映画評「アクト・オブ・キリング」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2012年デンマーク=ノルウェー=インドネシア=イギリス合作映画 監督ジョシュア・オッペンハイマー
ネタバレあり
中学時代、僕と英語力で競い合っていた同級生(女性)は現在日本一のインドネシア語通訳と言われているようなのであるが、彼女はこの映画で描かれたことをよく知っているのだろう。いや、インドネシアは想像を絶する国でありました。
1965年9月にインドネシア国軍部隊のクーデターが起き、それを契機に華僑やインテリなど“共産主義者”100万人以上が殺された(この映画の意見、被害者の数は50万人から300万人の諸説あり)。実行したのは民兵で、彼らを指導したのは未だに権力を持つヤクザである。
加害者の報復を恐れている為被害者のコメントは一切出て来ないが、全編に渡って登場する二人の加害者は当時アメリカ映画の上映で金を稼いでいたので、こうした恨みもあって殺害を指揮していったらしい。彼らの場合、殺すか殺さないかの判断はある新聞社のトップが決めていたことも紹介されるが、こんなことは日本や欧米ではさすがに考えられない。カンボジアのポルポト派の虐殺にも通ずる東南アジアらしさがあるような気がして、ゾッとさせられる。多くの場合嬉々として話すのも不気味である。
映画としての面白さは、彼らが映画のダフ屋をしていたということもあるのか、自分たちのやったことを映画として再現しようとする(正確には監督がそう仕向けた)部分である。いい加減なものかと思いきや、インドネシア映画の水準から言えば劇場公開に値するような力作に見える。二人のうちの若い太ったほうが(恐らく腹がでているので)妊婦を演じた後何故か女装姿が多くなり、その彼を中心にシュールな場面を構成している(天国の意味だろうか?)正確な意図が不明である一方、彼らが自身を含む素人を演者に起用して再現する場面には、時に再現であることを忘れさせる迫真性のある瞬間まである。
フィクションであれば劇中劇と言うべきところだが、いずれにしても作り物を通して半世紀近い昔が眼前に現れるかのような錯覚を生んでいるのである。素人演出家、素人俳優恐るべし。
しかし、この映画を最後まで観た甲斐があったと思わせるのは、前半自慢げに嬉々として自分の非道を語っていた老人が、かつて残虐な殺しを行った現場で嘔吐することである。自分が被害者役を演じたことで、彼らに同調し、自分のやって来たことはあくまで正しいという認識が崩れたことにより罪の意識が芽生えた、より正確に言えば顕在化したのである。どんなふてぶてしい人間も、殺人という罪に関しては、異常者でない限り畢竟どこかに苦しみを抱いていることが、彼を見れば解ろうというものだ。
本作はどちらが悪とか善とか決めつけるドキュメンタリーではないが、殺人は人間が本能的に悪と意識する根源的な悪であろう。だから、殺人を犯した人間は、「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門を引用するまでもなく、被害者の霊に悩まされることになる。幽霊は加害者自身の心の顕れと言うことが出来ると思う。
本作について、作者がインドネシアを発言の自由がない国とでも思っているように感じられて不愉快、「この映画を観て被害者がどう思うか」と解ったような批判を加えている人がいるが、全く的外れで、(本作からも薄々と感じられるように)被害者の家族はヤクザである加害者たちの報復を心底恐れているのである。その被害者(の家族)たちが、監督の説得に応じて、出演する続編がこの夏公開されるらしい。言いたくても言えなかった被害者の気持ちが全く解っていないのは発言者の方と言うべし。例えば、唯一人本正編に出てきた被害者の子供が父親の死体にまつわる挿話を話す際に示す笑いは、報復の恐怖を知っているが故の笑いである。
インドネシアのヤクザさんは一見普通のおじさんでしたな。
