を訪れた感謝祭の日、目を離した隙に二夫婦の8歳と9歳の娘がいなくなってしまう。ホイッスルを家に取りに行くと出ていったのである。
二人の兄と姉が誘拐される前に謎めいた車を見たと告げた為、刑事ジェイク・ギレンホールはこの車に乗っていた若者ポール・ダノを逮捕する。また、刑事は、二人の安否を心配する近所の人々の集まりで不審な行動を取る若者も目撃、後日彼を逮捕したものの、変な遺物を残して拳銃自殺されてしまう。
警察を信用しないジャックマンは、証拠不十分で釈放されたダノを父親から譲られた古いビルに監禁するが、いくら痛め付けられても彼は二人の行方を告げない。
ところが、ハワード夫妻の娘が這う這うの体で発見され、監禁された家でジャックマンを見たと言う。それを聞いたジャックマンは監禁場所を把握して家に駆け付けるが、犯人即ちダノの“伯母”メリッサ・レオに察知されて無理に穴倉に閉じ込められる。彼女は焦って彼の娘を薬殺しようとし、そこへ行方不明(監禁)になっていた甥御さんが発見されたと告げに来たギレンホールに見つけられ、撃ち合いになって死ぬ。
ダノも自殺した男も彼女の被害者と判明。ギレンホールは他の犠牲者を捜すべく庭を掘り返すが収穫はない。しかし、作業者が帰った後ホイッスルの音が耳に届く。
ホイッスルに始まり、ホイッスルに終わる。上手い。ホイッスルだけで観客にその後の展開(=ジャックマンが救われること。そう思っていない人がかなりいるが、その少し前に彼がホイッスルを発見する前段をきちんと見せているので、三段論法的にそれ以外の結論は出て来ない。従って、これ以降を描くのは蛇足である)を予想させる幕切れに代表されるように、予想できることは描かない手法が徹底、余韻に酔わされて映画を観終えることになる。観客の想像力に任せている(映画なので嫌い)という発言は理解不足によるもの。この映画(の結論部分)にそうした両義的な解釈を許すところはない。
また、Allcinemaに「いい加減」と書かれているのを見たが、これも理解不足が原因だろう。ご都合主義的なところは幾つかあるものの、お話を進行させる為に最低限必要なご都合であって、いい加減と言われるほどのものではない。
多分にハワードの娘の言葉がジャックマンにとって何を意味したか(誘拐以降彼が訪ねた一般家屋は一軒であり、それが即ち犯人の家であること)を直感的に正確に理解できないと「いい加減」といった評価に繋がると思う。それが解らないとN氏のように「なんであの人(恐らく犯人のことだろう)に説明させちゃうのよ」になってしまうからである。但し、少女の台詞「この人がいた」の前に見せるフラッシュバックは台詞と結び付けるとあざとい(実質的に意味のない)ミスリードになるので僕としても少々気に入らない。反面、このフラッシュバック自体は、ミスリードどころか、少女たちが逃げ出す玄関先のサッシ・ドアから現場がメリッサの家であることを示している。よく見返さないと確認できない、不鮮明な短いショットであるが。
ホイッスルは天の配剤であった。ここから敷衍すると、この映画におけるプリズナーズ(囚われ人)は子供たちだけではない。この作品に出て来る人全てが、神(宗教)に囚われているのだ。
ジョン・レノンが名曲「神」の中で言った皮肉「神は自分の痛みを測る尺度(概念)である」は言い得て妙。この映画を観れば想起せずにはいられない。
2013年アメリカ映画 監督ドニ・ヴィルヌーヴ
重要なネタバレあり。鑑賞予定の方は採点のみご参考のほどを。
「灼熱の魂」が神の存在を意識させる悲劇として僕を唸らせたドニ・ヴィルヌーヴの新作で、こちらはやはり神の存在を意識させながらもぐっと大衆的な観点から楽しめる犯罪映画。誘拐をテーマにしたアメリカ映画がタケノコのように作られている中断然優秀である。
ヒュー・ジャックマンとマリア・ベロが友人夫婦(テレンス・ハワード、ヴィオラ・デーヴィス)の家を訪れた感謝祭の日、目を離した隙に二夫婦の8歳と9歳の娘がいなくなってしまう。ホイッスルを家に取りに行くと出ていったのである。
二人の兄と姉が誘拐される前に謎めいた車を見たと告げた為、刑事ジェイク・ギレンホールはこの車に乗っていた若者ポール・ダノを逮捕する。また、刑事は、二人の安否を心配する近所の人々の集まりで不審な行動を取る若者も目撃、後日彼を逮捕したものの、変な遺物を残して拳銃自殺されてしまう。
