映画評「チャップリンの独裁者」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1940年アメリカ映画 監督チャールズ・チャップリン
ネタバレあり
放浪紳士チャーリーの姿が見られる最後のチャールズ・チャップリンの映画である。
1930年代後半、ドイツに他ならないトメニアでは独裁者ヒンケル(チャップリン)が欧州の各国を侵略するとともにユダヤ人を排斥する政策を打ち立てる。
欧州征服の見果てぬ夢はゴム風船の地球で表現されていて、風船が破裂することで彼の野望がくじけることをチャップリンは予言する。世界征服の虚しさを鮮やかに表現した夢幻の美しさに満ちた名場面である。
排斥の対象であるユダヤ人の中に独裁者にそっくりの理髪師(チャップリン二役)がいて、彼は20年前の大戦末期に負傷してずっと入院していた為時代の変化を知らず、気付かないうちに突撃隊(親衛隊ですな)を愚弄する行動を取り、その様子を観ていた反骨精神のある娘ハンナ(ポーレット・ゴダード)と親しくなる。
彼らは20年前に理髪師が突撃隊長シュルツ(レジナルド・ガーディナー)を助けた恩人であることから優遇されるが、間もなく反逆罪で逮捕されるシュルツと共に追われる。
しかし、侵略したオストリッチでそっくりな二人は互いに間違えられ、理髪師が群衆の前で演説をぶつことになる。これが映画史上に名高い6分間の演説である。
映画は映像で訴えるものという考えから直截(ちょくせつ)的にすぎると批判の少なくない部分であるが、僕は言葉でしか表現できない場合はそうする価値があると思っている。ある意味実験的ですらあった。
というのも、これは理髪師の演説ではなく、チャップリン本人の演説であると理解できるからである。突然理髪師チャーリーがチャップリンに変身するのである。長年拘って来たサイレント手法から完全トーキー手法を取り、それまで大した台詞を放っていない理髪師が突然能弁に喋るところに、チャップリンのヒトラーへの危機感が強く打ち出されている。映画的なバランスを崩すことを恐れていない。
それでも喜劇として優れていなければダメだと思うが、序盤の砲弾がチャーリーを追ってくるくる回るという辺りの、日本喜劇人に大きな影響を与えた(と思われる)場面に始まり、飛行機がさかさまになっていることに気付かないことによる珍なる行動、ブラームスの「ハンガリー舞曲」に合わせての髭剃り場面の超絶技巧、ムッソリーニならぬナポロニ(ジャック・オーキー)との一連の背比べに見るヒンケルの劣等意識の表現など、上等なお笑いが満載、大いに笑わせて貰える。
チャップリンが本作に取り掛かったのは1939年9月。まだヒトラーの政策が正確に知られていず、アメリカがドイツとの戦争に関わっていない時期に、その核心まで、それもかなり正確に、突っ込んだ内容になっているのは驚異的。皆さん同じようなことを仰るので面白くないが、事実だから仕方がない。
そっくりであることは多くの場合喜劇で扱われるが、現実では悲劇になりうる。本作の場合、ギミックに留まらず、「民族の違いと言っても実際には区別など付かない。何と馬鹿げたことか」というヒューマニストの叫びでもある。
40年ぶりくらいの2回目。何故か遠慮してしまうチャップリン作品であった。
1940年アメリカ映画 監督チャールズ・チャップリン
ネタバレあり
放浪紳士チャーリーの姿が見られる最後のチャールズ・チャップリンの映画である。
1930年代後半、ドイツに他ならないトメニアでは独裁者ヒンケル(チャップリン)が欧州の各国を侵略するとともにユダヤ人を排斥する政策を打ち立てる。
欧州征服の見果てぬ夢はゴム風船の地球で表現されていて、風船が破裂することで彼の野望がくじけることをチャップリンは予言する。世界征服の虚しさを鮮やかに表現した夢幻の美しさに満ちた名場面である。
排斥の対象であるユダヤ人の中に独裁者にそっくりの理髪師(チャップリン二役)がいて、彼は20年前の大戦末期に負傷してずっと入院していた為時代の変化を知らず、気付かないうちに突撃隊(親衛隊ですな)を愚弄する行動を取り、その様子を観ていた反骨精神のある娘ハンナ(ポーレット・ゴダード)と親しくなる。
彼らは20年前に理髪師が突撃隊長シュルツ(レジナルド・ガーディナー)を助けた恩人であることから優遇されるが、間もなく反逆罪で逮捕されるシュルツと共に追われる。
しかし、侵略したオストリッチでそっくりな二人は互いに間違えられ、理髪師が群衆の前で演説をぶつことになる。これが映画史上に名高い6分間の演説である。