2012年デンマーク=ノルウェー=インドネシア=イギリス合作映画 監督ジョシュア・オッペンハイマー
ネタバレあり
中学時代、僕と英語力で競い合っていた同級生(女性)は現在日本一のインドネシア語通訳と言われているようなのであるが、彼女はこの映画で描かれたことをよく知っているのだろう。いや、インドネシアは想像を絶する国でありました。
1965年9月にインドネシア国軍部隊のクーデターが起き、それを契機に華僑やインテリなど“共産主義者”100万人以上が殺された(この映画の意見、被害者の数は50万人から300万人の諸説あり)。実行したのは民兵で、彼らを指導したのは未だに権力を持つヤクザである。
加害者の報復を恐れている為被害者のコメントは一切出て来ないが、全編に渡って登場する二人の加害者は当時アメリカ映画の上映で金を稼いでいたので、こうした恨みもあって殺害を指揮していったらしい。彼らの場合、殺すか殺さないかの判断はある新聞社のトップが決めていたことも紹介されるが、こんなことは日本や欧米ではさすがに考えられない。カンボジアのポルポト派の虐殺にも通ずる東南アジアらしさがあるような気がして、ゾッとさせられる。多くの場合嬉々として話すのも不気味である。
映画としての面白さは、彼らが映画のダフ屋をしていたということもあるのか、自分たちのやったことを映画として再現しようとする(正確には監督がそう仕向けた)部分である。いい加減なものかと思いきや、インドネシア映画の水準から言えば劇場公開に値するような力作に見える。二人のうちの若い太ったほうが(恐らく腹がでているので)妊婦を演じた後何故か女装姿が多くなり、その彼を中心にシュールな場面を構成している(天国の意味だろうか?)正確な意図が不明である一方、彼らが自身を含む素人を演者に起用して再現する場面には、時に再現であることを忘れさせる迫真性のある瞬間まである。
フィクションであれば劇中劇と言うべきところだが、いずれにしても作り物を通して半世紀近い昔が眼前に現れるかのような錯覚を生んでいるのである。素人演出家、素人俳優恐るべし。
しかし、この映画を最後まで観た甲斐があったと思わせるのは、前半自慢げに嬉々として自分の非道を語っていた老人が、かつて残虐な殺しを行った現場で嘔吐することである。自分が被害者役を演じたことで、彼らに同調し、自分のやって来たことはあくまで正しいという認識が崩れたことにより罪の意識が芽生えた、より正確に言えば顕在化したのである。どんなふてぶてしい人間も、殺人という罪に関しては、異常者でない限り畢竟どこかに苦しみを抱いていることが、彼を見れば解ろうというものだ。
本作はどちらが悪とか善とか決めつけるドキュメンタリーではないが、殺人は人間が本能的に悪と意識する根源的な悪であろう。だから、殺人を犯した人間は、「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門を引用するまでもなく、被害者の霊に悩まされることになる。幽霊は加害者自身の心の顕れと言うことが出来ると思う。
本作について、作者がインドネシアを発言の自由がない国とでも思っているように感じられて不愉快、「この映画を観て被害者がどう思うか」と解ったような批判を加えている人がいるが、全く的外れで、(本作からも薄々と感じられるように)被害者の家族はヤクザである加害者たちの報復を心底恐れているのである。その被害者(の家族)たちが、監督の説得に応じて、出演する続編がこの夏公開されるらしい。言いたくても言えなかった被害者の気持ちが全く解っていないのは発言者の方と言うべし。例えば、唯一人本正編に出てきた被害者の子供が父親の死体にまつわる挿話を話す際に示す笑いは、報復の恐怖を知っているが故の笑いである。
インドネシアのヤクザさんは一見普通のおじさんでしたな。
この記事へのコメント
同級生だったヤクザさんたちも、確かに解りますねえ。本人は任侠と言っています。同窓会に白いベンツに白いスーツでやって来ました。二次会に移動の際にその車に乗りましたが、面白い経験でしたね。