映画評「カイロの紫のバラ」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1985年アメリカ映画 監督ウッディー・アレン
ネタバレあり
今月(2015年9月)勝手に催す【かつて映画館で観ました】シリーズ第3弾は、ウッディー・アレンが映画ファンに捧げたとでも言いたくなるファンタジー。
1930年代、ウェイトレスのセシリア(ミア・ファロー)は暴力わがまま亭主(ダニー・アイエロ)にうんざりして映画館に足しげく通っている。ある時「カイロの紫のバラ」という上流階級を描いた人生劇を観ていると、ギル・シェパード(ジェフ・ダニエルズ)という男優扮する探検家トム・バクスターが画面から抜け出て彼女を誘い出し、ここに思慕の関係が始まる。
という着想は「キートンの探偵学入門」(1924年)からの拝借で、実に上手く本歌取りしている。特に可笑しいのは、その他の登場人物がこれに大弱りしてお話の進行がストップ、これに退屈した観客とけったいなやり取りをする箇所や、バクスター探検氏が犯罪を犯したり他の映画館のバクスターが同じように抜け出したら困ると関係者が動揺して対策を練る箇所。
さらに、自分の演じたバクスターを探しにシェパードご本人が登場して交錯する辺りの面白味は絶妙で、その二人が揃って思慕することになる平凡な一主婦を巡って恋のさや当てを演じた末にヒロインが迎える幕切れに厳しい現実を示したアレンの才覚は誠に素晴らしい。つまり「映画は夢を与える道具であって、決して現実ではない」という“現実”が巧みに表現されているのである。
これはたくさん映画を観てきた人ならよく解る心情であろうし、まして1930年代の不況下に夫に虐げられる主婦の映画に夢を求めて逃避せざるを得ない心情を洞察すれば、単に洒落たファンタスティックなお話という理解で済ますのは勿体ない気がする。
アレンは、監督をハーバート・ロスに任せて脚本と出演だけで済ました「ボギー!俺も男だ」(1972年)という古い映画へのオマージュに満ちた作品を発表しているが、まだボギー(ハンフリー・ボガート)の作品をそれほど観ていない頃に鑑賞したので、さほど面白味が解らなかった。今観たらもっと楽しめるだろう。
「スコルピオンの恋まじない」(2002年)も1940年代の映画へオマージュを捧げた作品だろう。さほど評判にならなかったものの、個人的には、本作と同じくらい気に入っている。
1985年アメリカ映画 監督ウッディー・アレン
ネタバレあり
今月(2015年9月)勝手に催す【かつて映画館で観ました】シリーズ第3弾は、ウッディー・アレンが映画ファンに捧げたとでも言いたくなるファンタジー。
1930年代、ウェイトレスのセシリア(ミア・ファロー)は暴力わがまま亭主(ダニー・アイエロ)にうんざりして映画館に足しげく通っている。ある時「カイロの紫のバラ」という上流階級を描いた人生劇を観ていると、ギル・シェパード(ジェフ・ダニエルズ)という男優扮する探検家トム・バクスターが画面から抜け出て彼女を誘い出し、ここに思慕の関係が始まる。
という着想は「キートンの探偵学入門」(1924年)からの拝借で、実に上手く本歌取りしている。特に可笑しいのは、その他の登場人物がこれに大弱りしてお話の進行がストップ、これに退屈した観客とけったいなやり取りをする箇所や、バクスター探検氏が犯罪を犯したり他の映画館のバクスターが同じように抜け出したら困ると関係者が動揺して対策を練る箇所。
さらに、自分の演じたバクスターを探しにシェパードご本人が登場して交錯する辺りの面白味は絶妙で、その二人が揃って思慕することになる平凡な一主婦を巡って恋のさや当てを演じた末にヒロインが迎える幕切れに厳しい現実を示したアレンの才覚は誠に素晴らしい。つまり「映画は夢を与える道具であって、決して現実ではない」という“現実”が巧みに表現されているのである。