警察を信用しないジャックマンは、証拠不十分で釈放されたダノを父親から譲られた古いビルに監禁するが、いくら痛め付けられても彼は二人の行方を告げない。
ところが、ハワード夫妻の娘が這う這うの体で発見され、監禁された家でジャックマンを見たと言う。それを聞いたジャックマンは監禁場所を把握して家に駆け付けるが、犯人即ちダノの“伯母”メリッサ・レオに察知されて無理に穴倉に閉じ込められる。彼女は焦って彼の娘を薬殺しようとし、そこへ行方不明(監禁)になっていた甥御さんが発見されたと告げに来たギレンホールに見つけられ、撃ち合いになって死ぬ。
ダノも自殺した男も彼女の被害者と判明。ギレンホールは他の犠牲者を捜すべく庭を掘り返すが収穫はない。しかし、作業者が帰った後ホイッスルの音が耳に届く。
ホイッスルに始まり、ホイッスルに終わる。上手い。ホイッスルだけで観客にその後の展開(=ジャックマンが救われること。そう思っていない人がかなりいるが、その少し前に彼がホイッスルを発見する前段をきちんと見せているので、三段論法的にそれ以外の結論は出て来ない。従って、これ以降を描くのは蛇足である)を予想させる幕切れに代表されるように、予想できることは描かない手法が徹底、余韻に酔わされて映画を観終えることになる。観客の想像力に任せている(映画なので嫌い)という発言は理解不足によるもの。この映画(の結論部分)にそうした両義的な解釈を許すところはない。
また、Allcinemaに「いい加減」と書かれているのを見たが、これも理解不足が原因だろう。ご都合主義的なところは幾つかあるものの、お話を進行させる為に最低限必要なご都合であって、いい加減と言われるほどのものではない。
多分にハワードの娘の言葉がジャックマンにとって何を意味したか(誘拐以降彼が訪ねた一般家屋は一軒であり、それが即ち犯人の家であること)を直感的に正確に理解できないと「いい加減」といった評価に繋がると思う。それが解らないとN氏のように「なんであの人(恐らく犯人のことだろう)に説明させちゃうのよ」になってしまうからである。但し、少女の台詞「この人がいた」の前に見せるフラッシュバックは台詞と結び付けるとあざとい(実質的に意味のない)ミスリードになるので僕としても少々気に入らない。反面、このフラッシュバック自体は、ミスリードどころか、少女たちが逃げ出す玄関先のサッシ・ドアから現場がメリッサの家であることを示している。よく見返さないと確認できない、不鮮明な短いショットであるが。
ホイッスルは天の配剤であった。ここから敷衍すると、この映画におけるプリズナーズ(囚われ人)は子供たちだけではない。この作品に出て来る人全てが、神(宗教)に囚われているのだ。
ジョン・レノンが名曲「神」の中で言った皮肉「神は自分の痛みを測る尺度(概念)である」は言い得て妙。この映画を観れば想起せずにはいられない。
この記事へのコメント
ヒュー・ジャックマンはいいですね。
犯人のおばさんは子供の死により信心を失ったと言いながら、その本心は逆なのはジャックマンに対する罵詈で解ります。
そのジャックマンは事あるごとに神に願っていましたしね。
ラストのホイッスルに刑事が気が付くところで幕になってましたが、映画をずっと観てきてたら、あの刑事さんならきっと気がついたらケラーのことにも気がつく、と思えるんで、少なくとも私は思いましたから、ああ、あれで助かった、になりました。
ミステリーは、この映画では刑事ですが、探偵が謎解きしていく過程では、偶然にヒントが見つかることはよくありますし、またそういう偶然が重なったりしておはなしが盛り上がっていくもので、ミステリーならいいんじゃないかとなりますよね。
>ああ、あれで助かった、になりました。
それが、一定以上の読解力のある方の感想でしょう。これがそう思えないのはちょっと問題ですよね。映画として過不足ない作りだったと思います。
>またそういう偶然が重なったりしておはなしが盛り上がっていくもので
全く仰る通りです。そういう風に作らないと、話も進みません。