映画は映像で訴えるものという考えから直截(ちょくせつ)的にすぎると批判の少なくない部分であるが、僕は言葉でしか表現できない場合はそうする価値があると思っている。ある意味実験的ですらあった。
というのも、これは理髪師の演説ではなく、チャップリン本人の演説であると理解できるからである。突然理髪師チャーリーがチャップリンに変身するのである。長年拘って来たサイレント手法から完全トーキー手法を取り、それまで大した台詞を放っていない理髪師が突然能弁に喋るところに、チャップリンのヒトラーへの危機感が強く打ち出されている。映画的なバランスを崩すことを恐れていない。
それでも喜劇として優れていなければダメだと思うが、序盤の砲弾がチャーリーを追ってくるくる回るという辺りの、日本喜劇人に大きな影響を与えた(と思われる)場面に始まり、飛行機がさかさまになっていることに気付かないことによる珍なる行動、ブラームスの「ハンガリー舞曲」に合わせての髭剃り場面の超絶技巧、ムッソリーニならぬナポロニ(ジャック・オーキー)との一連の背比べに見るヒンケルの劣等意識の表現など、上等なお笑いが満載、大いに笑わせて貰える。
チャップリンが本作に取り掛かったのは1939年9月。まだヒトラーの政策が正確に知られていず、アメリカがドイツとの戦争に関わっていない時期に、その核心まで、それもかなり正確に、突っ込んだ内容になっているのは驚異的。皆さん同じようなことを仰るので面白くないが、事実だから仕方がない。
そっくりであることは多くの場合喜劇で扱われるが、現実では悲劇になりうる。本作の場合、ギミックに留まらず、「民族の違いと言っても実際には区別など付かない。何と馬鹿げたことか」というヒューマニストの叫びでもある。
40年ぶりくらいの2回目。何故か遠慮してしまうチャップリン作品であった。
この記事へのコメント
面白く笑わせてくれるのに、作者の主張もストレートに伝わってくるのがチャップリンの凄さでしょうか。
当方も★五つです。
>意味の分からない言葉
ヒンケルことヒトラーの言っていることは全く理解できない、という揶揄かもしれませんね。
同時に、それ以外の英語が“なんちゃってトメニア語”であることの布石でもありましょう。
最後の演説は正にチャップリンその人の演説。それ自体も僕には感動的でしたね。
この「独裁者」と「殺人狂時代」になると、チャップリンの殺気も凄まじいばかりです。つねづね思っているんですが、「モダン・タイムズ」以降10年あまりの3作品の飛躍も凄いですよね。
ただ、過ちの繰り返しからこうなってしまうんでしょうけれど、つまり正義の連合軍(国際連合)の時代に戦中の枢軸国と同じ矛盾が国際社会に存在するということなのかもしれませんが、本来は人類史的に観れば①「モダン・タイムズ」のあとに②「殺人狂時代」、そこから③「独裁者」に移っていく順番だと思います。
わたしは、ついドロン作品と比較してしまうんですが、①「若者のすべて」⇒②「太陽はひとりぼっち」⇒③「パリの灯は遠く」(これはゴダールが絶賛しているドロン3作品です(笑))となります。チャップリンは②がいささか深掘りしきれずに、逆に直接的すぎたように思いますが・・・。
今、日本は・・・世界は・・・どの時代なんでしょうね?
わたしは、早く、全人類的な④「パリは燃えているか」の時代が来ることを強く願ってしまいますよ。
では、また。
>人類史的に観れば
そうかもしれませんが、チャップリンとしては、終戦という現実に即して、勝利に湧くアメリカ国民に対して「頭を冷やせよ」と言おうとしたのではないでしょうか。
多分こうしたチャップリンの姿勢が、間もなく始まるマッカーシズムの犠牲となる原因であったのでしょう。俗に【赤狩り】などと言われていますが、実際には先鋭的な自由主義者が対象だったわけですよね。
とにかく、彼は戦争が嫌いでした。
>「パリの灯は遠く」
本作の外見の類似に対し、同じ名前による悲劇ということで、最後の最後まで残っていたのですが、脱稿(笑)の際に削ったのでした。
>どの時代
大国家間の戦争ではなく、文明国対テロとの戦いが進行中であると考えれば、人類史上例がないわけであるし、宗教戦争と考えれば「モダン・タイムス」より前の中近世に戻ってしまった感じですが、その為に大国が手を組もうとしている図式は「パリは燃えているか」の時代に近づいていることも思わせますね。
しかし、テロとの戦いは都市圏におけるエアコン使用みたいです。使うことにより使う必要性が増していき、その循環が続く。いつか止めないといけません。
(アメリカの)戦争が始まる前に本作を作り、戦争が終わって「殺人狂時代」を作る。
言わねばならないという思いが強かったのでしょうね。