これはたくさん映画を観てきた人ならよく解る心情であろうし、まして1930年代の不況下に夫に虐げられる主婦の映画に夢を求めて逃避せざるを得ない心情を洞察すれば、単に洒落たファンタスティックなお話という理解で済ますのは勿体ない気がする。
アレンは、監督をハーバート・ロスに任せて脚本と出演だけで済ました「ボギー!俺も男だ」(1972年)という古い映画へのオマージュに満ちた作品を発表しているが、まだボギー(ハンフリー・ボガート)の作品をそれほど観ていない頃に鑑賞したので、さほど面白味が解らなかった。今観たらもっと楽しめるだろう。
「スコルピオンの恋まじない」(2002年)も1940年代の映画へオマージュを捧げた作品だろう。さほど評判にならなかったものの、個人的には、本作と同じくらい気に入っている。
この記事へのコメント
スクリーンから飛び出した主役の“彼”のキャラクターが捉えどころがなくて、それは現実じゃないからですが、いまいち入り込めないのも減点でしたね。
キートンのソレは有名な作品ですが未見です。
ラストショットがミア・ファローの名演技と絶賛しておりますMY記事、TBしました。
>ハッピーエンド
右に同じですが、映画の本質を捉えたという意味で、ビターエンドが良かったと思っています。
>“彼”のキャラクター
大衆映画の登場人物ですから、神の概念を持っていないのが面白かった。
この辺りもアレンらしいシニカルさでしょうか。
>キートン
あちらは、観客がスクリーンに入っていって往来するという設定で、本作とは逆でした。
>ラスト
nesskoさんも印象に残っているようです。
ただのビター・エンドにしなかったわけですね。
>ラスト
十瑠さんも同じところで感心されたようで、名ショット・名シーンというべきですね。
ビター・エンドの中に映画の効用を謳っているところは、さすがにアレンと言うべきでしょうか。
>フレッド・アステア
僕も好きな「トップ・ハット」でした。
妄想族としては、こういう夢を観ますな。
アレンご本人が出ないというのも好評の理由でしょうか(笑)
ウッディー・アレン監督作品の中でも特に好きな「カイロの紫のバラ」のレビューを目にし、コメントを述べさせていただきたいと思います。
この映画は、人間の孤独な心を優しく、温かいまなざしで見つめる人間凝視の秀作だと思います。
映画「カイロの紫のバラ」はウッディー・アレン監督自身が自作の中で好きな6本の内の1本として挙げていて、1985年度のゴールデングローブ賞の最優秀脚本賞、ニューヨーク映画批評家協会の最優秀脚本賞、カンヌ国際映画祭の国際映画批評家連盟賞、英国アカデミー賞の最優秀作品賞、最優秀オリジナル脚本賞、フランスのセザール賞の最優秀外国映画賞を受賞している秀作ですね。
映画の舞台は、1930年台の経済不況下のアメリカ・ニュージャージー。
失業中の夫に代わって、ウエートレスをして働くセシリア(ミア・ファロー)にとって唯一の心の支えとなり、淋しい心を癒してくれるのは映画館へ行って、今上映されている「カイロの紫のバラ」という映画を何回も繰り返し観る事でした。
フレッド・アステアの歌う永遠の名曲"ヘヴン"が流れるなか、セシリアが劇場の前でうっとりとした顔でポスターを見つめるという印象的なシーンから映画は始まります。
名画はその冒頭のシーンとラストシーンがいつも素晴らしく、映画ファンの心を虜にし、映画という虚構の世界でひと時の夢を与えてくれます。
1930年台といえば、ハリウッドがまさに"夢の工場"とも言われたミュージカル映画の黄金時代でしたが、当時のアメリカの人々は、大恐慌時代を経て、未だに苦しい生活を強いられており、そういう厳しい現実の生活から逃避出来る唯一の場所は、娯楽としての映画でした。
スティーヴン・スピルバーク監督が、「映画を観るという行為は現実の生活から離れ、ひと時の夢に酔う究極の逃避である」と語った事がありますが、この映画を観るという行為は、いつの時代になっても、究極の逃避であり、特に我々映画ファンと言うのは、元々淋しがり屋で孤独ですので、常に映画という虚構の世界に我が身を置いて、ヒーロー、ヒロインと同じ気持ちになって厳しい現実の自分から逃避しているのかもしれません。
セシリアは、今日も現実から逃れるようにして、「カイロの紫のバラ」という映画を観ていましたが、これが5回目である事に気付いた映画のヒーロー、トム・バクスター(ジェフ・ダニエルズ)は、劇の途中でスクリーンの中から飛び出して来て、映画の進行は止まり大騒ぎになりますが、そんな事はお構いなしに、映画のヒーロー、トムは何とセシリアに恋をしてしまうという奇想天外なお伽噺の世界が描かれていきます。
困惑した映画会社は、トムを演じるスターのギル・シェパード(ジェフ・ダニエルズ・二役)を動員してトムを映画の中へ連れ戻そうとしますが、そのギルもセシリアを愛してしまい、彼女と駆け落ちしようと言いだします。
全てを捨てて約束の場所で待つセシリア。
だがヒーローはその場所へやって来ません。
ヒーローが心変わりしたのか、それとも単なる口先だけの約束だったのか、それとも周囲の陰謀で来る事が出来なかったのか--------。
再びいつもの孤独な生活へと戻っていくセシリア----、紫色の夢が破れ、現実の厳しい生活が待っています。
こんなセシリアに対してウッディー・アレン監督は、素敵なラストシーンを用意しています。
哀れなセシリアをほんのひと時、映画の夢の世界に酔わせ微笑みを与えます。
まさしくウッディー・アレン流の優しいダンディズムが遺憾なく発揮されていますね。
傷心のセシリアが観ている映画は、ミュージカル映画の最高傑作と言われる「トップ・ハット」で、彼女は哀しみに沈みながら、映画の中で繰り広げられるフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの華麗な歌とダンスに魅せられて、再び幸福で豊かな気持ちになっていきます。
まさしくこの映画は、主人公のセシリアが映画の魔法の力で、再び生きる希望、勇気を見い出していく、"彼女の人生の再生のドラマ"であると思います。
そしてセシリアを演じるミア・ファローの思わず抱きしめたくなるような、儚い乙女心は実に切なく、人間の孤独感を見事に表現していたと思います。
また、彼女の孤独な心を優しく温かいまなざしで見つめるウッディー・アレン監督の人間凝視の奥深い演出は素晴らしく、彼の最高傑作だと思います。
我々映画ファンは、"映画という虚構の世界に憧れ、夢を馳せながら、映画によって自分自身と現実を認識し、映画という魔法の力で明日への生きる活力、希望、勇気を見い出していける"のだと思います。
映画を深い感動と静かな余韻の中で観終えて思う事は、ウッディー・アレン監督がこの映画で描いた、"悲観と楽観の間をたゆたう絶妙なバランス"は、我々映画ファンに"虚構の世界を楽しく遊ぶ、人生の豊かさを感じさせてくれ、そして、その豊かさの中にこそ本当の人生というものがある"のだという事を教えてくれているように思います。
>ウッディー・アレン監督作品の中でも特に好きな「カイロの紫のバラ」
>人間の孤独な心を優しく、温かいまなざしで見つめる人間凝視の秀作
いつもの自虐もなく、素敵な作品でしたね。
映画愛にも溢れ、映画ファンにとっては言うことなしでした。
>ミュージカル映画の最高傑作と言われる「トップ・ハット」
アステアとロジャーズのコンビ作は全部観ていますが、これが最高ですね。ブログを始めてから再鑑賞していないので、評はアップしていません。そろそろ時期ですかね(笑)。
この映画についてはmirageさんの分析と感想が完璧ですので、敢えて話題を変えますと・・・
スクリーンの外のことには余り関心のない僕が悔しくてならないのは、この後の、アレンとミア・ファローとの破局。
それに関連する理由が問題になって、現在コンプライアンスという名の下にアレンがひどい目に遭っていて、最新作がアメリカと日本で劇場公開されていませんね。結構うるさいイメージのある欧州では公開されたのですが。